第2話

文字数 4,717文字

 あの屈辱の日から、数年。少年だったエリアスは、成人となった。
 たった数年。片手で足りるほどの年月が、エリアスには十年にも百年にも感じられた。
 この、たった数年でアールノルトは急変してしまった。

「坊ちゃん。あまり無理はなさらずに」
 声をかけられ、はっとする。目の前の商人が、遠い目で屋敷を見つめるエリアスに、心配そうな顔を向けている。会話中に急に黙り込んでしまったのだ。心配されても仕方がない。
「すまない、少しぼーっとしていただけだ。心配しないでくれ」
 慌てて笑顔を向けると、ぎこちない笑顔が返される。
「俺のことより、皆は大丈夫なのか。最近、税収が上がったのだろう」
 商人のぎこちない笑顔がさらに歪む。わかりきっていたことを、と思っただろうか。
「すまない、本当に……」

 母の亡き後、アントンが真っ先に行ったことは、税の増額だった。母の死を悼み盛大な葬儀をだの、立派な墓をだの言っていたが、実際のところ自分の懐具合のためだろう。
 民は、母のためならばと必死に働き税を納めてくれたが、それが母のために活用されたことはない。母の葬儀は、身内のみのひっそりとしたものだったし、母の墓は、父と同じく領地の端にある墓地にある。何の変哲もない、ごく普通の墓が。
 不審に思った領民たちが、アントンに事情を聞きに何度が屋敷を訪れたが、すげなく追い返されていた。
 エリアスは、その様子を物陰から見ていた。見ていることしか、できなかった。失望や、怒り、軽蔑の表情を浮かべながら屋敷を後にする姿に、胸が張り裂けそうだった。今すぐ彼らの元に飛んでいき、言葉の限り謝りたかった。
 しかし、できなかった。民から失望されるのが怖かった。お前は何もしてくれないじゃないかと言われるのが。
 上がり続ける税に領民たちの収入は見る見るうちに減っていった。そして、領民の生活が苦しくなると共に、アールノルト家の生活は豊かに、派手になっていった。
 苦しくなる生活に、何もしてくれない領主。そんな環境に見切りをつけて、領民は一人、また一人と去っていった。

