第9話 ナチスドイツの政権獲得

文字数 4,677文字

小説家でも、作曲家でも絵画・彫刻家などの芸術家でも、ヒトラーが1933年1月30日に権力を握ると今までの道のりがカクッと変わってしまった。共産主義者や社会主義者は逃げるか捕まるかしたし、ユダヤ人の血を持つ人は直接的な命の危険があったのでほとんど国外亡命した。

1933年5月11日にベルリン国立歌劇場のあるべーベル広場(プラッツ)で焚書が行われると、心臓に毛が生えていたエーリヒ・ケストナーはナチスドイツの焚書で自分の本が焼かれるのを見物しに行った。焚書は非常に様式的な方法で行われ、焚書される執筆者の名前が読み上げられた後、その著書が火にくべられた。幸いケストナーは、その童話や小説がドイツ人に愛されていたためか、テロにも遭わず無事帰宅した。ケストナーは父方を通じてユダヤ人の血を引いていたが、「自分はドイツ人である」という誇りから、亡命を拒み続けて偽名で童話や脚本などを書き続け、スイスの出版社から出版した。

物理学者にも同様のことが起こった。

⚫1933年4月7日ユダヤ人は、大学教授も含めて、一切の公職から追放された。

⚫1935年9月15日ニュルンベルク法(人種法)でドイツのユダヤ人はナチスドイツにより公民権を正式に剥奪された。

ヒトラーが権力を握ったとき、客員教授としてアメリカ合衆国に渡ったアインシュタインは、自由、法の下での平等は現在のドイツにないと語り、ドイツには戻らないという決心を世に知らせた。

⚫1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で反ユダヤ主義暴動、迫害が発生、ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。このナチスドイツ政権下の出来事は、破壊されたユダヤ人商店の飛び散ったガラスから、詩的に水晶の夜(独:Kristallnacht、クリスタルナハト)と呼ばれた。どさくさに紛れて普通のユダヤ系ドイツ人の家が略奪されたり、ユダヤ人が暴行されたり、殺されたり、強制収容所に連行されたりした。

以下、ハイゼンベルクに近い人でユダヤ人の血を持つ人の移動を一覧する。

⚫ニールス・ボーア
第二次世界大戦が始まり、ナチス・ドイツがヨーロッパでの侵略を始めると、ユダヤ人を母に持つボーアはイギリスを経由してアメリカに渡った。ハイゼンベルクは1941年ナチス占領下のデンマーク・コペンハーゲンにかつての師を訪ね、ドイツの原爆開発について何かをボーアに伝えようとしたが、このとき二人の心は占領国と非占領国という事情もあってうまくつながらなかった。その様子を書いたのがマイケル・ブレインの劇『コペンハーゲン』である。この小史の参考文献は主に『コペンハーゲン』の著書のあとがきによる。

⚫ヴォルフガング・パウリ
父方の祖父はユダヤ人で、名の知れた出版社の経営者だった。

1938年のドイツによるオーストリア併合によってパウリはドイツ市民となったが、このことは翌1939年の第二次世界大戦勃発とともに、ユダヤ系であった彼の身を危うくすることとなった。

チューリヒにいたパウリは、国際難民組織の一つで長を務め、迫害されたドイツ人科学者や科学専攻学生が海外へ移民して、そこで地位を得られるよう尽力していた。

最初は主にイギリスの大学で3年間の職を創設するための手当てを拠出したが、間もなくイギリスおよび他のヨーロッパの国々は、これ以上の亡命科学者を受け入れられない、受け入れたくないという方針になり、多くの者は、同様に困難ではあったが、アメリカ合衆国へ移って行った。

パウリ自身も1940年にアメリカへ移住し、プリンストン大学の理論物理学の教授となった。

戦争が終わった1946年に彼はアメリカ合衆国には帰化せず、チューリヒに戻り、その後の生涯の大半をここで過ごした。

⚫マックス・ボルン
ドイツ東部シュレージエン地方のブレスラウ(現・ポーランド領ヴロツワフ)にユダヤ系の家庭に生まれる。ゲッチンゲン大学でのハイゼンベルクの教授。

1933年にはドイツでナチス・ドイツが興隆し、ユダヤ人排斥運動によりボルンは教授職を解雇され、同年5月にドイツを離れた。その後、家族を連れて渡英しケンブリッジ大学講師・エディンバラ大学教授に就任する。1939年王立協会フェロー選出。

