ネタ帳 2

文字数 11,593文字

ぶるぶるぶるぶるぶる
ズボンの中でくすぐったく動く携帯電話。いきなり現実に引き戻される。少し驚いて「うわあ」と声を漏らす。へんなもの開発するなよ。便利だから使っているけど、いやな思いをするんだ。ほら、声を聞いて、こっちをみんなチラッと見た。興味の視線、その興味に対して損したというような悪意のある視線、「黙れ!」という暴力的な視線。せっかく他のことを考えて電車の中の現実から逃れていたのに、呼び戻された。視線を気にして恥辱と恐怖で胸を高鳴らせながら、携帯電話を開いてみると、メールだった
FROM:奈々子 件名:次です 本文:乙カレー、次の駅で待ってるよ。降りてね
過ぎ去る窓からの景色を見た。こういった偶然をこんな時に使いたくなかったが、見たとたん、見覚えがある「いろり」と書かれた赤い電飾看板が見えた。次の駅で降りないといけない。
電車が停車すると、押し出されるように、色々な人たちと電車から降りた。一緒に降りたからといって、その場で点呼をとって、お互いを確認なんてすることも無く、みんなは今まで電車内の人たちと一緒に時間を過ごしたことを、まるで無駄な時間を過ごしたかのように、損したような気持ちでバラバラで、無駄な時間を取り戻すために、急いでその場をあとにする。
「やっぱりGPS付き携帯って便利だね。山手線ぐるぐる回ってるのがすぐわかったよ。さあ、ミッキー、一緒に帰ろうよ。」
奈々子は僕のことをミッキーと呼ぶ。三好だからミッキーなのだろうけど、正直なところ、とても嫌だ。しかし、ミッキーと呼ぶ奈々子は綺麗な人間の姿に見える。彼女の声は大きくて、遠くからでも聞こえるけど、「ミッキー」なんて言葉だと、いちいち街行く化け物が勝手に反応して僕の姿をちらりと見て、いつも、みんな損したように顔を逸らす。僕は何も悪くないのに、勝手につまらないものに対する悪意みたいなものを持たれる。それに、奈々子はキャバクラ嬢しているだけあって、多少、華があり、メイクも手伝って、無個性だが夜の街では可愛く見える。今日も紫と桃色が混ざった色のヒラヒラとした派手な服を着ている。髪も金色に盛り上がっている。たぶん仕事帰りなのだろう。ふわっと、いい匂いがして、奈々子の存在は面倒くさいが、貧血を起こすぐらい血が下半身に下がっていき、はちきれんばかりに勃起した。
「あー、ミッキー、ちんちん大きくしてるでしょう?今日はちゃんと入れてよね!」
「ミッキー」と「ちんちん」ほどかけ離れた言葉はない。おそらく浦安から新宿二丁目までの距離があるだろう。それを平気で同列に並べることが出来る奈々子は、痛い女だ。いつもそうだ、ケラケラと人前で言うべきないことを平気で言う。それを本人は素直でかわいいと思っている。人間らしさについて、彼女は何か勘違いしているのだ。僕は恥ずかしくなったし、そういう下品なのは嫌いなので、反吐が出るぐらい不愉快で仕方ないのだが、頭からずっと下の僕のピストルはズボンの中で存在感を増し、歩きづらくなるぐらい硬直したままだ。漫才の後はとくにそうだ。意味が分からないのだが、漫才終わって、ちょっと経って、気が抜けた頃、「風が吹く」とか「まぶしい光を見る」とか無意識をやさしく揺するようなきっかけがあれば、瞬間湯沸かし器のように、性欲がマグマのように沸騰し、いきり立ち、理知的な精神を圧倒し、数回射精するまで勃起が止まらなくなる。いつも釘を打てるぐらいペニスがカチカチになっている。強情なペニスが君臨すると、いっつも、異常な、よだれを垂らして猛り狂う野獣のような性欲が体中を支配する。