第5話 ニールス・ボーア
文字数 1,535文字
ニールス・ボーア(1922)
1926年5月1日、24歳のハイゼンベルクは、コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所で、大学講師とボーアの助手の地位に就いた。
ドイツの大学の伝統では、若い学者は最初の教授任命を受けることになっていた。大学教授のヴェルナーの父はこの慣例を知っていたので、コペンハーゲンのポストを蹴ってでも、ライプチヒの任命を受けるように強く勧めた。
しかし、今いるゲッチンゲンで、マックス・ボルン教授と学部長クーラントにアドバイスを求めると、コペンハーゲンでボーアと仕事をする素晴らしいチャンスを逃さず、ライプチヒへは行かないよう強く勧めた。クーラントは翌日、ボーアに(おそらく手紙で)次のように知らせた。
「ハイゼンベルクに、どんな状況であってもあなたのところに行くように強く勧めました。コペンハーゲンでの滞在は、科学研究でも人間面でも、大きな利益になるからです。ハイゼンベルクはライプチヒを心静かに見送ることができるでしょう」
さらに、ベルリンに招待されて行列力学の二時間の講義をみっちり行った際、アインシュタイン、ラウエ、ラーデンブルク、そしてユダヤ人で女性という二重の差別を受ける原子物理学者リーゼ・マイトナー(ベルリンの研究所には女子トイレがなく外部の飲み屋のトイレまで行ったと彼女の伝記で読んだ)は、ハイゼンベルクの物理学に疑いを抱いてはいたものの、異口同音にボーアのポストを選択し、ライプチヒのオファーを断るよう強く勧めた。
ベルリンの大物理学者たちは、ハイゼンベルクが後で別のポストを得られると確信していたのだ。
「もし私がよい論文を書き続けていれば、いつもほかからお呼びがかかり続けるだろう。そうでなければ、私にはそれだけの価値がないということだ」
とハイゼンベルクは考えた。
ハイゼンベルクは既に1923年7月(21歳のとき)に博士号を受けていたが、特に口頭試問で悪い成績だった。その頃ドイツは第一次世界後の天文学的なインフレに苦しんでいたが、ドイツ政府はドイツ全土の農地と工業用地を担保にしたレンテンマルク(RM)を導入し、ハイゼンベルクも、このレンテンマルクと電気物理学委員会からの助成金、それに一部マックス・ボルンのポケットマネーで生活した。
ゲッチンゲンの上司ボルンとさまざまな共同研究を行っていたハイゼンベルクは、1年間のコペンハーゲンの招待を受けた。ハイゼンベルクはゲッチンゲンを離れたが、それは一時的な離別だった。必要なら、いつでもドイツに戻れる選択の自由を保っておきたかった。
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ハイゼンベルクは20歳の1922年6月にゲッチンゲンでのボーアの講義に初めて出席し、当時博士号もないこの学生は、ニールス・ボーアの発言に強く反駁した。その後ボーアは、ハイゼンベルクを3時間にもなった長い午後の山歩きに誘った。ハイゼンベルクはボーアと親しく話して改めて物理学に目を開かれ、ボーアの方はこの学生の物理学における才能を確信した。
その後1924年5月15日~27日、ハイゼンベルクはコペンハーゲンのボーア研究所を訪問した。
さらに、1924年9月17日~1925年5月1日、ロックフェラー財団特別研究員として、奨学金を受けてボーア研究所に行った。
それを踏まえて1926年5月1日、ハイゼンベルクはコペンハーゲンで大学講師とニールス・ボーアの助手となった。
ハイゼンベルクは、ボーアを師と仰ぎ、父のように慕ったが、後には激しい物理学上の論争もあった。
しかし、ゾンマーフェルト、マックス・ボルンに続いて、ニールス・ボーアはハイゼンベルクの物理学と人間性をさらに発展させる貴重な教師となった。