第11話 月の光
文字数 4,092文字
目を覚ましたジュリアンは、部屋の暗さに気付くと、恐怖で喉をひきつらせた。まず頭に浮かんだのは、嘆きの塔への幽閉だ。
激しい動悸に呼吸が乱れる。身じろぎもできず、視線だけを忙しなく周囲へ走らせた。
窓から差し込む、陰った陽光。夕闇に沈んだ室内を確認すると、震える息をゆっくりと吐き出した。
「お、俺の部屋だな。それに、黄昏時だ……」
何度も繰り返した、まばゆく残酷な朝ではなかった。修正不可能な一日へ、放り出されずに済んだのだ。そして何より、ここは嘆きの塔ではない。
ジュリアンの様子を見に来た召し使いが、慌てて廊下へ飛び出していく。のろのろと上体を起こし、寝台に座っていると、リナリアと部下たちが駆けつけた。
「良かった。ようやくお目覚めになられたのですね」
リナリアが、ジュリアンの手を握りしめる。
「ようやく?」
「はい。夏至祭の宴で気を失われてから、眠り続けておられました。あれから、三日たっております」
極限状態で奮闘してきた反動が、一気にやってきたのだろう。
意識を取り戻したばかりで、ろくに頭が回らない。ジュリアンは、ぼんやりとリナリアへ問いかけた。
「お前は、大丈夫だったのか? あれから、俺のせいで、嫌な目に合っていないか……?」
気遣われたリナリアは、ジュリアンの手に額を押し付ける。目に涙を滲ませて、小さくかぶりを振ってみせた。
「わたくしは、大丈夫です」
「そうか」
もうじき、両親と兄夫婦が見舞いに来ると、部下が笑顔で教えてくれた。家族もまた、眠り続けるジュリアンを心配していたそうだ。
国王たちの動向を聞いたリナリアが、真剣な表情で口を開く。
「三日の間に何があったか、概要だけでも、ご説明いたします。ご家族とお話しになられたとき、混乱されては大変ですから」
「そうだな、頼む」
家族の前で、まずい行動をとる前に、詳細を教えてくれるらしい。
「無形の魔女に憑依されたクレオメは、毒杯を賜りました。イラの根により、邪悪な魔法は、清められております」
「!!」
クレオメは、すでに処刑されていた。はた迷惑な運命の代償を、たった一人で背負わされて。ジュリアンが、のうのうと眠っている間に、悪い魔女として殺されてしまったという。
「そう、か……」
ジュリアンはうつむいて、右の手のひらで両目を覆う。今はリナリアと二人きりではない。部下たちの手前、なんとか笑おうとしたが、上手くいかずに唇が戦慄いた。
「それは、良かった……」
良いはずがなかった。奇妙な運命に巻き込まれる前に、ジュリアンが別れていたら、彼女は死なずに済んだのだから。
「魔女は、討たねば、ならないものな」
クレオメは魔女ではない。本来なら、家族に引き渡され、家に閉じ込められる処罰で済んだだろうに。
大嫌いな家族の元でも、生きていたかったのか、死んだほうがマシだったのか、彼女に確認する術はない。
以前、リナリアを魔女と疑い、紅茶に毒を盛ったことがある。それがどれだけ残酷で、傲慢な所業か、目の前に突き付けられた心境だった。
「クレオメは……あの魔女は、拷問を受けたのか?」
「いいえ、殿下。あれほど大勢の人間を操る魔女ですもの。悠長に構えていたら、脱走されかねません。迅速に刑が執行されました。……王子妃になる夢を見たまま、息を引き取ったと思います」
「そうか」
ジュリアンにとってクレオメは、邪魔になったら別れる程度の、愛人に過ぎなかった。かつての彼なら、処刑された彼女に、ここまで動じることはなかっただろう。
しかし、ここ数日の経験が、ジュリアンの意識を変えていた。惨めに奔走し、苦しみ抜いて、あれほど自分を駆り立てた野心の正体と向き合った。
今の彼は、自分もまた、ちっぽけで愚かな人間にすぎないと知っている。
クレオメは、もう一人のジュリアンだった。
リナリアがいない、ジュリアンだった。
□
