第6話 ボーアとシュレーディンガーの論争
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古典物理学の伝統のもとで教育を受けた一部の老大家たちに、シュレーディンガーの描像は熱狂的に受け入れられた。ヴィリー・ヴィーンは「量子の解明にとって最も重要な一歩」だと語り、もはや「中途半端なあるいは完全な量子の連続性の沼であがかなくてすみ」、また「再びより厳格な物理的仕事」が優勢になるだろうと期待した。
ハイゼンベルクなどの若い物理的者たちの判定はその逆であった。彼らにとってシュレーディンガーの半古典的な解釈はひとつの挑戦であるとし、
「物理学の原理的問題において……波動力学の通俗的な直感性は、一方ではアインシュタインとド・ブローイの仕事によって、他方ではボーアと量子力学によって開かれたまっすぐな道から逸れる」ものであると確信していた。
1926年秋、同じくボーアの研究所に滞在していたハイゼンベルクによると、ときに体力の限界にまで及んだ二人の大物理学者の討論について次のように報告している。
「ボーアとシュレーディンガーの間の討論は、既にコペンハーゲン駅から始まった。シュレーディンガーはボーアの家に滞在しており、対話にいかなる邪魔も入らなかった。普段ボーアは人との交際においては特に気を使い、親切な人であったが、このときは彼の話し相手に対して一歩たりともゆずらず、ほんのわずかな不明確さをも絶対に許さない、ほとんど狂信者のような仮借ない態度だった……このようにして討論は昼夜をわかたず、長時間にわたって一致点を見出し得ないままずっと続けられた。数日後、おそらく極度の緊張の結果であったろう、シュレーディンガーは発病した。彼は熱を伴う風邪のためにベッドの中で静養しなければならなかった。ボーア夫人は彼の世話をし、お茶やケーキを運んだりしたが、しかしボーアは枕元に座ってシュレーディンガーに話しかけた「しかしあなたはそれでも……のことを理解しなければならない」と」
しかし、量子力学的定式化の基本問題に関し了解しあうに至らなかった。
デンマークのケーキ
1926年の晩夏、マックス・ボルンは原子の衝突過程の研究を行い、電子とアルファ粒子の原子核による散乱の研究が、シュレーディンガーの波動関数を理解する糸口を与えた。
つまり、波動振幅の二乗は、問題にされている粒子がある決まった場所に見出される確率を意味する。シュレーディンガーにとっては、波動関数はまだ直接測定可能な値であったが、ボルンにおいては、電子のシュレーディンガー方程式に従って伝播する誘導場(アインシュタインは皮肉っぽく「幽霊場」と呼んだ)の役割を果たすことになった。つまり、波動関数からはある決まった事象が起こる確率が決定されるだけである。波動関数は個々の過程を統計集団の要素という性質において記述するだけなので、(例えば光量子の放出といった)事象そのものについて決定的なことは何も言えない。これにより、波動力学の物理的本質は極められ、多くの脇道に逸れた思弁は、シュレーディンガーのナイーブな実在論的把握も含めて、その根拠を失った。
エルヴィン・シュレーディンガーにとっては、間もなく1927年のいわゆるコペンハーゲン解釈によって比較的閉じた矛盾のない形になるこの量子論の統計的解釈への転向は、非常に不満足なものであった。彼はコペンハーゲン滞在中ボーアに、
「とにかくこの量子飛躍などというものを捨て去れないのなら、そもそも量子論に少しでも手を出したことを、私はたいへん残念に思います」と明言した。
それでもなお、シュレーディンガーの波動力学は、量子論の数学的方法を発達させるうえで最も重要であっただけでなく、まさにその認識論的解釈の歴史における
その画期的論文に続いて、エルヴィン・シュレーディンガーは波動力学の具体的な展開とその利用に貢献している。中でも摂動論に関する論文はその後数多い応用の基礎となった。シュレーディンガー方程式は、個体物理学から素粒子物理学にわたる近代物理学の最も重要な手段となった。その抜きん出た地位は今日に至るまで揺るがず、シュレーディンガーの名は物理学の専門誌で最も頻繁に引用されている。