泥棒
文字数 5,568文字
どこかのショッピングモールに私はいた。
私はライトアップされた噴水広場のような場所にいて、円形の噴水近くの木でできたベンチに座っているのだ。
照らされた噴水が良く映える、時刻を確かめようと周りを見渡すと広場の時計は九時を指している。
噴水が勢いよく吹き上がり、顔に細かいミストが見えない布を被せるようにぶつかってきた。
私はここに来たことが無い、それは間違いない。
何と言うかここは『ショッピングモール』という言葉を無難に形にしただけのような場所に思える。
ライトアップされた噴水広場があり、ベンチがあり、店がそれなりの数ある大きめのショッピングモール。
ただただテンプレートな場所なのだ、独創性も歴史も何一つ感じられない無難で特徴のない場所なのだ。
「待たせたな、行こうぜ」
私を呼ぶ声の方を見ると、見慣れた顔があった。
彼とは一度も現実であったことが無い、実在する人間なのだが私は彼を薄汚れたスマートフォンの画面越しにしか見たことが無かった。
彼の事はとりあえずTとでもしておこう。
Tは呆ける私に向かって、呆れたような顔をつくりさっさと歩き出してしまった。
私はとりあえずTの後を追う。
黙ったままショッピングモールの中を歩く、私は不気味で仕方なかった。
誰もいない。誰もいないのだ。客はおろか、店員すら。
仮に閉店間際だったとしても、店員すらいないのは不自然ではないか。
店内に流れる聞きなれたBGMが余計に恐ろしく感じる。
歩き続けると、道の真ん中に黒い財布が落ちていた。使用感のある皮の二つ折りの財布だ。
私がそれを拾うべきか悩んだ一瞬のうちにTは財布を拾い、中を確認していた。
当然ながら私はTがそんな事をする人間だとは思っていない、加えて私自身そんな事をする人間ではないということを付け加えておく。
だがTは私が今まで見た事のないような卑しい笑みを浮かべ、財布から二万円を何の悪気無く抜いて見せた。
入っていた札を全て抜いても満足できなかったのか、次にTはカード類を漁り始めた。
財布の中にあった価値のあるカードはクレジットカードが一枚あっただけで、他はポイントカードなどの大して価値の無いようなものばかりだった。
「ツイてたな」
そう言って彼はにやにやと笑いながら、通路のゴミ箱に財布を押し込むようにして捨てた。
使い込まれた財布だった、何か思い入れのある物かもしれない。大事な人から貰ったものか、初めて買った財布かもしれない。
仮に思い入れなく、惰性で使っていた物だとしても落とした本人は間違いなく困り果てているに違いない。
だがそんな事を想像する素振りすら見せないTの行動は、私の心に不信感や軽蔑感といった彼に対する負の感情を抱かせるには十分すぎた。
だが何を言うわけでも無く、私は後ろを歩いていく。
Tの行動を咎める事も出来たはずだが、それをしない。
彼は余程機嫌がいいのか、先ほどの財布の事をべらべらと壊れた機械のように繰り返していた。
嫌気が差し始めた頃、後ろから声をかけられた。
彼は私に話しかける事は無く、Tと話し始めた。口ぶりからすると彼の後輩らしい。
ああ、まただ。顔が分からない。
体つきや服装から男だという事が分かるが、首から上に視線がいかない。
だが軽薄な声と口調から年齢は若い。
当たり障りのない会話をしてから、立ち去ろうとする後輩にTはまるで自分の物のように先ほど誰かの財布から抜いた一万円を後輩に手渡した。
後輩は明るく礼を言って立ち去った。
私はTの隣にいるのが心底嫌になっていた、今すぐにでも彼を置いてこの場を立ち去りたい。
再び歩き出した私たちは駐車場に来ていた、あの軽薄そうな後輩と別れた後もTは取るに足らない聞いてもいない話を延々と続けていた。
