消えた彼女

文字数 755文字

 翌日も僕はメロンパンを二つ買って、自宅への道を急いだ。僕の職場は比較的ホワイトなので、緊急事態でない限り定時退社が許されている。おかげで毎日僕は、十九時閉店のパン屋でも余裕を持って買い物をすることが出来た。
「ただいま」
 家中の電気が消えていた。家中がとても静かだった。
リビングの電気をつけて一瞬、僕は息が出来なくなった。
心臓がバクバクとして、耳まで響いてくる。
頬に風を感じて、掃き出し窓に目をやった。ほんの少しだけ、ほんの少しだけ窓が開いて、カーテンが揺れていた。
 きっと一昨日、鍵を閉め忘れたのだろう。
 心臓の音がうるさい。鼓膜を破って、心臓が飛び出してくる様を想像した。
 僕は彼女を探して、家中を駆け回った。キッチンにも、洗面所にも、寝室にも、彼女の仕事部屋にも居なかった。
 誰かが彼女を誘拐した。
 最悪の事態が頭をよぎる。大粒の汗が首筋を伝い、ワイシャツに歪なシミを作った。
「どこだ、どこに居るんだ……」
 僕は部屋の隅の埃をかき分けてまで、彼女を探した。
 一通り家中を探し終えた僕は、彼女の仕事用の椅子に腰かけ、涙を流した。永遠に続くかのように思われた幸福な日々は、顔の見えない悪魔の手によって、突然終わりを迎えさせられたのだ。いや、まだ終わってはいない。
彼女の仕事用のパソコンに手が触れた。結婚して五年になるが、一度もこのパソコンには触れたことがない。触れようと、考えたこともなかった。
彼女は明るく、聡明で、秘密主義な人間だった。
彼女が本当に誘拐されたのだとしたら、犯人は彼女のことを知る人物かもしれない。
僕は、彼女のことを、もっと深く知らなければならないような気がした。僕はいつから彼女のことを……
これはきっと天罰なのだろうと思った。
それでも僕は、彼女を探し、彼女を見つけ出さなければいけなかった。
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