第6話 ボーアとシュレーディンガーの論争

文字数 1,758文字

1926年10月の初めに、シュレーディンガーはボーアの招待を受けコペンハーゲンに到着していた。彼は研究所の客室に一人で泊まっていた。

古典物理学の伝統のもとで教育を受けた一部の老大家たちに、シュレーディンガーの描像は熱狂的に受け入れられた。ヴィリー・ヴィーンは「量子の解明にとって最も重要な一歩」だと語り、もはや「中途半端なあるいは完全な量子の連続性の沼であがかなくてすみ」、また「再びより厳格な物理的仕事」が優勢になるだろうと期待した。

ハイゼンベルクなどの若い物理的者たちの判定はその逆であった。彼らにとってシュレーディンガーの半古典的な解釈はひとつの挑戦であるとし、
「物理学の原理的問題において……波動力学の通俗的な直感性は、一方ではアインシュタインとド・ブローイの仕事によって、他方ではボーアと量子力学によって開かれたまっすぐな道から逸れる」ものであると確信していた。

1926年秋、同じくボーアの研究所に滞在していたハイゼンベルクによると、ときに体力の限界にまで及んだ二人の大物理学者の討論について次のように報告している。

「ボーアとシュレーディンガーの間の討論は、既にコペンハーゲン駅から始まった。シュレーディンガーはボーアの家に滞在しており、対話にいかなる邪魔も入らなかった。普段ボーアは人との交際においては特に気を使い、親切な人であったが、このときは彼の話し相手に対して一歩たりともゆずらず、ほんのわずかな不明確さをも絶対に許さない、ほとんど狂信者のような仮借ない態度だった……このようにして討論は昼夜をわかたず、長時間にわたって一致点を見出し得ないままずっと続けられた。数日後、おそらく極度の緊張の結果であったろう、シュレーディンガーは発病した。彼は熱を伴う風邪のためにベッドの中で静養しなければならなかった。ボーア夫人は彼の世話をし、お茶やケーキを運んだりしたが、しかしボーアは枕元に座ってシュレーディンガーに話しかけた「しかしあなたはそれでも……のことを理解しなければならない」と」
しかし、量子力学的定式化の基本問題に関し了解しあうに至らなかった。


デンマークのケーキ

1926年の晩夏、マックス・ボルンは原子の衝突過程の研究を行い、電子とアルファ粒子の原子核による散乱の研究が、シュレーディンガーの波動関数を理解する糸口を与えた。

つまり、波動振幅の二乗は、問題にされている粒子がある決まった場所に見出される確率を意味する。シュレーディンガーにとっては、波動関数はまだ直接測定可能な値であったが、ボルンにおいては、電子のシュレーディンガー方程式に従って伝播する誘導場(アインシュタインは皮肉っぽく「幽霊場」と呼んだ)の役割を果たすことになった。つまり、波動関数からはある決まった事象が起こる確率が決定されるだけである。波動関数は個々の過程を統計集団の要素という性質において記述するだけなので、(例えば光量子の放出といった)事象そのものについて決定的なことは何も言えない。これにより、波動力学の物理的本質は極められ、多くの脇道に逸れた思弁は、シュレーディンガーのナイーブな実在論的把握も含めて、その根拠を失った。

エルヴィン・シュレーディンガーにとっては、間もなく1927年のいわゆるコペンハーゲン解釈によって比較的閉じた矛盾のない形になるこの量子論の統計的解釈への転向は、非常に不満足なものであった。彼はコペンハーゲン滞在中ボーアに、
「とにかくこの量子飛躍などというものを捨て去れないのなら、そもそも量子論に少しでも手を出したことを、私はたいへん残念に思います」と明言した。

それでもなお、シュレーディンガーの波動力学は、量子論の数学的方法を発達させるうえで最も重要であっただけでなく、まさにその認識論的解釈の歴史における一里塚(マイルストーン)でもあった。

その画期的論文に続いて、エルヴィン・シュレーディンガーは波動力学の具体的な展開とその利用に貢献している。中でも摂動論に関する論文はその後数多い応用の基礎となった。シュレーディンガー方程式は、個体物理学から素粒子物理学にわたる近代物理学の最も重要な手段となった。その抜きん出た地位は今日に至るまで揺るがず、シュレーディンガーの名は物理学の専門誌で最も頻繁に引用されている。