話の内容は覚えるまでも無い程に下らない物だった、先ほどの財布から抜いた金の事や自身の武勇伝など聞き流しても特に問題のないものばかりだった。
もっとも彼にとっては私が自分の話を聞いていようが、聞いてなかろうが関係ないように思える。
彼は話をする自分が好きなようだった。
そしてTに促され彼の物であろう紺色の軽自動車に乗り込んだ。
今度はこんな狭い車内で話を聞かなければならないと思うと気が重かったが仕方ない、私は諦めて助手席で覚悟を決めた。
コンコンと乾いた音が聞こえた、音のする方を見てみると黒いスーツを着た男がこちらをじいっと覗き込んでいた。
見た事がある顔だ、しかし随分と懐かしい。
彼は同じ中学の同級生だった、別段仲が良かったわけでは無いが時々話す程度には交流があった。彼の事はKと呼ぶことにする。
私が窓を開けると、私に車から降りるように言ってきた。
言われるまま私は車を降りる。降りる私にTは何も言わなかった。
「お前何やってんだよ、もうみんな集まってるぞ」
Kは顔色一つ変えずそう言った。
私の記憶の中の彼はもっと表情豊かだったはずだ、笑う時も怒る時ももっと表情を作るはずだ。
だが目の前にいるKはまるで彼の皮を被ったロボットのようだ、私を穴が開く程じっと見ながら抑揚のない言葉で話す彼は言うまでも無く薄気味悪い。
顔も声も間違いなくKなのに全くの別人、いや別のモノのような印象を抱く。
彼は少し間をおいてから店の中に歩き出した、私に伝えるべき事はもう伝えたからか既に彼の興味は私に無いような気がする。
私がどうすればいいか迷っている間に、Tの車のエンジンがかかり私を置いて走り去ってしまった。
もう私にできる事はKに付いていく、ただそれだけになってしまった。
小走りで追いかけるとすぐに彼には追い付けた。
待っていたわけでは無く、歩くのが驚くほど遅いのだ。
一歩足を踏み出し地面にその足が着くと、下にいる何かを踏み潰すように体重をかけてから次の一歩を踏み出す。
それを繰り返すのだ。何度も何度も、繰り返すのだ。
私はもどかしい気持ちを抑えながらKの後ろを歩く。
彼は一言も喋らない。
そのせいで私も何も言えない、ただ重苦しい沈黙が私たちの間に横たわっていた。
あのべらべらとやかましいTが少し恋しくなりそうな沈黙に耐えきり、私は扉の前に立った。
薄暗くやけに音が響く階段を下りた先の地下三階にその扉はあった。
淡い光で照らされた壁と同じクリーム色をした鉄の扉、上部には『関係者以外立ち入り禁止』と書かれたプレートが取り付けられている。
ここはこのショッピングモールで働いている従業員の控室だろう。
子供の時はこの扉の奥に何があるのか気になったりもした、だが今では特別気にも留めないような場所だ。
Kは相変わらず何も言ってくれない、すると彼はおもむろにドアノブに手をかけた。
それを見て私はとっさに彼の手を掴んでしまう。
当然だ、何故ならここは『入ってはいけない場所』なのだから。
もしかしたら子供でも何となくわかるのではないだろうか、ここに入ってはいけないという事が。
にぎわう店内から少し離れた場所にある鉄の扉、階段下の暗がりにあるようなどこか近寄りがたく中が想像できない場所。
そんな異界染みた雰囲気を私はこの扉に感じていた。
だからどれだけ中が気になっていたとしても、この扉を開けた事は無い。
それを開けようと言うのだ、普段なら大人として社会人として彼を止めただろう。
一般常識の威を借り、理性で彼を止めただろう。
私達はとうにおふざけで済む年齢では無いのだ、行動にはそれ相応の責任が伴うのだから。
だが今は違う、私は理性で彼を止めてはいない。
ここを開けてはならない、そういった恐怖……いわば本能で彼の手を掴んだのだ。
もうほとんど反射のようなものだった、でなければきっと止められなかった。
