第2話
文字数 2,046文字
が、子供との距離が二メートルくらいになったとき、俺は異変に気づいた。
――え……この子、なんでこんなに濡れているんだ?
その子は、頭から足元まで、体中びしょびしょに濡れているのだ。服はぴったりと体に張り付き、髪の毛からは雫がぽたりぽたりと滴り落ちている。
その瞬間、背中がぞくりとした。何かがおかしい。俺は後ずさろうとした。
が、子供は突然手を伸ばしてきて、俺の手首をぐっと握ってきた。
「いこう」
そう言って、俺の手首を握ったまま歩き始めた。
「おい、お前、何なんだよ」
手を振りほどこうと抵抗を試みるが、子供なのにやたらと力が強い。俺の手首をがっちりと摑んで離さない。そうして、俺は子供に引きずられるようにして、歩き始めた。
着いたのは再び海だったが、さっきの浜辺とは違って岩場だった。うろうろしていたせいで、既に日は傾きかけており、夕陽が波に削られた岩を照らし、その岩が奇妙な形の影をあちこちに作り出している。
そんな中、子供は無言のままひょいひょいと岩から岩へと飛び移って海へと向かって行く。さすがに俺も怖くなる。
「ちょ、ちょっと待って! 待て!」
悲鳴に近い大声を上げ、足を踏ん張って抵抗する。
「どうして嫌がるの?」
手首をつかんだまま振り向いて、俺にそう聞いた子供の目は、暗い海の底のように澱んでいた。
「うわーっ!」
俺は恐怖に駆られて、思いきり手を振りほどき、海と反対の方へと走り出した。
俺には確信めいたものがあった。あの子供に引きずられて海へと連れ込まれたら、二度とこちら側へ戻ってこれなくなる、と。
だから全速力で走った。こけつまろびつしながら、よく知らない街を、オレンジの光が長い影を作る街中を、走り抜けた。そうして気づくと――いつの間にか俺は、取材するはずだった廃ホテルだった。
既に日は暮れかかっている。薄暗い中、人っ子一人いない廃墟を前に、俺は呆然と立ち尽くしていた。
――いつの間に、俺はこんなに走ったのだろう。
生ぬるい風が吹いてきた。生臭い匂いがする。いや、これは……海の匂い?
「どうして、来ないの?」
後ろからいきなり声をかけられて、俺は文字通り飛び上がった。振り返ると……さっきの子供だった。そして……子供の後ろにも、
「うわぁ―――――!」
俺は走りに走った。
が、日頃の不摂生のせいか、俺は50メートルほどの全力疾走で、息も絶え絶えになっていた。いや、体力不足ばかりではない。それもあるが、恐怖のせいで身体が思うように動かないのだ。
――ダメだ。もう走れない。
後ろから追いかけてくる子供と
気にはなるが、振り返ることはできない。見てしまったら、その瞬間に俺は恐怖で動けなくなってしまうかもしれない。
明かりが見えてきた。あと十数メートル先には人家や商店がある。しかし、あそこまでは走れない。その前に追いつかれてしまう。
数メートル先に電話ボックスが見えた。
あんなものに入ったところで、奴らを防げるかどうかはわからないが、ダメもとだ。
俺は、電話ボックスの扉に手をかけた。
リリリリリリリリリン!
いきなり目の前の電話が鳴った。俺は文字通りひっくり返った。
「ぎゃあ」
なんなんだ! なんでいきなり電話が鳴るんだ! ここ、公衆電話だぞ。一体誰がかけてくるというのか……。
しかし、迷っている時間はなかった。後ろの奴らはもう、すぐ後ろまで来ている。俺は電話が鳴り続けている電話ボックスに入り、ドアが開かないようにしっかりと手で押さえた。
ボックス内は、響きわたる電話の音はうるさいが、少なくとも明るかった。その外側は、ボックス内とは対照的に、真っ暗闇だ。
やがて、ドン!とボックスのガラスの壁を叩く音がした。振動付きで。
そして、続けざまに、横、後ろ、前、あちこちの壁からドン! ドン! という音が響く。
ドンドン! ドンドンドンドンドン!
電話ボックス全体が、頭の高さから足元まで音と振動で満たされる。ドアも押し開けられそうだ。パニックになった俺は、ドアを開けられないように体全体を突っ張って、押さえようとした。そのとき、慌てた俺は、自分の肘を受話器にぶつけてしまった。
気づいたときには、受話器はぶらんと垂れ下がっていた。
そうして――受話器の向こう側から、声が聞こえた。
「まだ、そっちにいるの? おいでよ。早く、おいでよ」
さっきの子供の声だ。間違いない。くそっ! 受話器を戻したいが、手が離せない。この手を離したら、外の奴らがこの電話ボックスの扉を開けてしまうだろう。
「どうしたの? 早く、おいでよ」
いやだ、行かない。そっちは嫌だ! 俺はまだ……
「どうして来ないの? こっちの方が楽なのに」
「うるせぇ!俺は……!」
その時、汗で手が滑った。あっと思う間もなく、扉が開き、無数の手が俺の方へと伸びてきた。
俺は、そのまま意識を失った。
(続く)
――え……この子、なんでこんなに濡れているんだ?
