鬼女
文字数 3,296文字
私はどこか遠く、風景からして都会ではない。そんな場所にいた。
空は良く晴れており、見上げるとその美しさについ目を細めてしまう。
所々に気まぐれのように雲を残してはいるものの、この青空の美しさを損ねる理由にはならない。
頬を凍てつくような風が撫でる、季節はどうやら冬らしい。
辺り一面には雪が降り積もっている。
足を上げて、一歩だけ前に出る。
さく、という乾いた音が聞こえた。
もう一度回りを見回しても、人工物のようなものは何一つない。
家屋や道路、車に電柱。それらは少なくとも私の視界の中には無い。
私は歩き出す、あてがあったわけではない。
ただ止まっているわけにはいかない、と思ったわけでもない。
私の意思とは関係なく、足は進む。足元を見ると私はどうやら今よりも若くなっているらしい。
年の頃は、十歳くらいだろうか?
歩を進める私の足は、見慣れたものよりも華奢になっており、足には藁靴を履いている。
ただ実用性だけを追い求めたような、至って単純な作りをしている。
どれくらい歩いただろうか、時間だけを考えればそこまで歩いていないのかもしれない。
だが、足の脛の辺りまで積もった雪の中を歩くのには体力がいる。
私は白い息を吐き出した、それはまるで抜け出た魂のようにも見える。
ちなみに私は雪国の出身ではあるが、藁靴を履いた事は無い。
加えて、見渡す限り人工物が無い雪原に立ったことも歩いたことも無い。
だがこの夢の中で私は……この夢の中で私は私ではないので『彼』というべきなのかもしれないが。
ややこしくなってしまうので、あえて私と言っておく。
私は少なくとも、行ったはずもない場所で体験したことも無い感覚を感じているらしい。
そうこうしている間に歩は進み、私は凍った大きな湖の前に立った。
大きい湖だ、名前は分からないが大きいという事だけは覚えている。
対岸は、湖にかかった濃い霧で全く見えない。
湖面には分厚い氷が張られており、恐る恐る足を置き体重をかけてみるが悲鳴の一つも上げなかった。
「おーい、■■■←(私の名前だと思うがどうしても思い出すことが出来ない)」
私を呼ぶ声の方に目を向けると、子供が三人いた。
どうやら三人のうちの一人が私に声をかけて来たらしい、残りの二人は私の方には目もくれない。
三人は湖面に四つん這いになって何かをしていた、何をしていたか初めは分からなかった。
だが近づいていくと、少しづつ何をしているか分かってきた。
彼らは、湖面の氷を食べていた。
まるでかき氷でも食べるように、スプーンを湖面に突き立てていた。
私の方を見もしなかった二人は、湖面に何度もスプーンを突き立て砕いた氷を次々に口に運ぶ。
気味が悪かった。寒いはずなのに、不思議と体が熱を帯びていく。
立ち尽くす私の前で、次々と何かに取りつかれているかのように氷を口に運ぶ子供。
声をかけてきた少年が、私にスプーンを差し出した。
分からない、私には彼の顔が分からない。
思い出すことが出来ないわけではなく、顔が分からないのだ。
黒い靄がかかったように彼の顔ははっきりとしない。
ただその声の感じと背丈から、私は同じくらいの年頃の少年だと判断した。
「ほら、お前も食べろよ!」
私はスプーンを受け取れない。当たり前だ、湖面に張った氷を食べるなどどう考えても異常だった。
だが、私は受け取ってしまった。
皮膚を小さな針で突き刺されたように感じてしまうほど冷たいスプーンを。
彼らを真似て四つん這いになり、二度三度とスプーンを氷に突き立てる。
氷はそこまで硬くはない。すぐに砕けてかき氷のようになった。
私はそれを口に運ぶ。
氷は驚くほど美味しかった。
食べたことのない、感じた事のない美味しさだった。次から次へと氷を口に運ぶ。
これならあれだけ夢中になっていたのも頷ける。