ここを開けてはならない、開けさせてはならない。
Kの手がドアノブに触れた瞬間、背中を虫が這いまわるような悪寒が襲った。
足が多く動きの速い虫が何十匹と這いまわるような。
そんな悪寒だった。
だが彼は私の事を一瞥もせず、その扉を開いてしまった。
ぎぃーと耳障りな音を立てながら扉は開いた。
私は恐ろしくて中が見れない、一体中に何があるのか誰がいるのか想像もつかない。
私は目を背けたままだったがいつまでもこうしているわけにはいかない、なるようになれとやけくそ気味に中を見た。
そこには私が想像もつかない光景が広がっていた。
なんてことはない部屋だった、三人掛けの机が縦に三つ横に二つといった構成で配置されており、机にはKと同じように黒いスーツを着た男女が十八人、静かに座っていた。
部屋の中は明るく、会社の会議室のような印象を受ける。
Kが前に進んだので私は手を離し、恐る恐る部屋の中に足を踏み入れた。
喋っている者は誰一人いない。
よく見ると見知った顔が何人かいる、といっても私が分かったのは五人程度で他はよく分からず見た事も無い顔ぶれだ。
私とKが彼らの前に立つと一斉に拍手が巻き起こった。
全員が笑顔を浮かべて大きく拍手する、横を見るとあのKですら私の方を見て笑顔で拍手をしていた。
私が鳴りやまない拍手の中で動けずにいると、突然だれかが机を強く叩いた。
ばん! という音を合図のように拍手が一斉にやんだ。
叩いたのは小中と同じ学校に通った同級生の女の子だ、彼女は年数こそKよりも長いが付き合いはKよりも薄い。
小学校の時は遊んでいたが、小学五年生ほどから会話も減り中学校で話した回数は数えるほどしかない。
彼女の事はSと呼ぶ。
Sは立ち上がり周りを怒りを含んだ表情で見る。
「ねぇ! しっかり悲しもうよ!」
私の記憶の中にこんな大声を出すようなSはいない、少なくとも突然立ち上がり意味不明な事を言うような人間では無かったはずだ。
思考が追い付かない、一体なにが起こっているのか何が目的なのか分からない。
そしてそれを教えてくれる人間がここにはいない。
座っていた人間たちは立ち上がると、ぞろぞろと部屋の後方にあった扉から部屋を出ていく。
私を置いて部屋から人が消えていく。
このまま訳が分からないまま置き去りにされてたまるものか。
私は立ち去ろうとするKやSに声をかけた。
だが彼らは立ち止まりも振り返りもせず、部屋を出て行こうとした。
我慢できずに私はKの肩に手を置いた、そしてその瞬間理解した。
これは夢か。
目が覚める、いつもと変わらないアパートの一室。
真っ暗闇の中に私はいた、どうやらまだ夜はあけていないらしい。
冷蔵庫の駆動音が夢から覚めたという実感をくれる。
安心したように私は寝返りを打とうとした。
動かない。
私の身体は全く動かない、左にある壁に体を向けたままピクリともしない。
金縛りか、私は焦りの中に落ち着きを残したまま静かに目を閉じた。
慌てる事は無い、このまま眠ってしまえ。
確かに寝苦しいが構うものか、まだ暗い二度寝をしたところでどうという事は無いだろう。
そんな余裕ぶる私にの顔に布がかけられた。
軽い、薄手の丁度私の顔だけを覆えるくらいの布だ。
ふわっとかけられた感覚が確かにあった。
そして声が聞こえたのだ。
「あなたの名前を言いなさい」
透明な尖ったガラスのような声だ、私の顔すれすれの所で喋っているらしい。
見えないはずなのにその女がどんな体勢なのか嫌な想像ばかり膨らむ。
私の身体を足で挟むように立ち、上半身をあり得ないくらい折り曲げて私に顔を近づけている。
そんな想像と恐怖だけが膨らんでいく。
言ってはならない、私は自身の名をこの女に伝えてはならないと分かっている。
だが私の口は、律儀に名前を教えるために開こうとしている。