脳の奥は涼しくて、しかし、脳の表面は年に一度の祭りのように鼓動し、炭酸が泡立つような欲求が吹きこぼれている。体もつられて、肌の裏がむずむずとして、骨が熱くなり、はちきれんばかりに、暴力的な性欲の解消、泣き叫ぶ女をぐったりするまでビンタして無理やりペニスを押し込む残忍なレイプとかそんなのを希望してくる。それは喉の渇きより酷く、狂おしく、歯茎が熱気ではれるほどやりきれなく、時には駅のトイレに入って自分の手で処理しないと街を歩けないぐらいの酷いものになる。何度か、射精する前の理性を失いかけた自分の野獣のような顔を便所の鏡で見て、一目で解るほどの性犯罪者予備軍の顔つきにぞっとした。目が完全にイってるし、口元が不自然なことになっている。ピントがボケたように顔のパーツが、顔からずれようとする気味が悪い顔だ。これはヤバイなといつも思う。だから迎えに来てくれる奈々子はホントに便利な女だ。急いで人の多い駅を出て、なるべく人の少ない路地を選んで歩く。
「・・そういえば、さっき、はるちゃんを見たよ・・。」
欲情の収まりは無いが、脳の奥の冷静さが、言動をを常識的なものにしようとする。話すべき言葉が見つからなかったが、単純に思いついた事を口に出してみようとする。そこで、ようやく声が出た。僕はいつも奈々子に会うと、なんだか力が抜け切ったような、自分でも聞こえないぐらいの小さな声から話し始める。
「えっと、誰それ?」
「・・三歳ぐらいの、いつも話してる・・。」
「あー、あの、知らない子供のところに行っては「遊ぼうよ」ってしつこくつきまとうナンパ坊やね。また会ったんだ・・あっ!それってもしかして、子供欲しいっていうアピールしてるの?ちょっと、あせんないでよ。まだ部屋にも着いてないのに。」
僕はただ、今日あったことをささやかに辿ろうとしてるのに、奈々子はそれを、セックスの前ふりにしか捉えなかった。小さな可愛い無邪気な子供が、スポーツ新聞読んでいる知らないおっさんの勃起したペニスで中途半端にビンタされたような、情けない気持ちになった。もう駄目だ。僕は、ここで会話を放棄した。その後は、無言で歩くしかなかった。
しっかりと手を繋いでいた。傍から見れば仲の良いキャバクラ嬢と間抜けなお客なのだが、本当は、僕は町に取り残されないように、迷子にならないように、必死に手を握り、彼女の後をついて行った。僕はそこまで有名になっていたわけではなかったが、彼女にサングラスとマスクを取り付けられた。不思議なことだが、夜の街でサングラスをかけると、あれだけいた化け物が居なくなり、普通の人が行きかう街になる。人多い町の恐怖は少し和らぐ。だったら、いつもサングラスをかければいいのだが、奈々子か吉田といるときしか有効でない。一人で夜の街でサングラスをかけると、真っ暗で何も見えなくなる。
彼女も家の近くになると、大きめのサングラスをかけていたが、夜の街をひらひらした格好の店から飛び出たような女の子と、マスクとサングラスのもっさりした男が一緒に歩けば、かなり目立つ結果になってしまった。東京の街行く人間はあまり他人に干渉しないように出来ているが、チラチラとした視線はやはりあった。コブラカンパニーの三好という人間を隠すための行動なのだろうけど、逆に不審人物三好という人間を作り上げてしまっていた。
「なんだあの男?警察を呼べよ!」
「いい女つれてんな、死ねばいいのに!」
「通報だ通報だ通報だ通報だ通報だ・・」
「死刑だ死刑だ死刑だ死刑だ死刑だ死刑だ・・」
「いくら払ってんだ!」
