第1話 登場
文字数 2,325文字
これは、二〇〇九年の夏の話である。
柳本 が勤めていた滝口建設では、新たに廃棄物のリサイクル事業を始めることになり、前年から処理プラントの建設を進めてきた。
施設は春に完成し、それに併せて社内にはリサイクル事業部が創設され、柳本は管理課長に就任した。
できたばかりのプラントが本格稼働しようとするタイミングで、柳本の職場はプラントがあるリサイクルセンター「滝口リサイクル」へと移り、彼は事業所長に次ぐ立場で運営に尽力する日々を過ごしていたのだった。
この年は全国的に梅雨明けがはっきりしなかった。
柳本の住む地域でも、どうやら梅雨が明けたらしいと報道されたのは七月下旬で、滝口リサイクルのオープンから三ヶ月が過ぎようとする時期だった。
まだ目標の売り上げには届かないものの、取引量は徐々に増え、事業は軌道に乗ったと言えた。施設立ち上げの実質的な責任を背負っていた柳本の労苦も、ここにきてようやく報われようとしていた。
七月最後の火曜日の朝、上空は鈍色の雲で覆われていた。明け方に降った雨で、施設内のところどころに水溜りが残っている。
天気予報は、今日はこれから雨が降ることはないだろうが、日差しも期待できないと告げていた。
業務開始の十分前、朝礼を終えて事務所に戻ろうとした柳本は、業務主任の清水から呼び止められた。
「課長、新しい人がまだ来ていませんよ」
「本当か?」
柳本は振り返って施設の搬入口を見た。受け入れ開始前なので入口ゲートが閉まったままなのは当然として、ゲートフェンスの外に立っているべき交通誘導員の姿がない。
「清水君、時間は言ってあるよな」
「言うも言わないも、業務の引継ぎは向こうさんの責任でしょ?」
柳本は事務所に戻ると、庶務担当の和泉 を呼んだ。
「ハイウェイサービスに電話をしてみてよ。新しい誘導員さんがまだ来ませんよって」
はーい、と軽くフワフワした返事をして和泉が受話器を持った。彼女はおっとりした口調で話すが、仕事は早い。
席に着くと、一足先に朝礼から戻っていた事業所長の田中が、「柳本課長、一台が到着して外で待機しているよ。場内に入れた方がいいんじゃないの」と、部屋の奥の監視カメラのモニターを見ながら言う。
「あまり長い時間停まっていると、通行の邪魔だってクレームが入るよ」
「わかっています。――どこの会社か、表示が見えますか?」
にやにやしながら首を左右に振る所長に少しイラっとした気分になりながら、柳本は卓上のトランシーバーを掴む。
そして朝礼後、設備の点検をしている機械オペレーターの猫田 を呼び出した。
「猫ちゃん、時間前だけど、一台来ちゃったから入れるよ」
了解でーす、という間延びした返事を聞いた柳本は、事務所の入口でそわそわしている清水に「行ってきて」と声を掛ける。ゲートでトラックの出入りをコントロールすべき誘導員が来ていないのだから、誰かが代わりを務めなければならないのだ。
程無くして監視カメラの画面に、近くにいた作業員と二人でゲートを開ける清水の姿が映り込んできた。
ひとまず安堵した柳本が席に戻ると、ちょうど受話器を置いたばかりの和泉と目が合った。
「ハイウェイサービスですけど、新しい人の手配はしてあるから、そのうち着くだろうって言っています」
「何だそれ?」
和泉の報告に、柳本は思わず天井を仰ぐ。詮無 いこととは分かっていたが、ついつい所長に文句を言いたくなったので、彼はまた立ち上がった。
「所長、あの会社との契約を見直しましょう。そのうちって、どういう言い訳ですか」
「そんなこと言わないでよ」
田中は困った顔を見せると、すぐに監視カメラに目を戻した。
滝口リサイクルでは、地域住民からの要望により、廃棄物を運んでくるダンプカーの出入口に交通誘導員を配置している。施設のオープン以来、誘導員はハイウェイサービスという人材派遣会社から来てもらっていた。
田中所長が向こうの社長と親しいというのが、ハイウェイサービスと契約をした理由なのだが、これまでの三ヶ月、柳本たちはガッカリさせられることが続いている。
よそでは使えない人材をこっちに回しているのではないかと本気で疑っていた。
「あれ、新しい人じゃないのかな」
今度は柳本自身が文句の電話をしようと思った矢先、田中が画面を指差して声を上げた。「ほら、清水君の横に立っている人」
田中の横に立って画面を覗くと、ダンプの運転手と話をする清水の後ろに、ヘルメットをかぶった小柄な男が立っている。
小さい白黒画面ではあるが、モールの付いた半袖シャツが確認できたので誘導員で間違いなさそうだった。
しばらくして事務所に戻ってきた清水は、両足を投げ出すようにして椅子に座る。そして目の前の柳本が情報を待っているのに気づき、ふっと笑みを漏らした。
「かなりのお年寄りのようですよ。トランシーバーの使い方を覚えてもらうのが大変でした」
業務開始時間に遅れたのは、単純に道に迷ったからだという。
「でもまあ、見るからに真面目そうなおじいさんなので、前任者のようにサボらないとは思います」
清水はシャツの袖でこめかみを伝う汗を拭うと、ああ、そうだ、と立ち上がり、冷蔵庫からお茶のペットボトルを出してきた。
「これから蒸し暑くなりそうですね。おじいちゃんは今日、何も持ってきていないそうなので、届けてきます」
いつもながらいろいろと気が利く清水の性格に、柳本は感心する。
どんなおじいさんなのだろう。
