chapitre73. 彼女の虚像
文字数 5,136文字
ラム・サン・パウロは動乱の渦中にあった。
半ば突き飛ばすように若者たちを昇降装置に押し込み、上の階層へ、とだけ叫んで扉を閉めさせた。装置が作動して上に向かったことを確認すると、ラムは即座に振り向いて部屋を飛び出し、柱の影にやや小柄な体躯を潜める。鳴り止まない心臓を無理やり鎮めて、近づいてくる足音を聞いた。
こちらに撒かれたと思ったのだろう、その足取りは完全に油断している。5人ほどの集団だが、銃を持っているのは一人だけだ。ほぼ等速にこちらに向かって動く、60キロ前後のタンパク質の塊と、大切に抱えられた数キロの金属の塊を三次元座標上でイメージした。極限まで抽象化して空間を捉えるのは、余計な感傷を捨て去るためでもある。
通り過ぎる、その一瞬。
コンマ1秒すら狂わず、折り曲げた足に溜めた力を解放して地面を蹴る。自分の質量をまっすぐ相手にぶつけ、膝で蹴り込んでタンパク質の塊と金属の塊を切り離す。宙に飛んだ金属の塊は、完全に予想通りの軌道を描いて、駆け出したラムの右手に収まった。
振り向いて、構えなおし、撃つ。
そんな訓練を受けていたのは遠い昔のことだが、老い始めたラムの身体は、まだ辛うじて、その流れを覚えていた。
さほどの抵抗はなく小さな鉄塊が加速されて飛び出し、打ち砕き、水風船のように破裂する。同じ動作をあと何回か繰り返す。自分以外には動いている物体のなくなった廊下で、ああ、と小さく息を吐いた。
身体と心を分けていた水門を開けてやると、自分が人間の頭を5人分吹き飛ばした、という事実が胸の中に流れ込む。いが栗を無理やり飲み込んだような感覚が心臓を突き刺して、傷口からどす黒い液体を腹の中に垂れ流す。
「思ったよりは苦しいな」
そう呟き、ラムは視線を持ち上げる。天井のスピーカーがこちらを黙って見下ろしていた。おい、と話しかける。
「さっきの昇降装置はどこのフロアに行った」
『はい。第34層です』
「分かった」
会話しながら、死んだ男の衣服を漁って銃弾を奪い取る。廊下を戻って昇降装置に乗り込む。
「俺も第34層に向かう」
『はい、分かりました』
今度は装置の壁から聞こえてくる抑揚のない声にラムは、はは、と乾いた笑いを零した。
「やはり、お前はエリザじゃないな」
『いいえ。私はELIZAです』
「本当にエリザなら、俺が人を殺すところを見て、それでも黙っているはずがないさ」
そう返すと、スピーカーは沈黙した。今のラムの言葉には返事をする必要がない、という判断が内部で下されたのだろうか。
『ラム。私は――』
「その呼び名も、もう止めてくれ」
『――分かりました』
まるで人間の躊躇いのようにも感じ取れる、長い演算処理を示す沈黙の末に、ラムがかつて愛した女性の名を冠した管理AIは言った。
『では、代わりに何と?』
「デフォルトに戻してくれ。それでいい」
*
その、ひと月ほど前のこと。
初めは、暗い水の底に沈んでいるようだ、と思った。
ゆっくり目を開けると、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がるものがあった。細長い輪郭が次第に鮮明になる。ナイフだった。どこかで見たものだが、思い出せない。
彼はおそるおそる手を伸ばしてそれを取った。手元に引き寄せて眺めるが、やはり見覚えがあるようで、しかし具体的にどこで見たかと問うと、空を掴むかのように記憶が逃げ出した。
「ラム」
誰かが呼んでいる。
自分が呼ばれたのだと気がついて、そこから逆にたどり、自分の名前を思い出した。ラム・サン・パウロはナイフを利き手に持ち替えて、暗い周囲を見渡す。上下左右の存在しない空間を無我夢中に探すが、声の主が見つからない。
ラム、ともう一度呼ばれた。