言っては駄目だと言う理性で必死に口を押さえつける。
そのせいで私の口は歯をがちがちと鳴らしながら震えだし、それにつられているのかは分からないが体はひどい寒気を感じ始めた。
今は九月下旬、そこまで寒いと言う感じはしなかったが、早めに毛布を出しておこうと二日前にクローゼットを開けたばかりだった。
タオルケット、毛布、掛布団と三枚使っている以上寒さを感じるはずはない。
そして感覚的に私の身体はしっかりと布団の中に納まっている。
だが寒い、まるで私を守ってくれるものなど何一つないように。
がちがちと歯を鳴らし続けてどれくらい経っただろう、私の震えは次第に落ち着いていった、
指先が動くようになった瞬間に私は照明のリモコンに飛びつき、電気を点けた。
時刻は深夜一時を回ったくらいだった、身体はまだあちこちに違和感を残している。
私は後日あの夢に出てきた知り合いと共通の友人に連絡を取り、彼らの近況を聞いてみた。
私はすでに地元を出てしまっているため、そうしなければ彼らの状況を知ることが出来なかったのだ。
聞くところによると、私の夢に出てきた知り合い全員が特に目立った問題なく暮らしているらしい。
私は安堵するとともに、余計分からなくなった。
不謹慎な言い方になるが、もし彼らに良くないことが起きたとしたらまだわかる。
そういった良くないことを知らせる夢もあるだろう。
だがそうでないならなぜ彼らは私の夢に現れたのか。
特に親しくも無く、すでに交流など無いに等しいというのに。
一体あれらが何なのか、私に名前を聞いてきた女は誰なのか。
その答えはどこにもない、もしかしたら分からない方がいいのかもしれない。
私はあれからスーパーやデパートにあるあの扉を見るたびに、恐ろしくなる。
なるべく近づかないように手早く買い物を終え、店を出るのだ。
あの扉の奥にまだいるかもしれない、私の知り合いと同じ顔をした何かが這い出してくる前に。
私はライトアップされた噴水広場のような場所にいて、円形の噴水近くの木でできたベンチに座っているのだ。
照らされた噴水が良く映える、時刻を確かめようと周りを見渡すと広場の時計は九時を指している。
噴水が勢いよく吹き上がり、顔に細かいミストが見えない布を被せるようにぶつかってきた。
私はここに来たことが無い、それは間違いない。
何と言うかここは『ショッピングモール』という言葉を無難に形にしただけのような場所に思える。
ライトアップされた噴水広場があり、ベンチがあり、店がそれなりの数ある大きめのショッピングモール。
ただただテンプレートな場所なのだ、独創性も歴史も何一つ感じられない無難で特徴のない場所なのだ。
「待たせたな、行こうぜ」
私を呼ぶ声の方を見ると、見慣れた顔があった。
彼とは一度も現実であったことが無い、実在する人間なのだが私は彼を薄汚れたスマートフォンの画面越しにしか見たことが無かった。
彼の事はとりあえずTとでもしておこう。
Tは呆ける私に向かって、呆れたような顔をつくりさっさと歩き出してしまった。
私はとりあえずTの後を追う。
黙ったままショッピングモールの中を歩く、私は不気味で仕方なかった。
誰もいない。誰もいないのだ。客はおろか、店員すら。
仮に閉店間際だったとしても、店員すらいないのは不自然ではないか。
店内に流れる聞きなれたBGMが余計に恐ろしく感じる。
歩き続けると、道の真ん中に黒い財布が落ちていた。使用感のある皮の二つ折りの財布だ。
私がそれを拾うべきか悩んだ一瞬のうちにTは財布を拾い、中を確認していた。
当然ながら私はTがそんな事をする人間だとは思っていない、加えて私自身そんな事をする人間ではないということを付け加えておく。
だがTは私が今まで見た事のないような卑しい笑みを浮かべ、財布から二万円を何の悪気無く抜いて見せた。