「デリヘルだデリヘルだデリヘルだデリヘルだ・・」
三好という芸人、男に対する悪意ではなく、奈々子を連れている男に対しての悪意は、そんなに辛いものじゃなかった。嫉妬は、全然怖くない。軽蔑は、恐怖で足がすくむ。はじめて女の子を連れて街を歩いた時、「おまえ程度でなんで女がいるんだ、死ねよ!」というメッセージ性の強い悪意を感じ、それに対して、脂汗をかいて真剣に恐れていたが、それは自分が幸せを感じていたからであり、そのささやかな幸せを守りたいという理由から、悪意を恐れていたところもあるが、今から家に帰って起こる事を考えると奈々子に連れられているときは、自分が幸せと思えなかった。世間からの悪意の視線も、僕の今から抱える現実とは乖離しているものであり、どちらかというと、その勘違いのような悪意で、この連鎖を切り離して欲しいと思うぐらいだった。彼女が僕の生活のなかで機能していることは確かなのだが、大きな不都合として立ちはだかっているのも、確かなのである。
バタン、ドアが閉まった。ようやく僕のねぐらに着いた。僕のねぐらは四畳半一間で、簡単なキッチンもついているが、自分で料理なんてしたことが無かった。それに綺麗に畳まれた布団とテレビ以外、何も無い部屋だった。押入れには着替えと本やノートがきっちりと整列していて、それが一つでも居場所を変えると、僕の気持ちはとげとげしく落ち着かなくなった。
「ねえ、今のうちならうまくいくかもしれない。早くしよ!」
奈々子が畳んだ布団を四畳半の畳の上に斜めに広げた。縦線と横線の上に斜めの線があるだけで、この部屋は視覚的に居心地が悪いものになる。それに、玄関の鍵をかけていなかったし、声が漏れると、なにやらいやらしいことしているみたいで、世界に対して申し訳のない気持ちがしてくる。しかし、そんなことはお構い無しで奈々子は僕のズボンを下げた。
「うわ、やっぱ超おっきい!」
固定電話の受話器ほどの大きさの反り返ったペニスが、血が吹き出るぐらいに赤黒く硬直している。まるで僕とは別の生き物みたいだ。彼女は急いで下着を脱いで服を着たまま雑に敷かれた布団の上に転がって、膝を立てた。スカートのなかに白く綺麗な足と、その先に密林が見える。僕は畳みの真っ直ぐな線と布団の斜めの線が交わることがまったく気にならなくなって、お尻にヒンヤリとした開放感を感じて、跪き、彼女に覆いかぶさり、首筋のいい匂いと白い肌に欲情して、顔を見ないでむしゃぶりついて、頬で、彼女の胸元の体温を感じ、いまからやってくる一体感を期待した。今逃したら、あとが無い、焦り、断絶、ひどい渇き、恍惚、希望。複雑な飢えが波立ち、そこに大きな冷たい魚がどこからともなくすっと現れ、銀色の尻尾で水しぶきをあげて、暴力的に打ちつけ、殺す気で打ちのめすように、力強く、跳ねた。
「アガッツ、ググッ」
言葉にならない声が漏れた。頭の先から足の先まで血が勢いよく巡り、心臓は今にも飛び出しそうだった。アセルナ!自分に命令するが、もはや理性など無く、頭の中は真っ白で、ただ、体の中で、狂った工場のラインみたいに、追いつかない暴力的なスピードで不完全な製品が飛ぶように流れてあふれていった。こうなると、人間の意志は、出る幕が無い。
沸騰する性欲、いや、勝手に沸点が下がって、いきなりクライマックスを迎えたみたいだった。見境ない状態で、いきり立つペニスをしっかり掴んで、冷たい魚の命じるままに、彼女の中に入れようと、先を、先端を、押さえ込んで、毛や液でぐしゃぐしゃした場所に・・ああああああああ!
ドクドクドクドク!