 また、父の実家であり、アールノルトの経済の要であったRG商会も、別の土地に拠点を移してしまった。
 欲にまみれたアントン達が、今まで支払っていた税や場所代のほか、商会の売り上げから上納金を寄こせと言い出したのだ。納めなければ、アールノルトでの商売をやめろと。
 商会長は、アントンの提案(というより命令)を鼻で笑うと、その日のうちに店をたたみ、アールノルトを発った。あまりにも迅速な対応だった。おそらく、母が亡くなってすぐ拠点を移すつもりで動いていたのだろう。
 アントンが商会に押し掛けたという話を聞いてすぐ、エリアスは商会に走った。話を聞いてすぐ家を出たにも関わらず、エリアスが商会についたのは出発の直前だった。
「本当に、行ってしまうのですか……」
 忙しなく荷造りをする商会員達を見て、誰とはなしに問いかける。誰が見ても、彼らがいなくなってしまうのは明白だったが、問いかけずにはいられなかった。
 各々が動き回り騒がしかったはずの商会に、エリアスの小さな問いかけは大きく響いた。
 エリアスの知るRG商会の商会員達は、雑談や冗談を挟みつつも、仕事中は一切手を休めることがなかった。皆働き者で、休むという言葉を知らない奴らばかりだと父が嘆くほど、仕事熱心だった。
 しかし、そんな働き者達がエリアスの言葉に手を止めた。誰かの話し声や作業をする音で溢れていた静寂を知らない賑やかな空間が、今は重い沈黙に包まれている。
「はい。もうこの場所は、我々の求める商業地ではないのです」
 コツコツという足音と共に、矍鑠とした老人が現れた。RG商会の商会長である。
「RG商会は、アールノルト家に大きくしていただいたようなものです。我々とて本意ではない」
「ならばっ…!義父上……旦那様のことは、私が必ず何とかする。あの男とて、この土地におけるRG商会の重要性がわからないはずがない。だから!」
「あの男が、あなたの言葉を聞くとお思いか」
 悲しそうな、全てを諦めた笑顔に、エリアスは二の句を告げなくなる。
「エミリア様がお亡くなりになってから、アールノルトは変わってしまった。エミリア様とルイスが治めていた頃の面影は徐々に消えていっている。直に、全く別の土地となってしまうだろう」
 唇を嚙み、俯くエリアスの肩に手をかける。
「それに、お前があの男を『旦那様』と呼び始めた。義兄達も、賎民の血が流れているとお前を害すると聞いた。そんな環境を、許せると思うのか」
「おじい様……」
 顔を上げると、強いまなざしが向けられている。肩に置かれた手に、力がこもる。
「儂らと一緒に来い、エリアス。お前が苦しんでいる姿を見てはいられぬ。エミリア様とルイスに代わり、今度は儂らがお前を守ろう。それが、我々にできるアールノルトへの恩返しだ」
 祖父の申し出は、とても魅力的だった。両親は亡くなり、家も乗っ取られた。母の身分を利用し、我が物顔でアールノルトを支配するアントンや、労働階級だった父を『賎民』と蔑みせせら笑う義兄達。そんな中、何もできない自分。辛かった。生きる意味さえ見失いそうだった。
 そんな時、差し伸べられた祖父の手はとても、とても魅力的だった。幼い頃より良くしてくれた商会員達、そして愛する祖父。彼らと各地を回り、商会を切り盛りしていくのは、どんなに幸せだろう。しかし、
「私は、行けない。父上と母上が守ってきた土地を、愛する民を見捨てることはできない」
 自分は、アールノルト全てに守られ、育てられてきた。自分だけの幸せのために、捨てることなんてできなかった。
 祖父は、エリアスを強く抱きしめた。
「…お前なら、そう言うだろうとわかっていたよ」
 それでも一緒に来てほしかった。抱きしめられた腕からその気持ちが痛いほど伝わってきて、涙が溢れた。
「行かないでください。お願いだから、行かないで」
 幼い子供の駄々のように、泣きながら訴える。届かない願いだと知りながら、言わずにはいられなかった。
 祖父は、体を離すと、古びた分厚い本を数冊、エリアスに渡した。
「ルイスの形見だ。きっと、お前の役に立つだろう」
 ずっしりと重い本を抱え、涙を拭う。
「頑張ります。きっと、アールノルトを取り戻してみせます。だから、その時はきっと戻ってきてください」
「ああ、約束だ。お前がアールノルトを取り戻した時、我々もここに戻る」
 そう約束し、祖父達、RG商会は去っていった。
 エリアスは、本当に一人ぼっちになってしまった。

 祖父らがいなくなり、アールノルトの活気はますますなくなった。農作物が盛んだった商業都市は見る影もなく、過疎化が進む貧しい田舎となってしまった。
「アールノルトでの暮らしが厳しいなら、よそに移った方がいいんじゃないか」
 自分が言えた義理ではないが、思わずこぼれてしまう。
「私の家は、代々アールノルトで暮らしてきたので。それに、坊ちゃんがいる限り、希望はまだあります」
 今度こそ本当の笑顔を向けてくれる。民からの信頼は、嬉しいものではある。しかし、負担だと感じてしまうのも事実だった。
「……ありがとう。」
 期待に応えるよ、と言えなくなったのはいつからだろうか。

