chapitre115. 幻像の立証

文字数 3,737文字

 ――創都345年1月7日 午前2時54分
 ――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層
 
「全員、無事に解放されたそうだ」
「だろうね。良かった」

 コアルームに届いたMDPスーチェン支部からの伝報に目を通して、その内容を要約してアルシュに伝える。カノンの言葉に、アルシュは冷静な表情を保ったまま頷いた。

「要は、野生(ソヴァージュ)を囲い込みたかっただけ。リヤンが上手く逃げ出した時点で、向こうの算段はほぼ折れていた」
「人質を取って交渉してくる可能性はあったんじゃないの」
「だとしても、ハイデラバードとMDPという組織同士の対立になってしまう。更に火種を撒くほどの余裕はないはず」
「なるほどね……」

 椅子の背にもたれかかって、足を組む。

 壁に囲われた街、ハイデラバードの内情は知らないが、やはり出生管理施設の焼失は彼らにとっても痛手で、どうにかして解決策を模索しているようだ。そんななかで偶然見つけた野生(ソヴァージュ)の女性は、どんな純度の高い水晶より稀少な掘り出し物に見えたのだろう。

「しかし、まぁ、よく逃げ出せたもんだね」

 感心して溜息をつく。

 事件の渦中に巻き込まれたリヤンという少女には、カノンも一度だけ会ったことがあるが、あまり会話をしなかったこともあり、小柄で幼げな印象しか記憶に残っていない。単身でハイデラバードから逃げ出すほどの気概があるとは、思ってもみなかった。

「意外とタフなんだねぇ、あの子」
「リヤンのこと? そうだね、彼女が逃げられてなかったら、かなり状況が悪かったから……上手くやってくれて良かった」
「まったくだ」
「それに、思いがけず、良い機会が舞い込んできた」

 疲労の蓄積した目元を擦って、アルシュは口元を持ち上げて見せた。

「孤立していたハイデラバードを巻き込めるかも。それにリヤンの話が本当なら、彼らの建築技術は、今後相当頼りにできるはず」
「……まあ、そうだね」

 アルシュの落ち着き払った口調を耳にして、カノンは背筋が少し冷たくなるのを感じた。仮にも彼女の知人や部下が危険な目に遭ったばかりだというのに、この冷淡さは何だろう。遠回しにそれを言ってみると、アルシュは苦笑した。

「感情表現の薄さを、カノン君に指摘されるのかぁ……お互い様じゃない?」
「あんたらしくないと思ってね」
「あはは……もちろん、皆が危ない目に遭ったのは悲しいし、無事だったことは嬉しいよ」

 でもね、と言ってアルシュは口元を引き締めた。

「今は、一喜一憂してる場合じゃないからね」

 カノンは頷いて、MDPスーチェン支部からのメッセージウィンドウを消す。

 変わって現れたウィンドウには、入居者から寄せられた苦情やら文句やら質問やら、身勝手で近視眼的なコメントがずらりと並んでいた。スクロールバーの長さを見ただけで目眩がしそうになる。一日にして激増したラピス市民を、一体どのように制御すれば良いのか。

 そもそも、自分が民衆を制御する側に立つべきなのかすら、疑問が残る。

 横に立つアルシュにちらりと視線をやった。

 元々MDPという組織をまとめていた彼女はともかくとして、カノンは偶然、幻像(ファントム)が発生したタイミングでコアルームにいて、成り行きで情報が集約される場所に立ち会っているだけだ。

 だが、できることをやるしかない。

 目の届く範囲をできる限り整えて、少しでも光がありそうな方向へ進むしかない。見出した光明が正しいのかどうか、進んでみないと分からない。地に足をつけて、足下の石ころに気をつけて、遠すぎる場所は見ないようにして進む。目の前にある問題を片付けて、転んだ人を抱えて進む。

 そういえば、と思い出す。
 手の届かない場所にあるものに思いを馳せるのが好きだ、と言った人がいた。

 あれは、背負っているものが少ないからこその気軽さだと思う。背筋をまっすぐ伸ばして遠くを見つめられるのは、身軽な人間の特権だ。

 それが羨ましかった。
 まっすぐ見つめられないほど、眩しかった。

「俺はあんたみたいにはなれないな」

 思わず独り言を零す。

「え、何の話?」
「いや……違うよ。あんたのことじゃない」

 不審そうに眉をひそめたアルシュに、笑って片手を振って見せた。どちらかと言えば彼女は()()()()の、着実に足場を固めていこうとする人間だ。同じ種類の人間だと思うからこそ、何の縁なのか分からないが、仲間としてそれなりに上手く協力できている。