その子は、頭から足元まで、体中びしょびしょに濡れているのだ。服はぴったりと体に張り付き、髪の毛からは雫がぽたりぽたりと滴り落ちている。
その瞬間、背中がぞくりとした。何かがおかしい。俺は後ずさろうとした。
が、子供は突然手を伸ばしてきて、俺の手首をぐっと握ってきた。
「いこう」
そう言って、俺の手首を握ったまま歩き始めた。
「おい、お前、何なんだよ」
手を振りほどこうと抵抗を試みるが、子供なのにやたらと力が強い。俺の手首をがっちりと摑んで離さない。そうして、俺は子供に引きずられるようにして、歩き始めた。
着いたのは再び海だったが、さっきの浜辺とは違って岩場だった。うろうろしていたせいで、既に日は傾きかけており、夕陽が波に削られた岩を照らし、その岩が奇妙な形の影をあちこちに作り出している。
そんな中、子供は無言のままひょいひょいと岩から岩へと飛び移って海へと向かって行く。さすがに俺も怖くなる。
「ちょ、ちょっと待って! 待て!」
悲鳴に近い大声を上げ、足を踏ん張って抵抗する。
「どうして嫌がるの?」
手首をつかんだまま振り向いて、俺にそう聞いた子供の目は、暗い海の底のように澱んでいた。
「うわーっ!」
俺は恐怖に駆られて、思いきり手を振りほどき、海と反対の方へと走り出した。
俺には確信めいたものがあった。あの子供に引きずられて海へと連れ込まれたら、二度とこちら側へ戻ってこれなくなる、と。
だから全速力で走った。こけつまろびつしながら、よく知らない街を、オレンジの光が長い影を作る街中を、走り抜けた。そうして気づくと――いつの間にか俺は、取材するはずだった廃ホテルだった。
既に日は暮れかかっている。薄暗い中、人っ子一人いない廃墟を前に、俺は呆然と立ち尽くしていた。
――いつの間に、俺はこんなに走ったのだろう。
生ぬるい風が吹いてきた。生臭い匂いがする。いや、これは……海の匂い?
「どうして、来ないの?」
後ろからいきなり声をかけられて、俺は文字通り飛び上がった。振り返ると……さっきの子供だった。そして……子供の後ろにも、
何か
が居た。それも、たくさん。「うわぁ―――――!」
俺は走りに走った。
が、日頃の不摂生のせいか、俺は50メートルほどの全力疾走で、息も絶え絶えになっていた。いや、体力不足ばかりではない。それもあるが、恐怖のせいで身体が思うように動かないのだ。
――ダメだ。もう走れない。
後ろから追いかけてくる子供と
何か
の気配はどんどん強くなっている。多分、俺との距離をかなり詰めて来ている。気にはなるが、振り返ることはできない。見てしまったら、その瞬間に俺は恐怖で動けなくなってしまうかもしれない。
明かりが見えてきた。あと十数メートル先には人家や商店がある。しかし、あそこまでは走れない。その前に追いつかれてしまう。
数メートル先に電話ボックスが見えた。
あんなものに入ったところで、奴らを防げるかどうかはわからないが、ダメもとだ。
俺は、電話ボックスの扉に手をかけた。
リリリリリリリリリン!
いきなり目の前の電話が鳴った。俺は文字通りひっくり返った。
「ぎゃあ」
なんなんだ! なんでいきなり電話が鳴るんだ! ここ、公衆電話だぞ。一体誰がかけてくるというのか……。
しかし、迷っている時間はなかった。後ろの奴らはもう、すぐ後ろまで来ている。俺は電話が鳴り続けている電話ボックスに入り、ドアが開かないようにしっかりと手で押さえた。
ボックス内は、響きわたる電話の音はうるさいが、少なくとも明るかった。その外側は、ボックス内とは対照的に、真っ暗闇だ。
やがて、ドン!とボックスのガラスの壁を叩く音がした。振動付きで。
そして、続けざまに、横、後ろ、前、あちこちの壁からドン! ドン! という音が響く。
ドンドン! ドンドンドンドンドン!
電話ボックス全体が、頭の高さから足元まで音と振動で満たされる。ドアも押し開けられそうだ。パニックになった俺は、ドアを開けられないように体全体を突っ張って、押さえようとした。そのとき、慌てた俺は、自分の肘を受話器にぶつけてしまった。
気づいたときには、受話器はぶらんと垂れ下がっていた。
そうして――受話器の向こう側から、声が聞こえた。
「まだ、そっちにいるの? おいでよ。早く、おいでよ」
さっきの子供の声だ。間違いない。くそっ! 受話器を戻したいが、手が離せない。この手を離したら、外の奴らがこの電話ボックスの扉を開けてしまうだろう。
「どうしたの? 早く、おいでよ」
いやだ、行かない。そっちは嫌だ! 俺はまだ……
「どうして来ないの? こっちの方が楽なのに」
「うるせぇ!俺は……!」
その時、汗で手が滑った。あっと思う間もなく、扉が開き、無数の手が俺の方へと伸びてきた。
俺は、そのまま意識を失った。
(続く)