 祖父がいなくなってすぐ、アントンに直談判に赴いた。
 血縁関係もなく、もう我が家には関係のない人間だと言われたが、アントンはあくまでも『当主代理』だ。正式な当主でない以上、エリアスにも継承権は残っているし、アントンにエリアスを廃嫡する権利はない。
「旦那様、お話があります」
「……使用人の分際で不躾ではないか」
 冷めた目視線に、少し怯む。しかし、引くわけにはいかない。
「RG商会が、アールノルトを離れました。あの商会は、アールノルトの経済の要です。一刻も早く呼び戻すべきです」
「その必要はない。多くの領民がいて、農作物の取れる畑農園もある。商売については問題ない」
「その認識が甘いと言っているのです!」
 アールノルトの民達の主な取引先はRG商会だ。古くからの付き合いの中で双方にとって最も利益が出るかけについて探ってきた。取引先を急に変えるとなると、経済面にも大きな影響が出るだろう。
「問題ないと言っている。既に新しい、付き合いのある商会を誘致済みだ。どこに問題があるとでも」
「ですが!」
 なおも言い募ろうとすると、バン!と大きな音がした。分厚い本を机に叩きつけたアントンが、こちらを睨んでいる。鋭い目線に、体がぶるりと震えた。
「貴様に、何の権利があるというのだ。廃嫡された、使用人の分際で」
 地獄の底から這い出てきたような声で、アントンが威圧する。
「……あなたにだって、私を廃嫡する権利はないはずだ、当主代理殿。書面上でも、民の気持ちの上でも、次期当主は私だ!」
 廃嫡された使用人。当家に何の関係もない。その言葉を覆す切り札だった。父は遺言書で、当主代理に母を、次期当主にエリアスを指名していた。そして、母も父と同じ遺言書を作成した、らしい。父の葬儀の際は役人が来て、正式な遺言書として内容を読み上げたが、母の遺言書は、母がこういう内容で作成したと話していただけだ。
 しかし、母が遺言書を作成していなかったとしても、父の遺言が生きる。
 まだ成人していないエリアスは当主の座につくことができず、後見人のアントンが当主代理を務めているだけだ。一時の当主の座。エリアスが成人すれば、この状況も覆る。
 だから、アールノルトはまだエリアスのものだ。
「……君は、遺言書を持っているのか」
 持っては、いない。
「誰も中身も、姿すらを見たことがないのに、正しいと言えるのか」
「母のものがなかったとしても、父のものがある」
 即座に反駁する。が、
「そんなもの、どこにあるというのだ」
 冷たい声が遮る。
「執務室の、この部屋の金庫に保管されている!」
「なら、開けてみるがいい」
 アントンは余裕そうな笑みを浮かべる。
 そんなアントンの様子に訝しい気持ちを抱えながら、金庫を開け、その中に入っている鍵の掛かった筒を手に取る。この中に、父の遺言書がある。
 鍵を開け、蓋を外す。
「……なぜだ!」
 筒の中は、空っぽだった。間違いなく保管されていたはずの父の遺言書が、消えていた。
「まさか、捨てたのか」
「そんなことするわけがない」
 無許可に遺言書を処分することは重罪にあたる。遺言書の保管については、国が厳重に管理しており、定期的な調査が入る。もしそこで不当な処分がばれれば、ただでは済まない。
 狡猾なアントンがそんなことするわけがないというのは、エリアスにも十分理解できた。
「これでわかっただろう。遺言書はない。貴様を次期当主と認めるものは何もない」
 アントンの言葉は、反論の余地のない正論となってしまった。
「当主、又は当主となりうる者が不在の場合、当主代理が同等の権限を持つのは貴様も知っているだろう」
 笑みを含んだその声は、楽しげな雰囲気さえ漂わせている。
「当主代理として宣言しよう。私、アントン・アールノルトは、エリアス・アールノルトをアールノルト家から廃嫡するものとすることを決定する」
 当主代理に書類作成の権限がないのが残念だ。楽し気に呟く声は、エリアスの耳を通り抜ける。
「そうそう、貴様も知っているだろう。紛失した遺言書の効力は、紛失した日から五年だ。遺言書の紛失が発覚したのは、エミリアの葬儀の際だ」
 アントンの顔は、これまで見たことがないほどの笑顔だった。五年の間に遺言書が見つからなければ、アントンは正式な当主となる。
「五年後が楽しみだな」
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