第100話 愛のカタチ

文字数 1,542文字

 「一心同体」と言う言葉がある。「二人以上の人が心を一つにしてあたかも一人の人のように固く結びつくこと」と言う意味だ。母が息子に寄せる愛情などはその解りやすい例かも知れない。私が十代の頃、仙台で一人暮らしを始めるまで、うちの母がまさにそうだった。食事の際に私に「これ、うんと美味しいよ。」と声をかけてくる。そのたびに私が「美味いかどうかは俺が俺で判断するからいいよ。」と答える。そんな会話を何度交わしたか知れない。その頃の母には「自分にとって美味しいものは私にとっても美味しい」と勘違い?思い込み?確信している?つまり自分と私とが「同じ」であると信じて疑わない?信じるというよりも、まさに書いて字の如く「一心同体」なのだ。それが十代の私には嫌で嫌で仕方なかった。その状態は結局、私が神奈川で就職するまで続いた。私の就職が決まってしばらくして上京した両親は、私に無断で私の職場を訪問した。宿でその話題になって私はさすがに腹を立てた。母に対して「俺とあなたとは別々なんだよ。」と啖呵を切った。すると母はあろうことか泣き出してしまった。ここで折れては駄目だと思った私は頑として態度を変えなかった。それ以来、母は私と言う別個の人格がある事を悟ったようだった。若干遅かったというべきか。これに対し父の方は昔から「こいつにはこいつの考えがあって感じ方がある。」と言うスタンスをとってくれた。つまり私という人格を尊重してくれた。私は父と共有する性質がほとんどないと思っていたが、この点に関してだけはどうも父に似たようだ。つまり「異心別体」的発想である。どんなに愛し合っていようが、親子だろうが、兄弟だろうが、つまりは別々の人間だ、という考え方だ。言い換えれば愛がない、わけではないのだが、どこか覚めている。良くも悪くも理性が先立っている。これに対し兄はと言うと、少なくともこの点に関しては母に似ていると私は感じている。先日もDAZN(スポーツ専門の動画配信サービス)をこちら(実家)でも見られるようにしてやるからと受話器の向こうで色々と指示して私のパソコンでも見られるように手配してくれた。しかしどうにも実際にパソコンの画面に映る映像を見ているとネット環境の問題か、パソコンのスペックの問題か?カクカクして見づらい。結果、延長コードを買ったりパソコンを移動したりと、この猛暑の中いろいろと面倒な作業をした。私の方は確かにザスパの試合は見たいものの、そこまで苦労して見られなくてもいい。正直、テレビ中継する以外のアウェイの試合は結果だけ解ればいい。という思いもあるのだが・・・。その辺が兄には伝わらない。つまり母と一緒で私や父もザスパの試合を観たがっているのだと「一心同体」的発想で信じて疑わないのだ。私としては理屈でもって兄を説き伏せることはしようと思えばできないでもない、と思うが、でもやっぱりそれは出来ない。何故なら、そこに愛があるからだ。そして、それこそが私が兄に頭が上がらない理由でもある。私にないものを兄は持っていて、いくぶん独善的であったとしても、紛れもなくそれは愛だ。「一心同体」的であれ、何であれ、そこに愛がある限り無下には出来ないのだ。そしてそのたびに想う「良くも悪くも、俺にはこの人のような愛情は無いな」と。一方で兄の愛情を重んじる私自身の想いもまた愛情と言えるのではないだろうかとも思う。少し自画自賛かもしれないが・・・。相手を一個の人格として、つまり「別物」として接すること、尊重する事、それもまた一つの愛のカタチと言えるのでは・・・。でも、どうもこちらの方が伝わりづらいようだ。何が正しいかは解らないが、とにかく愛って難しい。皆さんはどうだろう?そこに「愛」はありますか?
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