第10話:東日本大震災の秘話

文字数 1,665文字

 そして、翌年に順延することになったと知らせが入った。その後、東北の寒い3月にも関わらず、備蓄している暖房用の石油、自動車用のガソリンが、底をついた。そのためJRが、日本最大規模の横浜市根岸の日石の工場から貨物列車を出して油を送る事になった。

 まず北東北へ日本海側を通り青森を経由して油を輸送した。その後、南東北へは、道路が使えずに困った。そこで、新潟から磐越線を使って郡山に輸送する計画をたてたが、冬の峠を越すために旧式のSLを使って輸送するしかない。

 そこで、前代未聞の輸送計画が立てられ雪の峠道で、止まったりして苦労して油を輸送した。この話が、新聞や放送で流されて日本にも、まだ熱い気持ちが残っていて本当に良かったと、是川夫妻が、テレビ放送で知って涙を流した。

 しかし、その後も首都圏では計画停電など不自由な生活が続いた。しかし芸能人をはじめとして持っている人が、恵まれない人に食料配給に出かけた。そして多くの人達が、ボランティアのために東北へ行って活躍している姿を見て日本人も捨てたものではないと感動した。

 そして吉野が、是川に連絡してきて2家族で200万円を東日本大震災で、親を亡くした震災孤児、遺児のための募金に寄付した。そして、その募金の輪が広がった。また、この善意の輪が、その国の暖かさのバロメーターとなった。

 米軍は、持てる情報を開示して原発の影響の情報を流してくれた。さらに一番感動したのは、台湾からの募金活動であった。思い返せば、台湾の日本統治は、日清戦争の結果、下関条約によって台湾が清朝から日本に割譲された。

 1895年4月から終戦の1945年10月まで続いた。1898年、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると内務省の官僚だった後藤新平を民政長官に抜擢した。そうして台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていった。

 日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在した。第1が、後藤新平などに代表される特別統治主義である。これは英国政府の植民地政策を採用し日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず独立した特殊な方式により統治するというもの。

 当時ドイツの科学的植民地主義に傾倒していた後藤は、生物学の観点から、文化・文明的に立ち遅れている植民地の急な同化は困難であると考えていた。後藤は台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を立案した。

 生物学的原則を確立すると同時に漸次同化の方法を模索する統治方針をとった。これに対し原敬は、台湾を内地の一部とし内地法を適用する『内地延長主義』を提唱。 フランスの植民地思想に影響を受けた原は、人種・文化が類似する台湾は日本と同化する事が可能であると主張。

 1898年から1906年にかけて民政長官を務めた後藤は自らの特別統治主義に基づいた台湾政策を実施。 また当時流行していた阿片を撲滅すべく阿片吸引を免許制とし、また阿片を専売制にして段階的に税を上げ新規の阿片免許を発行しないことで阿片を追放する事にも成功。

 そのため現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は当時の日本によって建設されたものが基礎となっていると主張する意見「李登輝など」と近代化の中の日本の役割を評価することは植民地統治の正当化と反発する意見もあった。

 台湾は、農作物供給地として、農業を中心に発展させられたため工業発展に遅れたと主張する意見、日本の商人によって富が、奪われたとする意見も提示されている。話が長くなるから、割愛するが、間違いなく、台湾の衛生環境の改善が、はかられた。

 そして豊富な食料、森林資源、交通網の整備、政治組織の近代化が、行われた。つまり現在の台湾の礎を日本は、自国の威信にかけ作ったと言える。そのため膨大な投資、人的資源の活用など、欧米諸国に負けじと日本の国力をあげて、台湾の近代化に大きく貢献した。

 これは、誰が何というとも、まぎれもない事実である。その恩義を感じ、日本が、困っている時に、この恩義を返すために、立ち上がった人物がいた。
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