甘いような、本当になんと言っていいのか分からない。ただただ美味しいのだ。
口の中がどんどん冷えていき、感覚がなくなっていくのに私は食べる事を辞められない。
もっと食べたい、そう思いながらもう一度氷の乗ったスプーンをくわえようとした時だった。
誰かに呼ばれた、私は手を止め声のする方に歩き出す。
そこには大人がいた。
その大人もまた顔が分からない、顔も分からない大人ではあるが体つきから女性だという事は分かる。
私は不思議と恐怖は感じない、彼女に手を取られ一緒に歩き出した。
振り向くと、あの三人はまだ氷を食べていた。一心不乱に食べている。
きっと私がいなくなったことなど気にも留めていないだろう。
さっきまで自分がやっていた事のはずなのだが、私にはそれがとても恐ろしく不気味なものに思えた。
私の手を引いている女性が着ているのは、私や他の子供たちのような防寒着では無かった。
何の変哲もない質素な藤色の着物だという事に、私は気づいた。
だがそれを不気味に思うどころか、何の疑問も抱かなかった。
私はそれの方が今思い返すと怖い。
私は木造の家にいた。
あの美味な湖からこの家までの記憶は無い。
少し瞬きをしたらここにいた。どうやら既に夜になってしまったらしい。
部屋の中は暗いが、中央にある囲炉裏のお陰でぼんやりと明るい。
部屋は八畳から十畳ほどだろうか、もっと広く感じてしまうのは天井が高いからだろう。
私と囲炉裏を挟んだ向こう側には、老人達が部屋の半分を埋め尽くすように座っている。
老人というのは、囲炉裏に照らされた顔にしわが深く刻み込まれているが見えたからである。
男か女かなどもう分からない程に年老いた老人が、喋らず動かず部屋に並べられている様子は余りにも人間というか私の知っている世界からはかけ離れた光景に思える。
私は先頭に座る老人に促され、振り向くと私の後ろには梯子の掛かった百葉箱のようなものがあった。
だがそれは私の知る物よりもずっと大きい、私の身長の三倍はある。
見上げると箱の入り口が開け放たれている。
下からでは箱の中身は見えない。
ここで私の口は勝手に動き出した。
「鬼女に言葉を捧げる」
意味が分からなかった、この言葉にどんな意味があるのか分からない。
次に私の両手は自らの陰部に伸びる、そしてそれを服越しに触った後でまた私の口は動いた。
「鬼女様、鬼女様、鬼女様、鬼女様、鬼女様、鬼女様、鬼女様」
そう唱えた後、私は梯子を昇る。
木製の梯子は時折ギシギシと音を立てるが、私は構わず昇る。
開け放たれた箱の入り口にたどり着き、中を覗き込む。
中にいたのは子供だった。
まだ幼い、小さな子供が七人いる。
怯えた顔で私を見ていた。
私は、なるべく怖がらせないようにゆっくりとした動作で子供を引き寄せる。
そして子供を抱え、器用に梯子を下りていく。
それを七度繰り返し、最後の子供を下ろし私は空っぽになった箱に向かって、
「終わり」
と言って舌を出した。
ここで私は目を覚ました。
時計の針は十時を指している。
カーテンの隙間から差し込む陽光、走る車の音。
私の住むアパートの駐車場で遊ぶ子供たちの声。
全ていつも通り、よくある土曜の午前の光景のはずだ。
だが私の体は汗をこれでもかとかいており、石になったような倦怠感に襲われる。
背中はぐっしょりと濡れており、まるでどこか遠くに行ってきたような感覚が襲う。
絶対に合うはずのないパズルのピースを無理矢理合わせようとするような、違和感が。
私は体を振るわせ、シャワーを浴びに浴室に歩き出した。
遠い、浴室が異常なほど遠く感じてしまうほど体が重い。
シャワーを浴びた後、水を一杯飲んでから先ほどの夢を思い返す。
一つとして理解できない夢だった、気味の悪い夢だった。
私は一体どこにいたのか?
スプーンで氷を食べる子供達はなんなのか?
あの儀式は? 鬼女とは?