 思考を切り替えて、パネルに向き直る。

 包括的管理AIであるELIZAの表示によると、現在ハイバネイト・シティ居住区域に滞在しているのはおよそ30万人。ハイバネイト・シティの最大収容人数は100万と聞いているので、彼らの生活を支えるだけの余裕はあるが、地上に残っている人間もまだいるだろう。

 それに、最大の問題はそこではない。

 D・フライヤの作り出す時空間異常によって7つの世界が混じり合ったという、数日前のカノン自身ですら鼻で笑いそうな話を、現実として数十万の人間が受け止め、理解しなければならないのだ。

「とにかく、現状を分かってもらわないと」

 アルシュも同様に考えているらしく、腕を組んで溜息を吐いた。

「D・フライヤに対する理解度は、結構ムラがありそう。実在する事象として幻像(ファントム)を受け止めているところもあれば、とんでもない与太話だと思っているところもある」
「なるほどね。だが幻像(ファントム)に近い事象は、どこでも起きてたんじゃないかねぇ」
「そうだね。解釈の問題だと思う」

 彼女は目を閉じて、椅子の背にもたれかかった。

「ただの幻覚だと思っていたとか。あるいは閃光を用いた悪戯だと解釈したり。人が消えたり現れるのだって、いくらだって説明の付けようはある。誘拐されたとか、どこかの陰謀だとか」
「現実より、よほど合理的な説明だね」

 相槌を打つと、そう、とアルシュは頷く。

「だから私たちは――実際に証拠を見せるしかない。ある言語圏から別の言語圏へ、人間が実体を伴って移動したことを、()()の口から語ってもらわないといけない」

 カノンは無言で椅子を回す。アルシュに言われるまでもなく、()の存在が一つの切り札になることは分かっていた。

 ティア・フィラデルフィア。
 2年前に異世界から来た少年だ。

 ティアが異言語で話していることを、偶然にも初期に看破した者がいた。そのために意思疎通が可能となり、流動的な時勢の中でも生き残ることができた。あの偶然がなければ、ティアは牢に閉じ込められていたか、当てもなく彷徨うか――殺されはしなくとも、真っ当な生活はできなかっただろう。

 つまり彼のように、幻像(ファントム)によって遷移した経験を持ち、なおかつ遷移の経験を適切な言葉で説明できる人材は、7つの世界全てを見渡しても稀だと考えられる。本来なら一刻も早くティアに連絡を取り、協力を依頼するべきだった。

「だが……あの子の居場所は分かるのかい」
「えっ、カノン君は知らないの?」

 アルシュは閉じていた目を開いて、少し高い声で言った。

「だってティア・フィラデルフィアは地下にいたんだよね。カノン君たちの仲間なんでしょう」
「それは正しい。だけど……出生管理施設に交渉に向かってから、音信がない。彼が乗っていたはずの小型航空機(メテオール)は、墜落したと聞いた」
「じゃあ、探そう」

 きっぱりと言い切って、アルシュは新しいウィンドウを開いた。ヴォルシスキーのMDP支部に宛ててメッセージを書き始める。

「生きているなら、どこかで保護されているかもしれない。優先的にそちらを進めたいんだけど、良いかな?」
「俺には反対する理由なんてないけど、あんたが、それで良いのなら」
「どういう意味?」
「いや……あんたは彼に会いたくないだろう」

 ティアがこちらにやってきた2年前、いざこざに巻き込まれてアルシュの相方(パサジェ)が死んだのだ。カノンが曖昧に視線を逸らすと、アルシュは手を止めて、何だそんなことか、と言わんばかりに苦笑した。

「関係ないよ」
「そうか。余計なことを言って悪かったね」
「ううん」

 彼女は小さく首を振り、文章を作成する作業に戻った。仕上がった文章をカノンも確認してから、MDPヴォルシスキー支部に送信する。

「――それに」

 作業を終えたウィンドウを消して、彼女は俯いた。影になった顔は、いつになく強ばっていて険しい。光の消えた瞳が、握りしめた指をじっと見つめていた。

「10も年下の子供にこんなことを言うのは悪いけどね、恨む相手がいるから、悲しみに耐えられる。だからこそ、こんな場所で消えられたら、困るんだ」

「そりゃあ大変だ。あんたが潰れたら俺も困る」

 言葉の裏にある重たさは見ないふりをして、カノンがさらりと応じると、アルシュは頷いた。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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