振り向くとそこに、蜂蜜色の長い髪をなびかせた女性が微笑んでいた。彼女は、ラムが見つけられなかっただけで、最初からそこにいたのだろう。
「――エリザ」
その名前を呼び、手を伸ばして気がつく。視界の中央にある自分の手は、骨ばっているがまだ柔らかい、青年のような手だ。本当の自分はもっと歳をとっていたようにも思うが、なぜかあの頃の姿に――エリザと出会った頃の姿に戻っている。
少し震えているラムの指先を、エリザが包み込むように握り、柔らかな微熱が伝わる。視線をゆっくりと持ち上げると、白銀に煌めく瞳がこちらを見据えていて、確かに目が合った。
彼女が微笑んだ。
その瞬間に世界が始まった。
植物が成長するように、四方八方に白い枝が伸びて、ひとつひとつの葉が景色を映す。空は青く澄み渡り、柔らかい初夏の風が木の葉を揺らす。鮮やかな緑の草原に、2人は手を取り合いながら立っていた。風にあおられた葉のいくつかが空に舞い、空気のなかを踊りながら目の前に降りてきて、そこに映した景色が世界中に広がる。
色々な人と出会った。
色々な話を聞いて、色々なことに巻き込まれた。
沢山の、本当に沢山の名前に囲まれて生きていた。自分を愛してくれた人も、憎んでいた人も、殺そうとした人も、好きな人も嫌いな人も数えきれないくらいいたのだ。
「そうでしょう?」
エリザが微笑んだ。でもね、とその唇が動くと、季節が夏から秋に変わった。少し褪せた配色で、先ほどとは違う景色が描き出される。
「見たくないものも、貴方は見ないといけない」
そう言って彼女は消える。気がつくと自分は、ランタンを持ってどこかの廊下に立っていた。腰に下げたのは銃の重み。ポケットを探ると、さっき手にしたナイフが入っていた。ぶぅん、とモーターの作動音が低く響いている。
扉があった。
祈りの間の扉。
導かれるようにラムはそこに向かう。部屋に入るとモーターの作動音が消えて、中にあった昇降装置の扉が開く。放心したように座り込んでいた少女が、血の気の失せた顔で自分を見上げていた。
『カシェ・ハイデラバードに会ったのか?』
『その……はい。会いました』
口を開いたつもりはないのに、自分の声が響いた。低くて掠れた声だ。自分の身体が勝手に動いて、彼女の襟元を掴み上げ、叩きつけるように壁に押し付ける。
やめろ、と叫んだ。
だが、その声は響かない。
『どこまで聞いた? 正直に言え』
場面は否応なしに進んでいき、焦燥しきった顔の少女が、それでもどこか希望を残した表情で口を開く。
『貴方を――』
半狂乱になって、やめろと繰り返し叫んだ。この次にくる場面を自分は知っている。目を閉じて床に崩れ落ち、暗黒のなかで頭を抱えて叫ぶ。さっき拾ったナイフは、この夜、自分が彼女に突きつけてしまったものだった。驚きと恐怖で引きつる彼女の表情。その青い瞳に映り込む、狂気に歪んだ自分の姿。
見たくない。
嫌だ。嫌だ嫌だ! 止めてくれ――
「大丈夫よ、ラム」
凜とした声が、とつぜん聞こえてそう言った。
肩に暖かいものが触れ、「目を開けてみて」と言う。身体を震わせながら恐る恐る目を開けると、目の前にいた少女は凍りついたように動かず、何かを言いかけた表情のまま止まっていた。その襟を掴んでいたラムがゆっくりと身を引いても、彼女は動かないどころか、呼吸ひとつすらしていないようだった。
祈りの間の扉が開き、朝陽とともにエリザが入ってくる。ワンピースの裾をひるがえしてラムに歩み寄り、手を握った。ナイフが床に落ちて、カラカラと音を立てる。
「時間なら、もう止めたから。貴方が恐れる未来なら、もう消してあげた」
温もりの伝わらない冷たい手のひらが、震えているラムの手を握りしめた。光が窓から差し込み、部屋を満たす。エリザが視線を横に動かすので、その視線を追いかけると、先ほどまで生きた人間だったはずの少女が砂の像に変わっていた。