理解できない。いや、逆に私が理解出来るような出来事など一つもあの夢の中に無かった。
理解できなくていいのだ、それこそが私が間違い無くここにいて、この世界の住人だという証拠なのだから。
空は良く晴れており、見上げるとその美しさについ目を細めてしまう。
所々に気まぐれのように雲を残してはいるものの、この青空の美しさを損ねる理由にはならない。
頬を凍てつくような風が撫でる、季節はどうやら冬らしい。
辺り一面には雪が降り積もっている。
足を上げて、一歩だけ前に出る。
さく、という乾いた音が聞こえた。
もう一度回りを見回しても、人工物のようなものは何一つない。
家屋や道路、車に電柱。それらは少なくとも私の視界の中には無い。
私は歩き出す、あてがあったわけではない。
ただ止まっているわけにはいかない、と思ったわけでもない。
私の意思とは関係なく、足は進む。足元を見ると私はどうやら今よりも若くなっているらしい。
年の頃は、十歳くらいだろうか?
歩を進める私の足は、見慣れたものよりも華奢になっており、足には藁靴を履いている。
ただ実用性だけを追い求めたような、至って単純な作りをしている。
どれくらい歩いただろうか、時間だけを考えればそこまで歩いていないのかもしれない。
だが、足の脛の辺りまで積もった雪の中を歩くのには体力がいる。
私は白い息を吐き出した、それはまるで抜け出た魂のようにも見える。
ちなみに私は雪国の出身ではあるが、藁靴を履いた事は無い。
加えて、見渡す限り人工物が無い雪原に立ったことも歩いたことも無い。
だがこの夢の中で私は……この夢の中で私は私ではないので『彼』というべきなのかもしれないが。
ややこしくなってしまうので、あえて私と言っておく。
私は少なくとも、行ったはずもない場所で体験したことも無い感覚を感じているらしい。
そうこうしている間に歩は進み、私は凍った大きな湖の前に立った。
大きい湖だ、名前は分からないが大きいという事だけは覚えている。
対岸は、湖にかかった濃い霧で全く見えない。
湖面には分厚い氷が張られており、恐る恐る足を置き体重をかけてみるが悲鳴の一つも上げなかった。
「おーい、■■■←(私の名前だと思うがどうしても思い出すことが出来ない)」
私を呼ぶ声の方に目を向けると、子供が三人いた。
どうやら三人のうちの一人が私に声をかけて来たらしい、残りの二人は私の方には目もくれない。
三人は湖面に四つん這いになって何かをしていた、何をしていたか初めは分からなかった。
だが近づいていくと、少しづつ何をしているか分かってきた。
彼らは、湖面の氷を食べていた。
まるでかき氷でも食べるように、スプーンを湖面に突き立てていた。
私の方を見もしなかった二人は、湖面に何度もスプーンを突き立て砕いた氷を次々に口に運ぶ。
気味が悪かった。寒いはずなのに、不思議と体が熱を帯びていく。
立ち尽くす私の前で、次々と何かに取りつかれているかのように氷を口に運ぶ子供。
声をかけてきた少年が、私にスプーンを差し出した。
分からない、私には彼の顔が分からない。
思い出すことが出来ないわけではなく、顔が分からないのだ。
黒い靄がかかったように彼の顔ははっきりとしない。
ただその声の感じと背丈から、私は同じくらいの年頃の少年だと判断した。
「ほら、お前も食べろよ!」
私はスプーンを受け取れない。当たり前だ、湖面に張った氷を食べるなどどう考えても異常だった。
だが、私は受け取ってしまった。
皮膚を小さな針で突き刺されたように感じてしまうほど冷たいスプーンを。
彼らを真似て四つん這いになり、二度三度とスプーンを氷に突き立てる。
氷はそこまで硬くはない。すぐに砕けてかき氷のようになった。
私はそれを口に運ぶ。
氷は驚くほど美味しかった。
食べたことのない、感じた事のない美味しさだった。次から次へと氷を口に運ぶ。
これならあれだけ夢中になっていたのも頷ける。
甘いような、本当になんと言っていいのか分からない。ただただ美味しいのだ。