両親と兄夫婦は、目を覚ましたジュリアンに喜んでくれた。後日、改めて詳しい事情を聞かれることになったが、まずは静養するようにと、ねぎらってくれた。
夏至祭が過ぎ、三月後にはリナリアとの婚儀を控えている。独り身では無くなるのだから、魔女に漬け込まれる隙をつくるなと、父からは言い諭された。
「地位ある者こそ、身をつつしまねばならない。短絡的な行動が、誰かの不幸の種になる。私は施政者として必要なら、躊躇なく誰でも犠牲にできる、冷淡な人間だ。だがな、ジュリアン。たとえ王族であろうと、他人をもてあそんで当然だなんて、ふざけた道理はないんだよ」
父はクレオメが人間だったと、薄々気付いているのかもしれない。
王国の混乱を避けるため、息子と同じ罪を背負った父親へ、ジュリアンは黙って頷いた。
□
赤い月が出ている。凶兆ではなく、ただの自然現象だ。夏至の頃には、よく、こんな色合いの月が登る。
ジュリアンとリナリアは、テラスにたたずみ、静かに寄り添っていた。
ジュリアンが眠っている間、リナリアは国王の許可を得て、城に滞在してきた。婚約者が無事目覚めたので、明日にはエルヴィユ家の屋敷へ帰る予定である。
家族が退室し、部屋の中には侍女や側近たちが待機している。窓越しに、二人の姿が見える状態だ。だが、声を潜めれば、テラスで交わす会話は、室内に聞こえない。
「神子の力が開花したことを、誰かに話したか?」
ジュリアンの問いかけに、リナリアは首を横に振った。
「いいえ。殿下の他には、誰にも打ち明けておりません」
「このまま、隠しておけと言ったらどうする?」
リナリアは目を瞬いた。テラスに誘った時には、真面目な話があるのだと察したようだが、意外な内容だったらしい。
「わたくしは、かまいません。今更、神子の力をもてはやされても、落胆されても、煩わしいだけですから」
彼女の予知夢は、内容を選べず、本人に関わる事柄に限られている。睡眠中、自然に見た夢を、定まった未来かどうか判断するだけなのだ。
神子としての覚醒を明かしても、いい結果にはならないだろう。占い師の真似事を期待されたあげく、役に立たない能力だと陰口を叩かれるのは目に見えていた。
「それなら、このまま秘密にしておくといい」
「ですが、殿下は宜しいのですか?」
神子の能力を公表すれば、空クジ引きと揶揄された、ジュリアンの面目は保たれる。
「隣国で処刑された魔女がいただろう」
「心の傷を癒す神子に憑依した、無形の魔女のことですね」
「……本当に、魔女だったと思うか?」
「まさか」
ハッとするリナリアへ、ジュリアンは柳眉を曇らせる。
「俺の考え過ぎかもしれん。だが、今回の件をふまえると、どうも気になってな」
隣国で処刑された魔女は、クレオメのように冤罪をかけられた人間ではないかと、ジュリアンは疑いを持っていた。
隣国の神子は、美しい孤児の少女だったと聞いている。神子の祝福とは、総じて制限があり、あまり強力なものではない。彼女の場合、相手と対話し、何度も面会することで、少しずつ心の傷を癒したという。
神秘の乙女に救われた、高位貴族の男たちがいた。対話を重ねて癒してくれる清らかな娘に、身分の隔たりを忘れ、強く心惹かれても不思議ではない。神子の求心力は、相当なものだったと考えられる。
「次代を担う貴公子たちを、やすやすと掌握していく娘だ。相当、扱いに注意しなければ、危険分子になりかねない。それに、神子へのぼせあがる婚約者を目の当たりにした王女は、さぞかし自尊心を傷つけられたことだろう」
神子とは、神秘の力を授かった者を指す。大抵の能力は人の役に立つため、尊敬される。縁起がいいこともあり、教会が後ろ楯についてくれる。だが、それだけだ。
神子を殺めたところで、天罰が下りはしない。
これほど危うい立場でありながら、隣国の神子の後ろ楯は、教会しかいなかった。王族に敵視され、教会から裏切られたら、ひとたまりもなかっただろう。
「本物の神子が、魔女として処刑されたとおっしゃるのですか?」