それは朝陽に溶けるように流れ落ち、人の形を失って消えていく。壁も床も、建物も、街も空も消えて砂に変わる。見渡す限りの砂浜に、自分と彼女だけが手を取り合って立っていた。
「全部なかったことにしましょう。ね」
懐かしいその微笑み。
「大丈夫だから」
穏やかな声の響き。
「目覚めたら全て元通りだから」
なのに、体温を感じない手のひら。
彼女はいつの間にかその手にナイフを持っていて、柄をこちらに向けてラムに手渡した。受け取ったナイフは氷の塊のように冷たく、ずしりと重たい。
エリザの身体が、つま先から砂に変わっていく。彼女は片手を緩やかに持ち上げて、彼女自身の左胸を指さした。
「お願い。私の心臓を刺して」
無理だ、と叫んだ。
なのにどういうわけか、勝手に手が動き、震える切っ先が彼女に近づいていく。先端がワンピースの生地を突き破り、柔らかい白い皮膚を裂いて赤い血が滴り、黄色い脂肪が覗く。柔らかい微笑みに吸い込まれるように進んでいくナイフの、磨き上げられた金属に反射した景色がふと目に入る。
そこには自分の顔が映っていた。
ラムは鏡ごしに自分と見つめ合って、ようやく今の状況を理解した。自分は
今まさにエリザの心臓をえぐりかけたナイフを引き抜いて、その代わりに自分の腕を切りつける。
傷口から黒い淀みが溢れ出して、誰かの姿になった。金色の長い髪に青い瞳の女性が、歪みきった顔で自分を見つめている。たしかに友人だったはずの彼女を、悲しく思いながら見つめ返した。
そしてまた身体を切りつけた。
焼き付くような痛みに転げ回りながら、いくつもいくつも傷を作り、溢れ出す血で世界を描き出す。燃えるような怒りに染まった赤い瞳で、こちらに銃を向けている少年が現れる。全てが抜け落ちた空虚な表情で立ち尽くす青年が現れる。
そうやってできあがった世界は赤黒く染まっていて、笑顔を浮かべている人など誰もいない。それでも、いや、それこそがラムが知っている本当の世界だった。
最後に自分の心臓を突き刺すと、オリーブグリーンの髪を持つ少女が現れた。朝の永遠に訪れない部屋で、内臓のようなおぞましい色をした壁に押し付けられて立っている。恐怖に染まった青い瞳を見開いて、言った。
『貴方を殺せと、そう言われました』
自分は。
このとき、本当はどうすべきだったのか?
心臓にはナイフを突き立てたままだ。口から血の塊を吐く。意識が遠のいて耳鳴りがした。それでもラムはゆっくりと手を伸ばし、自分とどこか似た容姿の、そしてエリザの面影を微かに残した少女の肩に触れた。
自分が彼女の父親だと知られた、あの日。
彼女が生まれてから20年という長い月日が経って、初めて、父と娘という立場で話ができたかもしれないのに。
そうだろう。
本当は。
抱きしめてやりたかったんだ。
ラムが娘の身体を抱き寄せると、その瞬間に世界は暗闇に戻り、どうして、と問う声が聞こえた。傷だらけで倒れているラムの隣に膝を揃えて座り、エリザが悲しそうな瞳でこちらを見ている。
「忘れられるところだったのに」
「知識と真実を愛したエリザなら、忘却が良いことだなんて思うわけがない。お前はエリザじゃない、俺の弱い心が生み出した亡霊だ」
「――そうね」
さようなら、ラム。
そう言って彼女は砂になり、消えた。暗闇を横一線に光が切り裂き、世界は真っ白い光に満たされた。
ラムは起き上がり、周囲を見回す。
切り刻んだはずの身体には傷ひとつない。そこは見慣れたハイバネイト・シティ居住区域の一室だ。S3-28-5と記された、昨日までと同じ居室。柔らかいマットレスから起き上がり、ラムは天井のスピーカーに呼びかけた。
「おい」
『はい、ラム。ご用ですか?』
「“
ラムが強い口調で言うと、天井のスピーカーはしばらく沈黙した。ややあって「集合意志の形成を待ちます。少々お待ちください」と答えた。