chapitre115. 幻像の立証
文字数 3,737文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層
「全員、無事に解放されたそうだ」
「だろうね。良かった」
コアルームに届いたMDPスーチェン支部からの伝報に目を通して、その内容を要約してアルシュに伝える。カノンの言葉に、アルシュは冷静な表情を保ったまま頷いた。
「要は、
「人質を取って交渉してくる可能性はあったんじゃないの」
「だとしても、ハイデラバードとMDPという組織同士の対立になってしまう。更に火種を撒くほどの余裕はないはず」
「なるほどね……」
椅子の背にもたれかかって、足を組む。
壁に囲われた街、ハイデラバードの内情は知らないが、やはり出生管理施設の焼失は彼らにとっても痛手で、どうにかして解決策を模索しているようだ。そんななかで偶然見つけた
「しかし、まぁ、よく逃げ出せたもんだね」
感心して溜息をつく。
事件の渦中に巻き込まれたリヤンという少女には、カノンも一度だけ会ったことがあるが、あまり会話をしなかったこともあり、小柄で幼げな印象しか記憶に残っていない。単身でハイデラバードから逃げ出すほどの気概があるとは、思ってもみなかった。
「意外とタフなんだねぇ、あの子」
「リヤンのこと? そうだね、彼女が逃げられてなかったら、かなり状況が悪かったから……上手くやってくれて良かった」
「まったくだ」
「それに、思いがけず、良い機会が舞い込んできた」
疲労の蓄積した目元を擦って、アルシュは口元を持ち上げて見せた。
「孤立していたハイデラバードを巻き込めるかも。それにリヤンの話が本当なら、彼らの建築技術は、今後相当頼りにできるはず」
「……まあ、そうだね」
アルシュの落ち着き払った口調を耳にして、カノンは背筋が少し冷たくなるのを感じた。仮にも彼女の知人や部下が危険な目に遭ったばかりだというのに、この冷淡さは何だろう。遠回しにそれを言ってみると、アルシュは苦笑した。
「感情表現の薄さを、カノン君に指摘されるのかぁ……お互い様じゃない?」
「あんたらしくないと思ってね」
「あはは……もちろん、皆が危ない目に遭ったのは悲しいし、無事だったことは嬉しいよ」
でもね、と言ってアルシュは口元を引き締めた。
「今は、一喜一憂してる場合じゃないからね」
カノンは頷いて、MDPスーチェン支部からのメッセージウィンドウを消す。
変わって現れたウィンドウには、入居者から寄せられた苦情やら文句やら質問やら、身勝手で近視眼的なコメントがずらりと並んでいた。スクロールバーの長さを見ただけで目眩がしそうになる。一日にして激増したラピス市民を、一体どのように制御すれば良いのか。
そもそも、自分が民衆を制御する側に立つべきなのかすら、疑問が残る。
横に立つアルシュにちらりと視線をやった。
元々MDPという組織をまとめていた彼女はともかくとして、カノンは偶然、
だが、できることをやるしかない。
目の届く範囲をできる限り整えて、少しでも光がありそうな方向へ進むしかない。見出した光明が正しいのかどうか、進んでみないと分からない。地に足をつけて、足下の石ころに気をつけて、遠すぎる場所は見ないようにして進む。目の前にある問題を片付けて、転んだ人を抱えて進む。
そういえば、と思い出す。
手の届かない場所にあるものに思いを馳せるのが好きだ、と言った人がいた。
あれは、背負っているものが少ないからこその気軽さだと思う。背筋をまっすぐ伸ばして遠くを見つめられるのは、身軽な人間の特権だ。
それが羨ましかった。
まっすぐ見つめられないほど、眩しかった。
「俺はあんたみたいにはなれないな」
思わず独り言を零す。
「え、何の話?」
「いや……違うよ。あんたのことじゃない」
不審そうに眉をひそめたアルシュに、笑って片手を振って見せた。どちらかと言えば彼女は
思考を切り替えて、パネルに向き直る。
包括的管理AIであるELIZAの表示によると、現在ハイバネイト・シティ居住区域に滞在しているのはおよそ30万人。ハイバネイト・シティの最大収容人数は100万と聞いているので、彼らの生活を支えるだけの余裕はあるが、地上に残っている人間もまだいるだろう。
それに、最大の問題はそこではない。
D・フライヤの作り出す時空間異常によって7つの世界が混じり合ったという、数日前のカノン自身ですら鼻で笑いそうな話を、現実として数十万の人間が受け止め、理解しなければならないのだ。
「とにかく、現状を分かってもらわないと」
アルシュも同様に考えているらしく、腕を組んで溜息を吐いた。
「D・フライヤに対する理解度は、結構ムラがありそう。実在する事象として
「なるほどね。だが
「そうだね。解釈の問題だと思う」
彼女は目を閉じて、椅子の背にもたれかかった。
「ただの幻覚だと思っていたとか。あるいは閃光を用いた悪戯だと解釈したり。人が消えたり現れるのだって、いくらだって説明の付けようはある。誘拐されたとか、どこかの陰謀だとか」
「現実より、よほど合理的な説明だね」
相槌を打つと、そう、とアルシュは頷く。
「だから私たちは――実際に証拠を見せるしかない。ある言語圏から別の言語圏へ、人間が実体を伴って移動したことを、
カノンは無言で椅子を回す。アルシュに言われるまでもなく、
ティア・フィラデルフィア。
2年前に異世界から来た少年だ。
ティアが異言語で話していることを、偶然にも初期に看破した者がいた。そのために意思疎通が可能となり、流動的な時勢の中でも生き残ることができた。あの偶然がなければ、ティアは牢に閉じ込められていたか、当てもなく彷徨うか――殺されはしなくとも、真っ当な生活はできなかっただろう。
つまり彼のように、
「だが……あの子の居場所は分かるのかい」
「えっ、カノン君は知らないの?」
アルシュは閉じていた目を開いて、少し高い声で言った。
「だってティア・フィラデルフィアは地下にいたんだよね。カノン君たちの仲間なんでしょう」
「それは正しい。だけど……出生管理施設に交渉に向かってから、音信がない。彼が乗っていたはずの
「じゃあ、探そう」
きっぱりと言い切って、アルシュは新しいウィンドウを開いた。ヴォルシスキーのMDP支部に宛ててメッセージを書き始める。
「生きているなら、どこかで保護されているかもしれない。優先的にそちらを進めたいんだけど、良いかな?」
「俺には反対する理由なんてないけど、あんたが、それで良いのなら」
「どういう意味?」
「いや……あんたは彼に会いたくないだろう」
ティアがこちらにやってきた2年前、いざこざに巻き込まれてアルシュの
「関係ないよ」
「そうか。余計なことを言って悪かったね」
「ううん」
彼女は小さく首を振り、文章を作成する作業に戻った。仕上がった文章をカノンも確認してから、MDPヴォルシスキー支部に送信する。
「――それに」
作業を終えたウィンドウを消して、彼女は俯いた。影になった顔は、いつになく強ばっていて険しい。光の消えた瞳が、握りしめた指をじっと見つめていた。
「10も年下の子供にこんなことを言うのは悪いけどね、恨む相手がいるから、悲しみに耐えられる。だからこそ、こんな場所で消えられたら、困るんだ」
「そりゃあ大変だ。あんたが潰れたら俺も困る」
言葉の裏にある重たさは見ないふりをして、カノンがさらりと応じると、アルシュは頷いた。