入っていた札を全て抜いても満足できなかったのか、次にTはカード類を漁り始めた。
財布の中にあった価値のあるカードはクレジットカードが一枚あっただけで、他はポイントカードなどの大して価値の無いようなものばかりだった。
「ツイてたな」
そう言って彼はにやにやと笑いながら、通路のゴミ箱に財布を押し込むようにして捨てた。
使い込まれた財布だった、何か思い入れのある物かもしれない。大事な人から貰ったものか、初めて買った財布かもしれない。
仮に思い入れなく、惰性で使っていた物だとしても落とした本人は間違いなく困り果てているに違いない。
だがそんな事を想像する素振りすら見せないTの行動は、私の心に不信感や軽蔑感といった彼に対する負の感情を抱かせるには十分すぎた。
だが何を言うわけでも無く、私は後ろを歩いていく。
Tの行動を咎める事も出来たはずだが、それをしない。
彼は余程機嫌がいいのか、先ほどの財布の事をべらべらと壊れた機械のように繰り返していた。
嫌気が差し始めた頃、後ろから声をかけられた。
彼は私に話しかける事は無く、Tと話し始めた。口ぶりからすると彼の後輩らしい。
ああ、まただ。顔が分からない。
体つきや服装から男だという事が分かるが、首から上に視線がいかない。
だが軽薄な声と口調から年齢は若い。
当たり障りのない会話をしてから、立ち去ろうとする後輩にTはまるで自分の物のように先ほど誰かの財布から抜いた一万円を後輩に手渡した。
後輩は明るく礼を言って立ち去った。
私はTの隣にいるのが心底嫌になっていた、今すぐにでも彼を置いてこの場を立ち去りたい。
再び歩き出した私たちは駐車場に来ていた、あの軽薄そうな後輩と別れた後もTは取るに足らない聞いてもいない話を延々と続けていた。
話の内容は覚えるまでも無い程に下らない物だった、先ほどの財布から抜いた金の事や自身の武勇伝など聞き流しても特に問題のないものばかりだった。
もっとも彼にとっては私が自分の話を聞いていようが、聞いてなかろうが関係ないように思える。
彼は話をする自分が好きなようだった。
そしてTに促され彼の物であろう紺色の軽自動車に乗り込んだ。
今度はこんな狭い車内で話を聞かなければならないと思うと気が重かったが仕方ない、私は諦めて助手席で覚悟を決めた。
コンコンと乾いた音が聞こえた、音のする方を見てみると黒いスーツを着た男がこちらをじいっと覗き込んでいた。
見た事がある顔だ、しかし随分と懐かしい。
彼は同じ中学の同級生だった、別段仲が良かったわけでは無いが時々話す程度には交流があった。彼の事はKと呼ぶことにする。
私が窓を開けると、私に車から降りるように言ってきた。
言われるまま私は車を降りる。降りる私にTは何も言わなかった。
「お前何やってんだよ、もうみんな集まってるぞ」
Kは顔色一つ変えずそう言った。
私の記憶の中の彼はもっと表情豊かだったはずだ、笑う時も怒る時ももっと表情を作るはずだ。
だが目の前にいるKはまるで彼の皮を被ったロボットのようだ、私を穴が開く程じっと見ながら抑揚のない言葉で話す彼は言うまでも無く薄気味悪い。
顔も声も間違いなくKなのに全くの別人、いや別のモノのような印象を抱く。
彼は少し間をおいてから店の中に歩き出した、私に伝えるべき事はもう伝えたからか既に彼の興味は私に無いような気がする。
私がどうすればいいか迷っている間に、Tの車のエンジンがかかり私を置いて走り去ってしまった。
もう私にできる事はKに付いていく、ただそれだけになってしまった。
小走りで追いかけるとすぐに彼には追い付けた。
待っていたわけでは無く、歩くのが驚くほど遅いのだ。
一歩足を踏み出し地面にその足が着くと、下にいる何かを踏み潰すように体重をかけてから次の一歩を踏み出す。