柳本は何気なくファクシミリに目をやる。ハイウェイサービスからは新しい誘導員に関する書類がまだ何も送られてきていないようだ。
柳本は午前の休憩時間になったら、男の顔を見に行くことにした。
施設は春に完成し、それに併せて社内にはリサイクル事業部が創設され、柳本は管理課長に就任した。
できたばかりのプラントが本格稼働しようとするタイミングで、柳本の職場はプラントがあるリサイクルセンター「滝口リサイクル」へと移り、彼は事業所長に次ぐ立場で運営に尽力する日々を過ごしていたのだった。
この年は全国的に梅雨明けがはっきりしなかった。
柳本の住む地域でも、どうやら梅雨が明けたらしいと報道されたのは七月下旬で、滝口リサイクルのオープンから三ヶ月が過ぎようとする時期だった。
まだ目標の売り上げには届かないものの、取引量は徐々に増え、事業は軌道に乗ったと言えた。施設立ち上げの実質的な責任を背負っていた柳本の労苦も、ここにきてようやく報われようとしていた。
七月最後の火曜日の朝、上空は鈍色の雲で覆われていた。明け方に降った雨で、施設内のところどころに水溜りが残っている。
天気予報は、今日はこれから雨が降ることはないだろうが、日差しも期待できないと告げていた。
業務開始の十分前、朝礼を終えて事務所に戻ろうとした柳本は、業務主任の清水から呼び止められた。
「課長、新しい人がまだ来ていませんよ」
「本当か?」
柳本は振り返って施設の搬入口を見た。受け入れ開始前なので入口ゲートが閉まったままなのは当然として、ゲートフェンスの外に立っているべき交通誘導員の姿がない。
「清水君、時間は言ってあるよな」
「言うも言わないも、業務の引継ぎは向こうさんの責任でしょ?」
柳本は事務所に戻ると、庶務担当の
「ハイウェイサービスに電話をしてみてよ。新しい誘導員さんがまだ来ませんよって」
はーい、と軽くフワフワした返事をして和泉が受話器を持った。彼女はおっとりした口調で話すが、仕事は早い。
席に着くと、一足先に朝礼から戻っていた事業所長の田中が、「柳本課長、一台が到着して外で待機しているよ。場内に入れた方がいいんじゃないの」と、部屋の奥の監視カメラのモニターを見ながら言う。
「あまり長い時間停まっていると、通行の邪魔だってクレームが入るよ」
「わかっています。――どこの会社か、表示が見えますか?」
にやにやしながら首を左右に振る所長に少しイラっとした気分になりながら、柳本は卓上のトランシーバーを掴む。
そして朝礼後、設備の点検をしている機械オペレーターの
「猫ちゃん、時間前だけど、一台来ちゃったから入れるよ」
了解でーす、という間延びした返事を聞いた柳本は、事務所の入口でそわそわしている清水に「行ってきて」と声を掛ける。ゲートでトラックの出入りをコントロールすべき誘導員が来ていないのだから、誰かが代わりを務めなければならないのだ。
程無くして監視カメラの画面に、近くにいた作業員と二人でゲートを開ける清水の姿が映り込んできた。
ひとまず安堵した柳本が席に戻ると、ちょうど受話器を置いたばかりの和泉と目が合った。
「ハイウェイサービスですけど、新しい人の手配はしてあるから、そのうち着くだろうって言っています」
「何だそれ?」
和泉の報告に、柳本は思わず天井を仰ぐ。
「所長、あの会社との契約を見直しましょう。そのうちって、どういう言い訳ですか」
「そんなこと言わないでよ」
田中は困った顔を見せると、すぐに監視カメラに目を戻した。
滝口リサイクルでは、地域住民からの要望により、廃棄物を運んでくるダンプカーの出入口に交通誘導員を配置している。施設のオープン以来、誘導員はハイウェイサービスという人材派遣会社から来てもらっていた。
田中所長が向こうの社長と親しいというのが、ハイウェイサービスと契約をした理由なのだが、これまでの三ヶ月、柳本たちはガッカリさせられることが続いている。
よそでは使えない人材をこっちに回しているのではないかと本気で疑っていた。
「あれ、新しい人じゃないのかな」
今度は柳本自身が文句の電話をしようと思った矢先、田中が画面を指差して声を上げた。「ほら、清水君の横に立っている人」
田中の横に立って画面を覗くと、ダンプの運転手と話をする清水の後ろに、ヘルメットをかぶった小柄な男が立っている。
小さい白黒画面ではあるが、モールの付いた半袖シャツが確認できたので誘導員で間違いなさそうだった。
しばらくして事務所に戻ってきた清水は、両足を投げ出すようにして椅子に座る。そして目の前の柳本が情報を待っているのに気づき、ふっと笑みを漏らした。
「かなりのお年寄りのようですよ。トランシーバーの使い方を覚えてもらうのが大変でした」
業務開始時間に遅れたのは、単純に道に迷ったからだという。
「でもまあ、見るからに真面目そうなおじいさんなので、前任者のようにサボらないとは思います」
清水はシャツの袖でこめかみを伝う汗を拭うと、ああ、そうだ、と立ち上がり、冷蔵庫からお茶のペットボトルを出してきた。
「これから蒸し暑くなりそうですね。おじいちゃんは今日、何も持ってきていないそうなので、届けてきます」
いつもながらいろいろと気が利く清水の性格に、柳本は感心する。
どんなおじいさんなのだろう。
柳本は何気なくファクシミリに目をやる。ハイウェイサービスからは新しい誘導員に関する書類がまだ何も送られてきていないようだ。
柳本は午前の休憩時間になったら、男の顔を見に行くことにした。