口の中がどんどん冷えていき、感覚がなくなっていくのに私は食べる事を辞められない。
もっと食べたい、そう思いながらもう一度氷の乗ったスプーンをくわえようとした時だった。
誰かに呼ばれた、私は手を止め声のする方に歩き出す。
そこには大人がいた。
その大人もまた顔が分からない、顔も分からない大人ではあるが体つきから女性だという事は分かる。
私は不思議と恐怖は感じない、彼女に手を取られ一緒に歩き出した。
振り向くと、あの三人はまだ氷を食べていた。一心不乱に食べている。
きっと私がいなくなったことなど気にも留めていないだろう。
さっきまで自分がやっていた事のはずなのだが、私にはそれがとても恐ろしく不気味なものに思えた。
私の手を引いている女性が着ているのは、私や他の子供たちのような防寒着では無かった。
何の変哲もない質素な藤色の着物だという事に、私は気づいた。
だがそれを不気味に思うどころか、何の疑問も抱かなかった。
私はそれの方が今思い返すと怖い。
私は木造の家にいた。
あの美味な湖からこの家までの記憶は無い。
少し瞬きをしたらここにいた。どうやら既に夜になってしまったらしい。
部屋の中は暗いが、中央にある囲炉裏のお陰でぼんやりと明るい。
部屋は八畳から十畳ほどだろうか、もっと広く感じてしまうのは天井が高いからだろう。
私と囲炉裏を挟んだ向こう側には、老人達が部屋の半分を埋め尽くすように座っている。
老人というのは、囲炉裏に照らされた顔にしわが深く刻み込まれているが見えたからである。
男か女かなどもう分からない程に年老いた老人が、喋らず動かず部屋に並べられている様子は余りにも人間というか私の知っている世界からはかけ離れた光景に思える。
私は先頭に座る老人に促され、振り向くと私の後ろには梯子の掛かった百葉箱のようなものがあった。
だがそれは私の知る物よりもずっと大きい、私の身長の三倍はある。
見上げると箱の入り口が開け放たれている。
下からでは箱の中身は見えない。
ここで私の口は勝手に動き出した。
「鬼女に言葉を捧げる」
意味が分からなかった、この言葉にどんな意味があるのか分からない。
次に私の両手は自らの陰部に伸びる、そしてそれを服越しに触った後でまた私の口は動いた。
「鬼女様、鬼女様、鬼女様、鬼女様、鬼女様、鬼女様、鬼女様」
そう唱えた後、私は梯子を昇る。
木製の梯子は時折ギシギシと音を立てるが、私は構わず昇る。
開け放たれた箱の入り口にたどり着き、中を覗き込む。
中にいたのは子供だった。
まだ幼い、小さな子供が七人いる。
怯えた顔で私を見ていた。
私は、なるべく怖がらせないようにゆっくりとした動作で子供を引き寄せる。
そして子供を抱え、器用に梯子を下りていく。
それを七度繰り返し、最後の子供を下ろし私は空っぽになった箱に向かって、
「終わり」
と言って舌を出した。
ここで私は目を覚ました。
時計の針は十時を指している。
カーテンの隙間から差し込む陽光、走る車の音。
私の住むアパートの駐車場で遊ぶ子供たちの声。
全ていつも通り、よくある土曜の午前の光景のはずだ。
だが私の体は汗をこれでもかとかいており、石になったような倦怠感に襲われる。
背中はぐっしょりと濡れており、まるでどこか遠くに行ってきたような感覚が襲う。
絶対に合うはずのないパズルのピースを無理矢理合わせようとするような、違和感が。
私は体を振るわせ、シャワーを浴びに浴室に歩き出した。
遠い、浴室が異常なほど遠く感じてしまうほど体が重い。
シャワーを浴びた後、水を一杯飲んでから先ほどの夢を思い返す。
一つとして理解できない夢だった、気味の悪い夢だった。
私は一体どこにいたのか?
スプーンで氷を食べる子供達はなんなのか?
あの儀式は? 鬼女とは?
理解できない。いや、逆に私が理解出来るような出来事など一つもあの夢の中に無かった。
理解できなくていいのだ、それこそが私が間違い無くここにいて、この世界の住人だという証拠なのだから。