第9話 ナチスドイツの政権獲得
文字数 4,677文字
1933年5月11日にベルリン国立歌劇場のあるべーベル
物理学者にも同様のことが起こった。
⚫1933年4月7日ユダヤ人は、大学教授も含めて、一切の公職から追放された。
⚫1935年9月15日ニュルンベルク法(人種法)でドイツのユダヤ人はナチスドイツにより公民権を正式に剥奪された。
ヒトラーが権力を握ったとき、客員教授としてアメリカ合衆国に渡ったアインシュタインは、自由、法の下での平等は現在のドイツにないと語り、ドイツには戻らないという決心を世に知らせた。
⚫1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で反ユダヤ主義暴動、迫害が発生、ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。このナチスドイツ政権下の出来事は、破壊されたユダヤ人商店の飛び散ったガラスから、詩的に水晶の夜(独:Kristallnacht、クリスタルナハト)と呼ばれた。どさくさに紛れて普通のユダヤ系ドイツ人の家が略奪されたり、ユダヤ人が暴行されたり、殺されたり、強制収容所に連行されたりした。
以下、ハイゼンベルクに近い人でユダヤ人の血を持つ人の移動を一覧する。
⚫ニールス・ボーア
第二次世界大戦が始まり、ナチス・ドイツがヨーロッパでの侵略を始めると、ユダヤ人を母に持つボーアはイギリスを経由してアメリカに渡った。ハイゼンベルクは1941年ナチス占領下のデンマーク・コペンハーゲンにかつての師を訪ね、ドイツの原爆開発について何かをボーアに伝えようとしたが、このとき二人の心は占領国と非占領国という事情もあってうまくつながらなかった。その様子を書いたのがマイケル・ブレインの劇『コペンハーゲン』である。この小史の参考文献は主に『コペンハーゲン』の著書のあとがきによる。
⚫ヴォルフガング・パウリ
父方の祖父はユダヤ人で、名の知れた出版社の経営者だった。
1938年のドイツによるオーストリア併合によってパウリはドイツ市民となったが、このことは翌1939年の第二次世界大戦勃発とともに、ユダヤ系であった彼の身を危うくすることとなった。
チューリヒにいたパウリは、国際難民組織の一つで長を務め、迫害されたドイツ人科学者や科学専攻学生が海外へ移民して、そこで地位を得られるよう尽力していた。
最初は主にイギリスの大学で3年間の職を創設するための手当てを拠出したが、間もなくイギリスおよび他のヨーロッパの国々は、これ以上の亡命科学者を受け入れられない、受け入れたくないという方針になり、多くの者は、同様に困難ではあったが、アメリカ合衆国へ移って行った。
パウリ自身も1940年にアメリカへ移住し、プリンストン大学の理論物理学の教授となった。
戦争が終わった1946年に彼はアメリカ合衆国には帰化せず、チューリヒに戻り、その後の生涯の大半をここで過ごした。
⚫マックス・ボルン
ドイツ東部シュレージエン地方のブレスラウ(現・ポーランド領ヴロツワフ)にユダヤ系の家庭に生まれる。ゲッチンゲン大学でのハイゼンベルクの教授。
1933年にはドイツでナチス・ドイツが興隆し、ユダヤ人排斥運動によりボルンは教授職を解雇され、同年5月にドイツを離れた。その後、家族を連れて渡英しケンブリッジ大学講師・エディンバラ大学教授に就任する。1939年王立協会フェロー選出。
第二次大戦後の1948年にはマックス・プランク・メダルを、1950年にはヒューズ・メダルを受賞された。1953年エディンバラ大学退職後西ドイツに戻り、ニーダーザクセン州の温泉地であるバート・ピルモントに居住。1954年、量子力学、特に波動関数の確率解釈の提唱によりノーベル物理学賞を受賞した。1957年ゲッティンゲン宣言をオットー・ハーン、カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー、ヴェルナー・ハイゼンベルクらと共に発表して西ドイツの核武装に反対した。1970年にゲッティンゲンで死去。墓所はマックス・プランクも眠るゲッティンゲン市立墓地にある。
ハイゼンベルクはボルンを助ける請願を行ったが、ボルンは待てずに亡命した。
非ユダヤ人
⚫エルヴィン・シュレーディンガー
スイスのチューリヒにいたシュレーディンガーはにベルリン招聘され、当時の物理学の中心地ベルリンに1927年晩夏に移住した。そこでシュレーディンガーは、アルベルト・アインシュタイン、マックス・プランク、女性でユダヤ人の原子物理学者リーゼ・マイトナーと仕事のみならず深く交流し、波動力学を仕上げるための研究が完成されていきベルリンの幸福な時代を「教え学んだ素晴らしい日々」と回想した。
しかし、ナチスドイツが政権を取ると、このような自由や幸福は叶えられないと確信し、1933年の夏に早くも亡命を決断した。
シュレーディンガーはユダヤ人でもなく、政治的に追われているわけでもなかった。シュレーディンガーが健康と労働条件を理由に9月初めに辞職したとき、相変わらず学会のことにかかりきりで、他の人たちも同様の献身を示すべきだと思っていたハイゼンベルクは、特にシュレーディンガーに対して怒った。「というのも、彼はユダヤ人でもないし、他の点で危険にさらされていたわけでもないのだから」