冷たい魚がいきなり物凄いスピードで昇った。脊髄にひりつく快楽が突き抜ける。大量の白く濁った液体が彼女の服や内股にべっとりとぶちまけられた。冷たい魚が逃げてった。心が一気に萎んでいく。駄目だ、また失敗だ。奈々子も内股についた生暖かさに気が付いたのか、ひどくつまらない夢から覚めたように、ふっと起き上がった。
「えー、また失敗?ひどくない?服汚れちゃうし、なんでー、あっ、でも、まだびんびんじゃん、早く入れてよ。」
興奮さめやらぬ彼女は鳴り止まぬ電話の受話器を持つみたいに、僕のペニスを引っつかんで、彼女の中に押し込もうとする。放心状態の僕と切り離されたような性欲の一部みたいなペニスは、勝手に入り口まできて、射精とともに、ぬるりと彼女の手から生きた魚のように、逃げ出した。まるで、入ることを拒絶したみたいだった。二回も連続で出ると、ぐったりして、それでも芯が少し残っているぐらいで、目の無い赤黒い死にかけた蛇のようだった。こういったものは、半端な大きさでは、得体の知れない生きものみたいに気味が悪いだけで、奈々子もそれ以上、触ろうともしなかった。
気まずい雰囲気が流れる。しでかしてはならないことをした、嫌な雰囲気。ついには二人とも恋人同士ではなくなっていた。なにやら、お金を介した不誠実な淡々とした関係。そうなると、僕はスムーズに勃起し、彼女は乗り気なく、手短な愛の無い愛撫をして、すぐに入ったかと思うと、きっちり五分で射精した。彼女は僕の大きさに肉体的にある程度だけ満足していたが、僕の「気持ちが盛り下がらないと性交できない!」という愛の無い相手っぷりに、彼女はスカスカな気持ちになって、精神的に納得できないみたいだった。おそらく、好きでもない人と関係を持つという、普段の仕事の延長にいて、仕事につき物のお金すらもらえないことに対して損した気持ちになっていたものと思われる。一方で僕は失敗したことが蓄積型のトラウマになって、グズグズとシロアリに蝕まれた家みたいに、見えないところで精神的被害を受けていた。愛情や勢いが削げ落ちた淡々としたものなら受け付けることができることに虚しさを感じ、期待した、大きな暖かいものを諦めて、それを納得して、仕方がないので、ようやく終わった今日一日に深い感謝をするしかなかった。
無情の繋がりに、再生能力なんか、無い。あるのは、息苦しさと虚しさだけ。
こんなことを続けていたら、そのうち気持ちは菓子パンの空き袋みたいにスカスカになってしまうにちがいないが、こうするより、他が無いのだ。僕は密かに奈々子にお金を払えばいいと思っていた。お金さえ払えば、気持ちよさの代償を払ったのだから、正負のバランスがとれて、納得が出来る。愛情の無いセックスに、お金を払わないと、なんだか、裸足で罪を背負っていく気持ちになる。そう思いながら、気だるそうにタバコを吸っている奈々子の顔を見たら、なんだか、二人の不幸に涙が出てきた。
「ちょっと、泣かないでよ。ミッキー、いっつも失敗するけど、私、ちゃんと愛してもらってるから、満足してるよ。ホント、気持ちよかったよ。」
この女、嘘ばっかりだ。薄っぺらい言葉の鋭さで心が削られる。
「ミッキー、私ね、ミッキーのそばにいるだけで幸せなの。それ以上望んでないし、ミッキーが、コブラカンパニーが、有名になることが、私の夢なの。私ね、才能あるミッキーを応援したいの。だから、おねがい、泣かないでよ。」
なんで、僕の成功が奈々子の夢になるんだろう?意味が分からない。応援に見返りなんて無いの誰でも知ってるのに、勝手に応援して、勝手に喜んでいて、勝手に無条件で応援している自分に酔っている。応援したって、身近にいたって、奈々子はお笑いと関係ない。なんで、そんな簡単なことが解らないのだろう?それに、お笑いなんて、応援するものじゃない。お客として笑ってくれればいいんだ。それに、応援なんてすると、笑えないに決まっている。ガンバレってお笑いが言われたらオシマイなんだ。そんなことも分からないのか?この女、スッカラカンだ。なんで、こんな女が側にいるんだ。
「でもね、わたしね、ミッキーが泣く理由も少し分かるんだ。一生懸命頑張ってもね、思いが伝わらないことっていっぱいあるよね。わたしもね、そんなのをいっぱい持ってるんだ。だから、辛くなることもあるし、泣くこともあるよ。」