「さっき言った通り、確証はない。ただ、無形の魔女は、いい口実になる。俺たちが知っている通りに」
あらゆる国に現れては混乱を招いてきた、無形の魔女という、災害のような存在。人間に憑依する特性が、冤罪をでっちあげるのに都合がいい。普通の人間を、簡単に魔女へ仕立てあげられる。
「お前は貴族だ。秋には俺の妻になり、王子妃になる。隣国の神子よりはるかに安全だが、用心に越したことはない。能力を明かさず、今の状態にしておくほうが、賢明だろう」
たとえば、大がかりな事件が発生したとき、事前に予知していながら、わざと止めなかったと責任を押し付けられたり。予知の神子が現れたと、噂話が広がって、他国から狙われたり。
リナリアの能力を公表しても、彼女自身の負担が増すばかりだ。
それに、危険なのは外敵ばかりではない。自分の家族を大切に思う一方で、全面的には信用していなかった。統治者としての、父や兄の性質を、ジュリアンは理解している。
「俺も気を付けるが、お前自身も注意してくれ」
「わかりました」
素直に頷くリナリアへ、偽りのない本心を口にする。
「お前を、愛したいと思う。心から、お前だけを。上手くできるか、わからないが……」
「ジュリアン殿下」
ジュリアンはリナリアの手を取ると、指先に口づけた。異性としての熱意は、まだ感じない。それでも、強い敬意を込めて、淑女に捧げるキスを贈る。
他のどんな女性よりも、得難い婚約者だ。破滅寸前のジュリアンを、リナリアだけが、手を汚すことさえ厭わず欲してくれた。
誰かを愛するなら、リナリアがいい。そう自然に思えて、頬を染める彼女へ微笑みかけた。
「わ、わたくし、いつまでもお待ちいたします。結婚するんですもの、焦ったりいたしませんわ。ですが、やっぱり、あの……なるべく早くしていただけると、嬉しいです」
「ああ、そうしよう」
神さえあてにならない理不尽な世界で、二人は手を取り合っている。月光を浴びたジュリアンは、伴侶に選んだ少女と、夜空を見上げた。
満月から少し欠けた赤い月が、煌々と輝いていた。
(了)
激しい動悸に呼吸が乱れる。身じろぎもできず、視線だけを忙しなく周囲へ走らせた。
窓から差し込む、陰った陽光。夕闇に沈んだ室内を確認すると、震える息をゆっくりと吐き出した。
「お、俺の部屋だな。それに、黄昏時だ……」
何度も繰り返した、まばゆく残酷な朝ではなかった。修正不可能な一日へ、放り出されずに済んだのだ。そして何より、ここは嘆きの塔ではない。
ジュリアンの様子を見に来た召し使いが、慌てて廊下へ飛び出していく。のろのろと上体を起こし、寝台に座っていると、リナリアと部下たちが駆けつけた。
「良かった。ようやくお目覚めになられたのですね」
リナリアが、ジュリアンの手を握りしめる。
「ようやく?」
「はい。夏至祭の宴で気を失われてから、眠り続けておられました。あれから、三日たっております」
極限状態で奮闘してきた反動が、一気にやってきたのだろう。
意識を取り戻したばかりで、ろくに頭が回らない。ジュリアンは、ぼんやりとリナリアへ問いかけた。
「お前は、大丈夫だったのか? あれから、俺のせいで、嫌な目に合っていないか……?」
気遣われたリナリアは、ジュリアンの手に額を押し付ける。目に涙を滲ませて、小さくかぶりを振ってみせた。
「わたくしは、大丈夫です」
「そうか」
もうじき、両親と兄夫婦が見舞いに来ると、部下が笑顔で教えてくれた。家族もまた、眠り続けるジュリアンを心配していたそうだ。
国王たちの動向を聞いたリナリアが、真剣な表情で口を開く。
「三日の間に何があったか、概要だけでも、ご説明いたします。ご家族とお話しになられたとき、混乱されては大変ですから」
「そうだな、頼む」
家族の前で、まずい行動をとる前に、詳細を教えてくれるらしい。
「無形の魔女に憑依されたクレオメは、毒杯を賜りました。イラの根により、邪悪な魔法は、清められております」
「!!」