第二次大戦後の1948年にはマックス・プランク・メダルを、1950年にはヒューズ・メダルを受賞された。1953年エディンバラ大学退職後西ドイツに戻り、ニーダーザクセン州の温泉地であるバート・ピルモントに居住。1954年、量子力学、特に波動関数の確率解釈の提唱によりノーベル物理学賞を受賞した。1957年ゲッティンゲン宣言をオットー・ハーン、カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー、ヴェルナー・ハイゼンベルクらと共に発表して西ドイツの核武装に反対した。1970年にゲッティンゲンで死去。墓所はマックス・プランクも眠るゲッティンゲン市立墓地にある。

ハイゼンベルクはボルンを助ける請願を行ったが、ボルンは待てずに亡命した。

非ユダヤ人

⚫エルヴィン・シュレーディンガー
スイスのチューリヒにいたシュレーディンガーはにベルリン招聘され、当時の物理学の中心地ベルリンに1927年晩夏に移住した。そこでシュレーディンガーは、アルベルト・アインシュタイン、マックス・プランク、女性でユダヤ人の原子物理学者リーゼ・マイトナーと仕事のみならず深く交流し、波動力学を仕上げるための研究が完成されていきベルリンの幸福な時代を「教え学んだ素晴らしい日々」と回想した。

しかし、ナチスドイツが政権を取ると、このような自由や幸福は叶えられないと確信し、1933年の夏に早くも亡命を決断した。

シュレーディンガーはユダヤ人でもなく、政治的に追われているわけでもなかった。シュレーディンガーが健康と労働条件を理由に9月初めに辞職したとき、相変わらず学会のことにかかりきりで、他の人たちも同様の献身を示すべきだと思っていたハイゼンベルクは、特にシュレーディンガーに対して怒った。「というのも、彼はユダヤ人でもないし、他の点で危険にさらされていたわけでもないのだから」

ハイゼンベルクがナチスドイツ政権下での行動の仕方について相談しに行ったドイツ物理学会の重鎮マックス・プランクは「シュレーディンガーの辞職はわれわれベルリン物理学への新たな深い傷だが、全勢力を挙げて耐えねばなるまい」とマックス・フォン・ラウエに手紙で書いた。

シュレーディンガーはイギリスの物理学者リンデマンがドイツを旅行中に、ベルリンを去りたい意向を漏らすと、オックスフォード「滞在」を申し出られた。

1933年10月にシュレーディンガーは夫人同伴でオックスフォードに到着した。その直後、エルヴィン・シュレーディンガーに、ポール・アドリアン・モーリス・ディラックと共に「原子論の有用な新論理とその応用の価値を認められ」1933年度のノーベル物理学賞受賞の知らせが届いた。

シュレーディンガーと親密な個人的交際のあったマックス・ボルンは次のように伝えている。
「彼はオックスフォードでたいへん尊敬されていたが、純粋に男性社会であるカレッジでの生活にどうしてもなじめなかった。
シュレーディンガーにしてみれば、社交に女性が付きものなのに、ハイテーブルではそうでなく、机を並べている同僚に率直に自分の考えを述べたら、その同僚が後で有力者、ひょっとしたら元首相であったなどとは、ぞっとすると」

ちなみにハイテーブルとは、ダイニングホールには、一段高い位置にあるハイテーブルがある。ホールの一番奥にあり、テーブルの向きも、他は全て縦向きなのに対して、横向きになっている。

ここにはカレッジ長であるプレジデント、教員、また招待された人(学生が招待されることもある)のみ座ることができる。

さらに、ハイテーブルのメンバーが入室する際は、ダイニングホールにいる全員が即座に沈黙し、起立しなければならない。その流れで、ハイテーブルのメンバーの中で最も地位の高い人がラテン語で祈りを唱える。ハイテーブルのメンバーが着席したら、他の参加者も着席してまた会話を始めることができる。