何と何を比べているのだろう?僕が泣く理由は埋め合わすことの出来ない人との絶望的な距離だ。それが顕著に現れると、涙が出てくる。しかし、奈々子の言う思いが伝わらないって理由は僕のとは似て非なるものだ。彼女は人の気持ちを分かろうとしない、自分のことを押し付けて、理解されないことに、腹を立てている。僕とは違う。自分勝手なだけだ。そんな自分勝手な女の子を見るのは、克服不可能な冬山の登山道を見せられたぐらいの絶望を突きつけられたみたいで、無力で、寂しい。
仕方ないように、お互い、パンツを穿いた。それから布団を押しのけ、折りたたんで、それをクッションにして、緩やかに傾斜して、寝そべるように座った。蛍光灯の光だけがまぶしくて、天上なんかはボンヤリと暗かった。奈々子は精液でベタベタになった下半身を濡れたタオルで拭いていた。この仕草も、絶望的で、悲しくなるが、ここで、そんな表情をすると奈々子にしつこく痛みを分かち合うことを強要されてしまうので、なにもなかったように
「もう大丈夫だよ。」
と何事も吹っ切ったように言うしかなかった。それを見て奈々子は期待しない、中身の無い返答をすることは分かっていた。
「よかった。ミッキーが元気じゃないと、私、笑えないもん。」
一生笑わないでいいよ。そう言いたかったが、言うと大きな石をひっくり返したように、不快な黒い虫(アリとかハサミムシ、ダンゴムシの類)がうじゃうじゃと湧いてくるのを見るような体験をここですることになるので、やめておいた。そして、心にも無い「ありがとう。」を言って、奈々子をそっと抱きしめた。自分に対して悪意を感じた。これって、笑えない酷いコントのようなものだと思う。
「そういえば、今日の舞台、よかったらしいね。私、見にいってないんだけど、聞いた話では、めっちゃうけてたらしいね。ヨッシーの顔が膨らんで、ミッキーがそれを恐れているところが面白かったみたいね。そんな漫才ってコブカンにしか出来ないよ。私もみたかったなー。」
コブラカンパニー、略してコブカン。こんな略語、大嫌いだ。いつも思うが、奈々子の知り合いは相当お笑いが好きみたいだ。僕らのライブをほとんど見てるって奇跡はなかなか無い。客席から、いつもそのことが気になって、常連を探すけど、そんなの数人しかいなくて、それも、奈々子と別世界に住むようなリュック背負ったような変なのしかいない。それに情報が早いのだ。だいたい会うのはライブの数時間後だが、奈々子は当たり前のように、いつも内容を知っている。組織だった行動をしているのだろうか?
「よく知ってるね。ここのところ、吉田がはりきってライブの仕事お願いしてるみたいだから、いろいろ忙しいよ。うれしいんだけど、ちょっと、きつい。あいつは早く金持ちになるって言ってるし、大藪さんもその気になってるから、仕事バンバンまわってくるようになってるけど、ちょっと、しんどい。」
「ヨッシーってさー、お父さんの出生が悪くて?まともな職に就けなくて、すっごく貧乏で、それに兄弟が多くて、大変だったみたいだから、お金に執着してるのよ。なんでも、お兄さんがニートで、次のお兄さんが不良で、次のお兄さんが行方不明で、ヨッシーが四番目で芸人なんだって。それで、家が生活補助?を国から?受けてるみたいだけど、それが嫌なんだって。」
「えっ、初めて知った。なんか、金持ちになって税金沢山払って長者番付にでるんやっていってたけど、お金に困っていたのか。」
「なんか、国に借りを返してやるっていってたよ。あそこらへん、ヨッシーってきっちりしてるもんね。」
「ふーん、吉田、そういうところ、あるもんな。自立心とか男気みたいなの。」
会話をしていて、なにか、腑に落ちない感じがした。相棒の僕より奈々子の方が吉田のことをよく知っていた。
「それに知ってると思うけど、ヨッシーに「拾え!」は禁句なのよね。ミッキー、言っちゃダメだよ。なんか、昔、ラジカセってあったんでしょ?みんな持ってて、それが買えなくて、で、近所の人がくれるっていうから、兄弟で取りにいって、兄弟で奪い合いになったんだって、それで、ラジカセが落ちて壊れて、近所の人が怒って兄弟に「拾え!」って言ったんでしょ?それが、情けなくて、バカで貧乏は最悪で情けないって、貧乏を恨むほど嫌いになったんだって。ちょっと、可哀相よね。」
「そんな話、初めて聞いた。」