クレオメは、すでに処刑されていた。はた迷惑な運命の代償を、たった一人で背負わされて。ジュリアンが、のうのうと眠っている間に、悪い魔女として殺されてしまったという。
「そう、か……」
ジュリアンはうつむいて、右の手のひらで両目を覆う。今はリナリアと二人きりではない。部下たちの手前、なんとか笑おうとしたが、上手くいかずに唇が戦慄いた。
「それは、良かった……」
良いはずがなかった。奇妙な運命に巻き込まれる前に、ジュリアンが別れていたら、彼女は死なずに済んだのだから。
「魔女は、討たねば、ならないものな」
クレオメは魔女ではない。本来なら、家族に引き渡され、家に閉じ込められる処罰で済んだだろうに。
大嫌いな家族の元でも、生きていたかったのか、死んだほうがマシだったのか、彼女に確認する術はない。
以前、リナリアを魔女と疑い、紅茶に毒を盛ったことがある。それがどれだけ残酷で、傲慢な所業か、目の前に突き付けられた心境だった。
「クレオメは……あの魔女は、拷問を受けたのか?」
「いいえ、殿下。あれほど大勢の人間を操る魔女ですもの。悠長に構えていたら、脱走されかねません。迅速に刑が執行されました。……王子妃になる夢を見たまま、息を引き取ったと思います」
「そうか」
ジュリアンにとってクレオメは、邪魔になったら別れる程度の、愛人に過ぎなかった。かつての彼なら、処刑された彼女に、ここまで動じることはなかっただろう。
しかし、ここ数日の経験が、ジュリアンの意識を変えていた。惨めに奔走し、苦しみ抜いて、あれほど自分を駆り立てた野心の正体と向き合った。
今の彼は、自分もまた、ちっぽけで愚かな人間にすぎないと知っている。
クレオメは、もう一人のジュリアンだった。
リナリアがいない、ジュリアンだった。
□
両親と兄夫婦は、目を覚ましたジュリアンに喜んでくれた。後日、改めて詳しい事情を聞かれることになったが、まずは静養するようにと、ねぎらってくれた。
夏至祭が過ぎ、三月後にはリナリアとの婚儀を控えている。独り身では無くなるのだから、魔女に漬け込まれる隙をつくるなと、父からは言い諭された。
「地位ある者こそ、身をつつしまねばならない。短絡的な行動が、誰かの不幸の種になる。私は施政者として必要なら、躊躇なく誰でも犠牲にできる、冷淡な人間だ。だがな、ジュリアン。たとえ王族であろうと、他人をもてあそんで当然だなんて、ふざけた道理はないんだよ」
父はクレオメが人間だったと、薄々気付いているのかもしれない。
王国の混乱を避けるため、息子と同じ罪を背負った父親へ、ジュリアンは黙って頷いた。
□
赤い月が出ている。凶兆ではなく、ただの自然現象だ。夏至の頃には、よく、こんな色合いの月が登る。
ジュリアンとリナリアは、テラスにたたずみ、静かに寄り添っていた。
ジュリアンが眠っている間、リナリアは国王の許可を得て、城に滞在してきた。婚約者が無事目覚めたので、明日にはエルヴィユ家の屋敷へ帰る予定である。
家族が退室し、部屋の中には侍女や側近たちが待機している。窓越しに、二人の姿が見える状態だ。だが、声を潜めれば、テラスで交わす会話は、室内に聞こえない。
「神子の力が開花したことを、誰かに話したか?」
ジュリアンの問いかけに、リナリアは首を横に振った。
「いいえ。殿下の他には、誰にも打ち明けておりません」
「このまま、隠しておけと言ったらどうする?」
リナリアは目を瞬いた。テラスに誘った時には、真面目な話があるのだと察したようだが、意外な内容だったらしい。
「わたくしは、かまいません。今更、神子の力をもてはやされても、落胆されても、煩わしいだけですから」
彼女の予知夢は、内容を選べず、本人に関わる事柄に限られている。睡眠中、自然に見た夢を、定まった未来かどうか判断するだけなのだ。
神子としての覚醒を明かしても、いい結果にはならないだろう。占い師の真似事を期待されたあげく、役に立たない能力だと陰口を叩かれるのは目に見えていた。
