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作者ブックマーク

活動報告

長編連載『色々ありすぎて解けない』第十六章第一節まで公開中

おはようございます中秋です もえ です。
この「活動報告」の更新が滞って魔が開いてしまっているので、その魔が色々あるわけですが。
――伏魔殿か!
開けてはいけないパンドラの箱に手をかけてしまったようです。

・長編連載小説『色々ありすぎて解けない』は、第十六章第一節「ミユキ」まで公開中です。
 ようやくミユキの名が再登場です。ここからようやく本格的にカムバックですが、お気づきの通り第三部の冒頭からミユキの話に帰っているわけであります。
 本作は真面目で深刻な話です。悲惨な目に遭ってばかりですが、現実にもそういうことはありますので。
 例えば、俗にいう差別語も出てきますが、センセーショナリズムでことさらに出しているわけではなくって、実際にそういうことがあって、この叙述をぼやかしたら何がなんだかわからなくなるわけですから。

・エッセイ的連載『三上ナンコの徒然』第七話 "It's a CLOSED World" まで公開中です。
 密室ミステリではありません、残念!
 いや冗談は抜きにして、このシリーズ、本編は社会派シリアスです。

・『掌編・ショートショート集【純文学】』
 このシリーズ、各話それぞれが単作ですが、定期更新ではなく随時公開中です。思いついたときに。そういう気分なときに。
 おおよそは、キツい話が多い。芸術とは、批判主義的な自己表現ですので。不愉快な現実を直視する覚悟で。

・そのほか移転再公開
 モノガタリーから削除したもののうち一部を、NOVEL DAYS に移転再公開する作業中です。まだいくつかの作品が残っています。

あとは、次回のコンテスト待ち。これは賞をねらっているわけではないのですけれど。選ばれないのはわかっていますし。互いの方向性が異なっていますから。

さて。 ※↓以下はダラダラ長いです。※
近ごろ純文学に寄りすぎているかな、という気はしています、反響はよくないです。更新するたびにPVだけは大きく増えるのですけれどね、だからこそ。
いやまあ、純文学専門のプロ作家なんて普通にいらっしゃるのですが。純文学とエンタメ小説と両方っていう作家のほうが特殊ではあります。
ただ、オンライン小説では娯楽めあてで手っ取り早く愉快じゃないと読まれにくいんだなあと思うと、エンタメにももっていかないと厳しい。純文学を読んでも評価を押していく手間をかけ露出を覚悟する人は限られているでしょう。定量的な評価スコアが多くなければますます、読者が寄らない。
長編で読者をじっくり引き留め続けるのが難しい。それがもしラノベだったら毎話アホなことをやって惹きつければいいのでしょう。けれどこちらはラノベではない。ふざけていられる話ではないのです。
オンライン小説で連載を続けるのって、エンタメ小説や純文学では時間感覚が合わなくて難しいですね。
そんなことを思いながら、エンタメ小説も書かなきゃな、と思いつつも、頭の切り替えと、時間や労力と精神力の余裕が厳しい今日このごろです もえ です。

2023年 09月29日 (金) 09:36|コメント(2)

もえさん、こんにちは。純文学をこの異世界ばかりの投稿サイトで芥川や太宰の時代の様に盛り上げるのは至難の業だと思います。
ただ、純文学はその表面にあるストーリーでは終わらない個々人の思考、感情、感性、そして人間性を読み解くことが出来るいわば人の教科書のようなものだと私自身は思っています。あくまでも個人の見解ですが、今の人格形成とその時代つまり純文学が純文学たる時代の人格形成の仕方は違っているのではないでしょうか?その昔、フランスではキリスト教によって国民は教育されましたが、フランス文学の台頭により宗教から文学へと教育方法が変わったそうです。きっと、今の時代は、文学ではない他の教科書が出来上がっているのだと思います。良くも悪くも…作品の方、御拝読させて頂いております。何時も素晴らしい作品を有難う御座います。
けたくん さんありがとうございます。

「純文学」の定義自体が問題になるかと思います。
純文学とは形式的には、商業性を企図しないものという位置づけだといえますが、そうするとそこには、読者層にとって愉快にもならなければ金銭的には得にもならないものが入ってきます。
なので、作者自身や読者を含めた人間洞察、社会洞察を批判的に行うための作品が純文学の重要な部分を占めると思います。芥川龍之介もそうですし、あるいは仏教的な立場で批判を展開した宮澤賢治もそうでしょう。
ただし留意点として、人間洞察や批判主義を意図しない、商業性のない作品も、純文学の枠に入っていることがあります。例えば、いわば美術的な文芸がそうです。読んでも、何がいいたいのか意味がよくわからない。実際に、純文学のコンテストにもそうした作品が応募されることがありますし、授賞されることもあります。

さて、人間自身の自己洞察や社会批判をすることは、いつの時代においても必要なことだと考えます。自己批判をしなければ、進歩しないというだけではなくて、劣化し腐敗し堕落します。
批判主義的な人間洞察にしても、単に属人的で内面的な人格形成だけの問題にはとどまらないはずです。

現代においてこの機能をもっているとしたら考えられるのはまずジャーナリズムです。
しかしいまの日本をみても、世の中にはタブーだらけで、情報が目立たないようにされる事実上の情報統制があったり、社会的に隅っこに押しやられて排除されるようなことがあります。日本社会のタブーを敢えて破って批判し続けているほうが日本のマスコミではマイノリティです。典型的には文春があげられます。日本社会のジャーナリズムは成熟していません。

現代日本において、単純な文芸だけではなくなったということはいえます。
コミックでもネームは文芸で、演劇でも脚本は文芸です。
そして例えば手塚治虫も、藤子不二雄の両氏も、宮崎駿氏も、富野由悠季氏や河森正治氏にしても、批判主義的なところがあります。ただ、これらは商業性も企図しているので、純粋な芸術ではありません。
演劇においても純粋な、商業性のない草の根的なものはありますが、1970〜80年代くらいならまだしも、いまはあまり流行っていない気がします。
問題は、エンタメ性が入ってくると本来意図しているテーマが目立たなく薄れがちになるということです。例えばアニメ『火垂るの墓』も戦争映画として商売にされていて、現代にもある日本社会の差別構造を描いている事実は、情報統制されています。
ましてや「ライト」なものに至ってはメッセージ性は陳腐なものが多いでしょう。いくら熱狂的ファンが例えば「熱い友情を描いているんだ」の熱弁したとしても、それは陳腐で、テンプレート的な、ステレオタイプ的なものです。押井守氏がいまどきのアニメ作品を「オタクの消費財」と批判したように、費消するための刺激物で、商売のための使い捨て製品です。

学校教育に期待してはいけないと思います。
学校教育や、さらには大手マスコミの内容も、社会体制に都合のよいほうにバイアスがかかりがちです。既存社会に都合のよい、世の中に合わせる人間にするために行われています。
多数決主義でも数の横暴になり、集団的な主観が押し切られて社会への自己批判が行われません。そうならないような政治体制のレベルに至るには、人々の自己洞察レベルが高くならないといけません。にわとりとたまご的な関係にあります。

いまどきの多くの人は受動的で、テレビはもとより、SNSや動画や音楽の自動で流れてくる、プッシュされている刺激に埋もれています。
主体的、能動的に、自己洞察し、社会を拓こうとする、そういう意識が要ると思います。