「うそ?キャラメルアイの辰野くんも知ってたよ。でも、キャラメルアイって面白くないよね。辰野君は頑張ってるんだけど、木原?あいつが足引っ張ってるよね。キャラメルアイとライブ一緒って多いでしょ。」
「うん。多い。でも、あんまり話したこと無い。なんか、吉田は辰野君と仲いいみたいだけど。僕は飲みに行ったりしないから、分らない。」
「そう?ふーん。そういえば、ミッキー、来週、誕生日なんでしょ?今年で三十一歳だっけ?見た目若いよね。私が今年、二十三だから、八歳違うんだ。二人でお祝いしようね。そのときは失敗しないでよ。」
この女、一言多いんだ。失敗って言うな。それに僕の誕生日は来月で、ことし二十九歳になる。来週誕生日の三十一歳は、吉田のことだ。なんで、こいつは吉田のことばかり話しているんだ。
「ちょっと、着替えてくるついでにご飯買ってくるね。何がいい?」
「甘いパン。」
「分ったよ。すぐ戻ってくるからね。」
奈々子はすぐ近くに住んでいて、着替えてくるついでに、通り道のコンビニで食料を調達してくる。僕はお金を払ったことが無い。これは一種の飼育なのだろうか?飯を食わせてもらうっていうのは絶対的で、それだけで、どんなにバカでも、嫌な奴でも、敬意が発生する。対等な人間なのに生かしてもらったというのは屈辱なのかもしれないが、生きている分、勝っていると思う。そういえば奈々子の話では、吉田は生活補助の屈辱を高額納税でペイする野望があるらしい。バカらしいと思う人もいるだろうけど、僕は吉田の考えに、嫉妬した。どう考えても、僕にはそれが出来ない。なぜか嫌な気がした。僕が金が入ったら、奈々子を焼肉に連れて行くとかとレベルが違う話だ。甘いパンをねだった時点で、僕は闘争を放棄し、生きることさえ諦めている。自立できない情けない精神に根底から支配されていることに気が付いた。だったら、そこを反省して、前向きになる努力でもすればいいのだが、それでは、芸人として、違うような気がした。芸人はまじめに生きることに正面を向いてはいけない。廃退に興味を持つべきだ。自分がまじめに生きること自体を笑い飛ばせる力が、胆力が、芸人には必要なんだと思う。だからといって、その力を手に入れたところで、幸せな人生が待っているとも思えないが。
ブルルルルルルル
振動音にびっくりして、自分のズボンのポケットを探った。携帯電話が無かった。布団をはぐってみたら、キラキラした携帯電話が出てきた。さっと拾って、開いてみた。「メール着信あり ヨッシーより」なにも考えないで、そのメールを開いた。
FROM・ヨッシー 件名・いまどこ? 本文・いま、飲みが終わった。今日は三好のとこ?判っているけど、つらいっす。会いたいなあ。明日は夕方からライブなので、昼は一日おるよ。逆レイプまってるよ。ななちゃんのフェラすごいっす。あれで起こしてほっしいなあ。三好のとこ抜け出して、はよおいで、愛してます。 
他のメールの見出しをみた。「今日会える?」「会いたいな。」「好きや!」「唐揚三人前」「チャーハン大盛り」「ラーメン大盛りと餃子とライス」性欲と食欲に満ち溢れた見出しばかりだったが、これは、ヨッシーからのもので、他にも「キタリン」「タッツン」「まじまさん」など複数の男から「すぐ挿入」「会おうぜ」「寂しいよ」などの愛欲メールが何件も入っていた。奈々子からの送信メールを見ようと思ったが、使い方が分らなかったのと、見たくも無い気持が、操作を拒否させた。嫌いだといいながら、人間の形で会える唯一の女の子だった。僕にとっては彼女こそが、世界にいる唯一の女だった。この四畳半がずいぶん広く感じた。僕は、一人ぽっちだ。いままで、辛うじて繋がっていたものが、最後の力を使い果たして、諦めるように、ごっそりと抜けていった。血の気や、何か命のうねりのようなものが、サッと引いた。手に力が入らない。たぶん、神経がねこそぎやられたんだと思う。この先、感情の一つが二度と回復しない気がした。しかし、怒るべきことなのだろうけど「怒り」はついに出てこなかった。それよりも「怒らなくてはならない」という、妙な焦りが横から噴出していた。これって、いったいなんなんだろう?怒りでも憎しみでもない、悔しさでもなく、疎外感でもない。ただ言えるのは「笑えない」ということだけだった。笑えないっていうことは、なんだか、それだけで、孤独で、怖かった。