「それなら、このまま秘密にしておくといい」
「ですが、殿下は宜しいのですか?」
神子の能力を公表すれば、空クジ引きと揶揄された、ジュリアンの面目は保たれる。
「隣国で処刑された魔女がいただろう」
「心の傷を癒す神子に憑依した、無形の魔女のことですね」
「……本当に、魔女だったと思うか?」
「まさか」
ハッとするリナリアへ、ジュリアンは柳眉を曇らせる。
「俺の考え過ぎかもしれん。だが、今回の件をふまえると、どうも気になってな」
隣国で処刑された魔女は、クレオメのように冤罪をかけられた人間ではないかと、ジュリアンは疑いを持っていた。
隣国の神子は、美しい孤児の少女だったと聞いている。神子の祝福とは、総じて制限があり、あまり強力なものではない。彼女の場合、相手と対話し、何度も面会することで、少しずつ心の傷を癒したという。
神秘の乙女に救われた、高位貴族の男たちがいた。対話を重ねて癒してくれる清らかな娘に、身分の隔たりを忘れ、強く心惹かれても不思議ではない。神子の求心力は、相当なものだったと考えられる。
「次代を担う貴公子たちを、やすやすと掌握していく娘だ。相当、扱いに注意しなければ、危険分子になりかねない。それに、神子へのぼせあがる婚約者を目の当たりにした王女は、さぞかし自尊心を傷つけられたことだろう」
神子とは、神秘の力を授かった者を指す。大抵の能力は人の役に立つため、尊敬される。縁起がいいこともあり、教会が後ろ楯についてくれる。だが、それだけだ。
神子を殺めたところで、天罰が下りはしない。
これほど危うい立場でありながら、隣国の神子の後ろ楯は、教会しかいなかった。王族に敵視され、教会から裏切られたら、ひとたまりもなかっただろう。
「本物の神子が、魔女として処刑されたとおっしゃるのですか?」
「さっき言った通り、確証はない。ただ、無形の魔女は、いい口実になる。俺たちが知っている通りに」
あらゆる国に現れては混乱を招いてきた、無形の魔女という、災害のような存在。人間に憑依する特性が、冤罪をでっちあげるのに都合がいい。普通の人間を、簡単に魔女へ仕立てあげられる。
「お前は貴族だ。秋には俺の妻になり、王子妃になる。隣国の神子よりはるかに安全だが、用心に越したことはない。能力を明かさず、今の状態にしておくほうが、賢明だろう」
たとえば、大がかりな事件が発生したとき、事前に予知していながら、わざと止めなかったと責任を押し付けられたり。予知の神子が現れたと、噂話が広がって、他国から狙われたり。
リナリアの能力を公表しても、彼女自身の負担が増すばかりだ。
それに、危険なのは外敵ばかりではない。自分の家族を大切に思う一方で、全面的には信用していなかった。統治者としての、父や兄の性質を、ジュリアンは理解している。
「俺も気を付けるが、お前自身も注意してくれ」
「わかりました」
素直に頷くリナリアへ、偽りのない本心を口にする。
「お前を、愛したいと思う。心から、お前だけを。上手くできるか、わからないが……」
「ジュリアン殿下」
ジュリアンはリナリアの手を取ると、指先に口づけた。異性としての熱意は、まだ感じない。それでも、強い敬意を込めて、淑女に捧げるキスを贈る。
他のどんな女性よりも、得難い婚約者だ。破滅寸前のジュリアンを、リナリアだけが、手を汚すことさえ厭わず欲してくれた。
誰かを愛するなら、リナリアがいい。そう自然に思えて、頬を染める彼女へ微笑みかけた。
「わ、わたくし、いつまでもお待ちいたします。結婚するんですもの、焦ったりいたしませんわ。ですが、やっぱり、あの……なるべく早くしていただけると、嬉しいです」
「ああ、そうしよう」
神さえあてにならない理不尽な世界で、二人は手を取り合っている。月光を浴びたジュリアンは、伴侶に選んだ少女と、夜空を見上げた。
満月から少し欠けた赤い月が、煌々と輝いていた。
(了)