ハイゼンベルクがナチスドイツ政権下での行動の仕方について相談しに行ったドイツ物理学会の重鎮マックス・プランクは「シュレーディンガーの辞職はわれわれベルリン物理学への新たな深い傷だが、全勢力を挙げて耐えねばなるまい」とマックス・フォン・ラウエに手紙で書いた。
シュレーディンガーはイギリスの物理学者リンデマンがドイツを旅行中に、ベルリンを去りたい意向を漏らすと、オックスフォード「滞在」を申し出られた。
1933年10月にシュレーディンガーは夫人同伴でオックスフォードに到着した。その直後、エルヴィン・シュレーディンガーに、ポール・アドリアン・モーリス・ディラックと共に「原子論の有用な新論理とその応用の価値を認められ」1933年度のノーベル物理学賞受賞の知らせが届いた。
シュレーディンガーと親密な個人的交際のあったマックス・ボルンは次のように伝えている。
「彼はオックスフォードでたいへん尊敬されていたが、純粋に男性社会であるカレッジでの生活にどうしてもなじめなかった。
シュレーディンガーにしてみれば、社交に女性が付きものなのに、ハイテーブルではそうでなく、机を並べている同僚に率直に自分の考えを述べたら、その同僚が後で有力者、ひょっとしたら元首相であったなどとは、ぞっとすると」
ちなみにハイテーブルとは、ダイニングホールには、一段高い位置にあるハイテーブルがある。ホールの一番奥にあり、テーブルの向きも、他は全て縦向きなのに対して、横向きになっている。
ここにはカレッジ長であるプレジデント、教員、また招待された人(学生が招待されることもある)のみ座ることができる。
さらに、ハイテーブルのメンバーが入室する際は、ダイニングホールにいる全員が即座に沈黙し、起立しなければならない。その流れで、ハイテーブルのメンバーの中で最も地位の高い人がラテン語で祈りを唱える。ハイテーブルのメンバーが着席したら、他の参加者も着席してまた会話を始めることができる。
ハイテーブルのメンバーが退室する際は、入室の時と同じように、参加者全員が沈黙・起立する。ハイテーブルのメンバーがホールを後にした瞬間に、元に戻ることができる。
ちなみに、ハイテーブルのメンバーは一般の出入り口は使わずに、ハイテーブルに近い扉から入退室する。
(【現役生監修】オックスフォード大学のフォーマルディナーとはより引用)
『シュレーディンガーの生涯』には、大学の食堂などで、教授やフェロー用として一段高くなっている食卓(訳者注)とある。
1936年10月1日、シュレーディンガーはオーストリア・グラーツの理論物理学正教授に着任した。同時に、そこでの教授活動とは別に、ウィーン大学でも名誉教授として講義する権利を与えられた。もっとも2年と続かなかった。1938年3月12日の武力によるヒトラーのオーストリア併合があり、それにより1938年3月11日付でシュレーディンガーは政治的に不適格として、グラーツの教授職から恩給なしで即刻解雇された。ベルリン時代の勝手な「研究休暇」と、復職せよとの度重なる要求に従わなかったためである。
その後、アイルランドの首相イーモン・デ・ヴァレラにつてのあったシュレーディンガーは、プリンストン高等研究所のアインシュタインのように、アイルランドに研究所を設立して、シュレーディンガーを獲得したかったデ・ヴァレラのアイルランドに招かれる。イーモン・デ・ヴァレラは、アイルランド独立に力を尽くした卓抜した人物の一人だった。
その後デ・ヴァレラのおかげで全ヨーロッパビザを持ち、夫人同伴でスイスへ入国したが、ヒトラーによって第二次大戦の危機が迫り、1年ほどオックスフォードにいたが、ベルギーで第二次大戦勃発の報に接し、再びデ・ヴァレラの助けで、1939年10月7日、シュレーディンガー夫妻はアイルランドの首都ダブリンに到着する。
ここでシュレーディンガーは、ウィーンに帰郷するまで誰にも妨げられずに、世界中およびアイルランドの物理学者たちと研究に打ち込み、イーモン・デ・ヴァレラはシュレーディンガーの講義に熱心に参加した。
ちなみに量子力学にもよく登場するハミルトンはアイルランドの数学者・物理学者で、ハミルトニアン(英語: Hamiltonian)あるいはハミルトン関数、特性関数(とくせいかんすう)は、物理学におけるエネルギーに対応する物理量である。
再びユダヤ人。
⚫リーゼ・マイトナー
女性科学者は、第一次世界大戦までドイツの研究室から締め出されていた。女性は最も重要な仕事から、男性をそらしてしまうと考えられていたのだ。しかし、オーストリアのユダヤ人原子物理学者マイトナーは、何十年もの間、オットー・ハーンの庇護のもとベルリンのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所で働いていた。プランクの助力で、彼女はドイツで教授資格を持つ最初の女性物理学者の一人となった。アインシュタインは彼女を「われらのマダム・キュリー」と称えた。
原子物理学者リーゼ・マイトナーは、ナチスドイツがオーストリアを併合した1938年に亡命を余儀なくされた。その後は主にスウェーデンのストックホルムで研究活動を続けた。
カイザー・ヴィルヘルム化学研究所のリーゼ・マイトナーとオットーハーン(1913)★Wikipediaのパブリックドメイン画像★