ハイテーブルのメンバーが退室する際は、入室の時と同じように、参加者全員が沈黙・起立する。ハイテーブルのメンバーがホールを後にした瞬間に、元に戻ることができる。

ちなみに、ハイテーブルのメンバーは一般の出入り口は使わずに、ハイテーブルに近い扉から入退室する。
(【現役生監修】オックスフォード大学のフォーマルディナーとはより引用)
『シュレーディンガーの生涯』には、大学の食堂などで、教授やフェロー用として一段高くなっている食卓(訳者注)とある。

1936年10月1日、シュレーディンガーはオーストリア・グラーツの理論物理学正教授に着任した。同時に、そこでの教授活動とは別に、ウィーン大学でも名誉教授として講義する権利を与えられた。もっとも2年と続かなかった。1938年3月12日の武力によるヒトラーのオーストリア併合があり、それにより1938年3月11日付でシュレーディンガーは政治的に不適格として、グラーツの教授職から恩給なしで即刻解雇された。ベルリン時代の勝手な「研究休暇」と、復職せよとの度重なる要求に従わなかったためである。

その後、アイルランドの首相イーモン・デ・ヴァレラにつてのあったシュレーディンガーは、プリンストン高等研究所のアインシュタインのように、アイルランドに研究所を設立して、シュレーディンガーを獲得したかったデ・ヴァレラのアイルランドに招かれる。イーモン・デ・ヴァレラは、アイルランド独立に力を尽くした卓抜した人物の一人だった。

その後デ・ヴァレラのおかげで全ヨーロッパビザを持ち、夫人同伴でスイスへ入国したが、ヒトラーによって第二次大戦の危機が迫り、1年ほどオックスフォードにいたが、ベルギーで第二次大戦勃発の報に接し、再びデ・ヴァレラの助けで、1939年10月7日、シュレーディンガー夫妻はアイルランドの首都ダブリンに到着する。

ここでシュレーディンガーは、ウィーンに帰郷するまで誰にも妨げられずに、世界中およびアイルランドの物理学者たちと研究に打ち込み、イーモン・デ・ヴァレラはシュレーディンガーの講義に熱心に参加した。

ちなみに量子力学にもよく登場するハミルトンはアイルランドの数学者・物理学者で、ハミルトニアン(英語: Hamiltonian)あるいはハミルトン関数、特性関数(とくせいかんすう)は、物理学におけるエネルギーに対応する物理量である。

再びユダヤ人。

⚫リーゼ・マイトナー
女性科学者は、第一次世界大戦までドイツの研究室から締め出されていた。女性は最も重要な仕事から、男性をそらしてしまうと考えられていたのだ。しかし、オーストリアのユダヤ人原子物理学者マイトナーは、何十年もの間、オットー・ハーンの庇護のもとベルリンのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所で働いていた。プランクの助力で、彼女はドイツで教授資格を持つ最初の女性物理学者の一人となった。アインシュタインは彼女を「われらのマダム・キュリー」と称えた。
原子物理学者リーゼ・マイトナーは、ナチスドイツがオーストリアを併合した1938年に亡命を余儀なくされた。その後は主にスウェーデンのストックホルムで研究活動を続けた。



カイザー・ヴィルヘルム化学研究所のリーゼ・マイトナーとオットーハーン(1913)★Wikipediaのパブリックドメイン画像★
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登場人物紹介

ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクWerner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 - 1976年2月1日)は、ドイツ理論物理学者行列力学不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。量子力学のほかにピアノが得意でベートーベンのソナタなどを弾く。趣味はスキーと山歩き。師のボーアとは後で激しい論争をし、涙を流すこともあった。1933年、量子力学の確立により1932年にノーベル物理学賞を受賞した。 彼は量子力学の哲学的側面も扱った。また、ナチスが政権を取ってからコペンハーゲンに行ったが、デンマークはナチスに占領され、ハイゼンベルクは原子爆弾について忠告しようとしたが、ボーアと気持ちがすれ違ってしまった。戦後、ナチスに両親を殺されたオランダ人との同僚ともしっくり行かなかった。ハイゼンベルクはナチス党員ではなかったが、ドイツで物理学の仕事を続けるため、ナチスの高官と妥協した。それを責められないと私は思うが、親を殺されたらしっくり行かないだろう。

ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーアデンマーク語: Niels Henrik David Bohr[1]1885年10月7日 - 1962年11月18日)は、デンマークの理論物理学者[2]量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。王立協会外国人会員。ユダヤ人。ハイゼンベルクの師。基本的には優秀でいい人なんだけど、物理学の議論になると、我を忘れることも。コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所に来たシュレーディンガーは、ボーアの厳しい論争に病気になったし、ハイゼンベルクもボーアと不仲なときがあって、自分の失敗で涙を流したことが。1922年原子構造とその放射に関する研究でノーベル物理学賞を受賞。

ヴォルフガング・エルンスト・パウリWolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日)は、オーストリア生まれのスイスの物理学者。スピンの理論や、現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。緑で塗ったらカッパみたいになった。カッパウリと呼んでくださいw。

アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞を受賞した。
パウリはウィーンでヴォルフガング・ヨセフ・パウリとベルタ・カミラ・シュッツの間に生まれた。エルンストという彼のミドルネームは名付け親の物理学者エルンスト・マッハに敬意を表して付けられた。父方の祖父はユダヤ人で、名の知れた出版社の経営者だった[1]

ハイゼンベルクの批判精神にあふれた同僚で、ハイゼンベルクは何か新しいことを思いつくと、いつもパウリに連絡した(離れていたときは、当時は主に手紙で)。

エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガードイツ語: Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger [ˈɛɐ̯viːn ˈʃʁøːdɪŋɐ]1887年8月12日 - 1961年1月4日)は、オーストリア出身の理論物理学者

1926年波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱。次いで量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年にはシュレーディンガーの猫を提唱するなど、量子力学の発展を築き上げたことで名高い[3]

1933年イギリスの理論物理学者ポール・ディラックと共に「新形式の原子理論の発見」の業績によりノーベル物理学賞を受賞した[1][3]1937年にはマックス・プランク・メダルが授与された[2]

1983年から1997年まで発行されていた1000オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。シュレディンガーとも表記される。デイビッド・C・キャシディ『不確定性』では「粋なオーストリアの物理学者」と紹介され、愛人が3人いて、子供もたくさんいたらしい。それはともかく、アインシュタイン+シュレーディンガー対ニールス・ボーア+ハイゼンベルクで物理学的に対立しており、感情的な言い争いになったこともあるそうだ。

アルベルト・アインシュタイン[注釈 1]: Albert Einstein[注釈 2][注釈 3][1][2]1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者ユダヤ人スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。

特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論ブラウン運動起源を説明する揺動散逸定理光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。

アインシュタインはユダヤ人だったため、ドイツを去り、アメリカに移住した。「神はサイコロを振らない」と言って、ボーアのコペンハーゲン解釈による量子力学を一生認めなかった。


ルイ・ド・ブロイ(Louis Victor de Broglie)こと、第7代ブロイ公爵ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモン(Louis-Victor Pierre Raymond, 7e duc de Broglie 、1892年8月15日 - 1987年3月19日)は、フランス理論物理学者

彼が博士論文で仮説として提唱したド・ブロイ波(物質波)は、当時こそ孤立していたが、後にシュレディンガーによる波動方程式として結実し、量子力学の礎となった。電子の波動性の発見により1929年ノーベル物理学賞を受賞した。

細かい間違いはあったようだが(シュレーディンガーにも間違いはあった)、ド・ブロイにヒントを得て、シュレーディンガーは波動力学を生み出した。ボーアもハッキリしないところもあったし、ハイゼンベルクもミスしてベソをかいた。間違っていいから、みんなどんどん研究して物理学を発展させて欲しい。

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