ここ数年、そういえば、本気で笑ったことが無かった。芸人同士の伝説で「不笑草」という草があると聞いた事がある。笑茸という笑が止まらなくなる神経性の毒キノコの逆バージョンで、まったく笑いが無くなる毒草らしい。山奥に生えていて、それを食べると一切笑うことがなくなるらしい。芸人仲間から笑わない僕を見て「不笑草食うたんちゃうんか?」とからかわれた事があった。「まさか」といいながら、少し笑った覚えがある。でも、その笑が紛れも無い嘘だって自分でも分かったし、聞いた芸人も、気まずい表情になったのを思い出した。でも、そのときは、作ればまだ、笑えそうだったが、奈々子の正体を見て、作り笑いさえ不可能になった。不笑草をいつの間にか食わされてしまったみたいだ。
不笑草
しかし、その言葉を思い浮かべると、なんだか奇妙に楽しくなってきた。本当は世界の終わりともいえる絶望の淵にいるはずなのに、絶望の淵に自分から頭から飛び込んでしまい、大笑いして、あっぷあっぷと苦しく楽しく溺れ死に、その笑えないはずの不幸な姿を見た大勢の観客が、不謹慎な、しかし心からの大笑いしているところが思い浮かんだ。とても残酷で、酷い光景なのだが、それは、もしここに笑いが無ければ、世の中に意味が無いとさえ思えるほど、完全な風景だった。もし、この不謹慎で残酷であるが、完全な風景に笑いが無ければ、みんな死ねばいい。世界心中すればいい。しかし、その世界心中は、絶望的であるが、じつに希望にあふれている。いや、それこそが世界の希望なのかもしれない。不謹慎な意地悪な笑いが消えて、意味がなくなり、みんなが、世界が一気に心中すれば、寂しくない終わりを迎えられる。だが、いったい、それが何になるのだろう?不謹慎であろうと、意地悪であろうと、おかしいときは笑いたい。僕はふざけて溺れようとする、それを見て、みんなが笑う。とてもおかしいみたいで、僕もそれが面白くて、笑うしかない。笑えばいいし、笑わせればいいんだ。
不思議だ。不笑草には人を笑わせる効果があるらしい。僕は数年ぶりに大笑いした。息が出来ないほど、ちくちくとした笑いが、体中を走った。
あははははははははははははははははははははははははは
酸素が笑いによって、二酸化炭素にどんどん変わっていく。とどまることを知らないベルトコンベアー動き出した。そのとたん、いいことを思いついた。

FROM・ななこ 件名・三好です。本文・僕は見てしまった。奈々子のメールを見てしまった。今奈々子は家に帰っている、もうちょっとしたら甘いパンをもって帰ってくる。自分がこれからどうなることか知らないで、帰ってくる。帰ってきた奈々子は僕に騙されて、ダウンジャケットを着て、僕のバイト先の冷凍庫に連れて行かれる。そこの冷凍庫は今、改装中で、電源は明日の昼に付けられる。そこからマイナス十八度以下の冷気が奈々子を凍らせようとする。ダウンジャケットを着ていれば数時間はもつと思うよ。彼女は凍った眠り姫になるかもしれない。それはなぜか?僕を裏切り、吉田と寝たからだ。しかし、助かる方法もある。それは明後日の夕方の漫才で成功したら、助けようと思う。ライブが終わって、冷え始めたところで、彼女を外に出すんだ。それで助かる。奈々子のいのちは吉田にかかっている。明日の漫才は、台本無しでやる。ボケは僕がする。吉田は突っ込みをしろ。そのなかに不笑草のことを入れる。それだけ教えておいてやる。もし、うまくいかなかったら、奈々子は死んで、コブラカンパニーもオシマイ。変なことするなよ。先に助けるようなこと企んだら、倉庫の外国人に奈々子をレイプさせて、ついでに殺させる。あいつらはそんなの得意だ。冷凍して、砕いて、海にばら撒けば、何も残らない。あいつらに躊躇は無い。なぜなら繋がりが無いからだ。僕も、よく考えたら、繋がりが無いことに気が付いた。繋がりが無いのなら、何だって出来る。覚えておけ、おまえは、してはならないことをした。相方の最後の砦を汚したんだ。信じていたものに一度に二度裏切られてみろ、笑なんて止まってしまう。不笑草を食った気分だ。だから不笑草をネタにする。何とか繋げろ、そしたら、僕も繋がることが出来るかもしれない。もうすぐ、奈々子が甘いパンを買って帰ってくる。それじゃあな。
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