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登場人物紹介

ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクWerner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 - 1976年2月1日)は、ドイツ理論物理学者行列力学不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。量子力学のほかにピアノが得意でベートーベンのソナタなどを弾く。趣味はスキーと山歩き。師のボーアとは後で激しい論争をし、涙を流すこともあった。1933年、量子力学の確立により1932年にノーベル物理学賞を受賞した。 彼は量子力学の哲学的側面も扱った。また、ナチスが政権を取ってからコペンハーゲンに行ったが、デンマークはナチスに占領され、ハイゼンベルクは原子爆弾について忠告しようとしたが、ボーアと気持ちがすれ違ってしまった。戦後、ナチスに両親を殺されたオランダ人との同僚ともしっくり行かなかった。ハイゼンベルクはナチス党員ではなかったが、ドイツで物理学の仕事を続けるため、ナチスの高官と妥協した。それを責められないと私は思うが、親を殺されたらしっくり行かないだろう。

ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーアデンマーク語: Niels Henrik David Bohr[1]1885年10月7日 - 1962年11月18日)は、デンマークの理論物理学者[2]量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。王立協会外国人会員。ユダヤ人。ハイゼンベルクの師。基本的には優秀でいい人なんだけど、物理学の議論になると、我を忘れることも。コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所に来たシュレーディンガーは、ボーアの厳しい論争に病気になったし、ハイゼンベルクもボーアと不仲なときがあって、自分の失敗で涙を流したことが。1922年原子構造とその放射に関する研究でノーベル物理学賞を受賞。

ヴォルフガング・エルンスト・パウリWolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日)は、オーストリア生まれのスイスの物理学者。スピンの理論や、現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。緑で塗ったらカッパみたいになった。カッパウリと呼んでくださいw。

アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞を受賞した。
パウリはウィーンでヴォルフガング・ヨセフ・パウリとベルタ・カミラ・シュッツの間に生まれた。エルンストという彼のミドルネームは名付け親の物理学者エルンスト・マッハに敬意を表して付けられた。父方の祖父はユダヤ人で、名の知れた出版社の経営者だった[1]

ハイゼンベルクの批判精神にあふれた同僚で、ハイゼンベルクは何か新しいことを思いつくと、いつもパウリに連絡した(離れていたときは、当時は主に手紙で)。

エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガードイツ語: Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger [ˈɛɐ̯viːn ˈʃʁøːdɪŋɐ]1887年8月12日 - 1961年1月4日)は、オーストリア出身の理論物理学者

1926年波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱。次いで量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年にはシュレーディンガーの猫を提唱するなど、量子力学の発展を築き上げたことで名高い[3]

1933年イギリスの理論物理学者ポール・ディラックと共に「新形式の原子理論の発見」の業績によりノーベル物理学賞を受賞した[1][3]1937年にはマックス・プランク・メダルが授与された[2]

1983年から1997年まで発行されていた1000オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。シュレディンガーとも表記される。デイビッド・C・キャシディ『不確定性』では「粋なオーストリアの物理学者」と紹介され、愛人が3人いて、子供もたくさんいたらしい。それはともかく、アインシュタイン+シュレーディンガー対ニールス・ボーア+ハイゼンベルクで物理学的に対立しており、感情的な言い争いになったこともあるそうだ。

アルベルト・アインシュタイン[注釈 1]: Albert Einstein[注釈 2][注釈 3][1][2]1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者ユダヤ人スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。

特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論ブラウン運動起源を説明する揺動散逸定理光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。

アインシュタインはユダヤ人だったため、ドイツを去り、アメリカに移住した。「神はサイコロを振らない」と言って、ボーアのコペンハーゲン解釈による量子力学を一生認めなかった。


ルイ・ド・ブロイ(Louis Victor de Broglie)こと、第7代ブロイ公爵ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモン(Louis-Victor Pierre Raymond, 7e duc de Broglie 、1892年8月15日 - 1987年3月19日)は、フランス理論物理学者

彼が博士論文で仮説として提唱したド・ブロイ波(物質波)は、当時こそ孤立していたが、後にシュレディンガーによる波動方程式として結実し、量子力学の礎となった。電子の波動性の発見により1929年ノーベル物理学賞を受賞した。

細かい間違いはあったようだが(シュレーディンガーにも間違いはあった)、ド・ブロイにヒントを得て、シュレーディンガーは波動力学を生み出した。ボーアもハッキリしないところもあったし、ハイゼンベルクもミスしてベソをかいた。間違っていいから、みんなどんどん研究して物理学を発展させて欲しい。

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