それを繰り返すのだ。何度も何度も、繰り返すのだ。
私はもどかしい気持ちを抑えながらKの後ろを歩く。
彼は一言も喋らない。
そのせいで私も何も言えない、ただ重苦しい沈黙が私たちの間に横たわっていた。
あのべらべらとやかましいTが少し恋しくなりそうな沈黙に耐えきり、私は扉の前に立った。
薄暗くやけに音が響く階段を下りた先の地下三階にその扉はあった。
淡い光で照らされた壁と同じクリーム色をした鉄の扉、上部には『関係者以外立ち入り禁止』と書かれたプレートが取り付けられている。
ここはこのショッピングモールで働いている従業員の控室だろう。
子供の時はこの扉の奥に何があるのか気になったりもした、だが今では特別気にも留めないような場所だ。
Kは相変わらず何も言ってくれない、すると彼はおもむろにドアノブに手をかけた。
それを見て私はとっさに彼の手を掴んでしまう。
当然だ、何故ならここは『入ってはいけない場所』なのだから。
もしかしたら子供でも何となくわかるのではないだろうか、ここに入ってはいけないという事が。
にぎわう店内から少し離れた場所にある鉄の扉、階段下の暗がりにあるようなどこか近寄りがたく中が想像できない場所。
そんな異界染みた雰囲気を私はこの扉に感じていた。
だからどれだけ中が気になっていたとしても、この扉を開けた事は無い。
それを開けようと言うのだ、普段なら大人として社会人として彼を止めただろう。
一般常識の威を借り、理性で彼を止めただろう。
私達はとうにおふざけで済む年齢では無いのだ、行動にはそれ相応の責任が伴うのだから。
だが今は違う、私は理性で彼を止めてはいない。
ここを開けてはならない、そういった恐怖……いわば本能で彼の手を掴んだのだ。
もうほとんど反射のようなものだった、でなければきっと止められなかった。
ここを開けてはならない、開けさせてはならない。
Kの手がドアノブに触れた瞬間、背中を虫が這いまわるような悪寒が襲った。
足が多く動きの速い虫が何十匹と這いまわるような。
そんな悪寒だった。
だが彼は私の事を一瞥もせず、その扉を開いてしまった。
ぎぃーと耳障りな音を立てながら扉は開いた。
私は恐ろしくて中が見れない、一体中に何があるのか誰がいるのか想像もつかない。
私は目を背けたままだったがいつまでもこうしているわけにはいかない、なるようになれとやけくそ気味に中を見た。
そこには私が想像もつかない光景が広がっていた。
なんてことはない部屋だった、三人掛けの机が縦に三つ横に二つといった構成で配置されており、机にはKと同じように黒いスーツを着た男女が十八人、静かに座っていた。
部屋の中は明るく、会社の会議室のような印象を受ける。
Kが前に進んだので私は手を離し、恐る恐る部屋の中に足を踏み入れた。
喋っている者は誰一人いない。
よく見ると見知った顔が何人かいる、といっても私が分かったのは五人程度で他はよく分からず見た事も無い顔ぶれだ。
私とKが彼らの前に立つと一斉に拍手が巻き起こった。
全員が笑顔を浮かべて大きく拍手する、横を見るとあのKですら私の方を見て笑顔で拍手をしていた。
私が鳴りやまない拍手の中で動けずにいると、突然だれかが机を強く叩いた。
ばん! という音を合図のように拍手が一斉にやんだ。
叩いたのは小中と同じ学校に通った同級生の女の子だ、彼女は年数こそKよりも長いが付き合いはKよりも薄い。
小学校の時は遊んでいたが、小学五年生ほどから会話も減り中学校で話した回数は数えるほどしかない。
彼女の事はSと呼ぶ。
Sは立ち上がり周りを怒りを含んだ表情で見る。
「ねぇ! しっかり悲しもうよ!」
私の記憶の中にこんな大声を出すようなSはいない、少なくとも突然立ち上がり意味不明な事を言うような人間では無かったはずだ。
思考が追い付かない、一体なにが起こっているのか何が目的なのか分からない。
そしてそれを教えてくれる人間がここにはいない。
座っていた人間たちは立ち上がると、ぞろぞろと部屋の後方にあった扉から部屋を出ていく。
私を置いて部屋から人が消えていく。
このまま訳が分からないまま置き去りにされてたまるものか。
私は立ち去ろうとするKやSに声をかけた。
だが彼らは立ち止まりも振り返りもせず、部屋を出て行こうとした。
我慢できずに私はKの肩に手を置いた、そしてその瞬間理解した。
これは夢か。
目が覚める、いつもと変わらないアパートの一室。
真っ暗闇の中に私はいた、どうやらまだ夜はあけていないらしい。
冷蔵庫の駆動音が夢から覚めたという実感をくれる。
安心したように私は寝返りを打とうとした。
動かない。
私の身体は全く動かない、左にある壁に体を向けたままピクリともしない。
金縛りか、私は焦りの中に落ち着きを残したまま静かに目を閉じた。
慌てる事は無い、このまま眠ってしまえ。
確かに寝苦しいが構うものか、まだ暗い二度寝をしたところでどうという事は無いだろう。
そんな余裕ぶる私にの顔に布がかけられた。
軽い、薄手の丁度私の顔だけを覆えるくらいの布だ。
ふわっとかけられた感覚が確かにあった。
そして声が聞こえたのだ。
「あなたの名前を言いなさい」
透明な尖ったガラスのような声だ、私の顔すれすれの所で喋っているらしい。
見えないはずなのにその女がどんな体勢なのか嫌な想像ばかり膨らむ。
私の身体を足で挟むように立ち、上半身をあり得ないくらい折り曲げて私に顔を近づけている。
そんな想像と恐怖だけが膨らんでいく。
言ってはならない、私は自身の名をこの女に伝えてはならないと分かっている。
だが私の口は、律儀に名前を教えるために開こうとしている。
言っては駄目だと言う理性で必死に口を押さえつける。
そのせいで私の口は歯をがちがちと鳴らしながら震えだし、それにつられているのかは分からないが体はひどい寒気を感じ始めた。
今は九月下旬、そこまで寒いと言う感じはしなかったが、早めに毛布を出しておこうと二日前にクローゼットを開けたばかりだった。
タオルケット、毛布、掛布団と三枚使っている以上寒さを感じるはずはない。
そして感覚的に私の身体はしっかりと布団の中に納まっている。
だが寒い、まるで私を守ってくれるものなど何一つないように。
がちがちと歯を鳴らし続けてどれくらい経っただろう、私の震えは次第に落ち着いていった、
指先が動くようになった瞬間に私は照明のリモコンに飛びつき、電気を点けた。
時刻は深夜一時を回ったくらいだった、身体はまだあちこちに違和感を残している。
私は後日あの夢に出てきた知り合いと共通の友人に連絡を取り、彼らの近況を聞いてみた。
私はすでに地元を出てしまっているため、そうしなければ彼らの状況を知ることが出来なかったのだ。
聞くところによると、私の夢に出てきた知り合い全員が特に目立った問題なく暮らしているらしい。
私は安堵するとともに、余計分からなくなった。
不謹慎な言い方になるが、もし彼らに良くないことが起きたとしたらまだわかる。
そういった良くないことを知らせる夢もあるだろう。
だがそうでないならなぜ彼らは私の夢に現れたのか。
特に親しくも無く、すでに交流など無いに等しいというのに。
一体あれらが何なのか、私に名前を聞いてきた女は誰なのか。
その答えはどこにもない、もしかしたら分からない方がいいのかもしれない。
私はあれからスーパーやデパートにあるあの扉を見るたびに、恐ろしくなる。
なるべく近づかないように手早く買い物を終え、店を出るのだ。
あの扉の奥にまだいるかもしれない、私の知り合いと同じ顔をした何かが這い出してくる前に。