chapitre10. 塔の上の朝
文字数 6,778文字
塔の上の部屋。
部屋の外からノックが聞こえたので、リュンヌは返事をする。
扉が開いて、慣れ親しんだ気配が入ってきた。
「おはよう、ルナ。トースト持ってきたよ」
「ああ……ありがとう」
まだ良く回らない頭で、リュンヌは返事をした。ソレイユはベッドの脇に置かれたテーブルの上を片付けて、二人ぶんの朝食を並べた。
「ソルが私より先に起きているなんて、いつ以来かな」
「あはは。いつもお世話になってるよ。ぼくはどうも、眠るのが好きらしいね」
言いながら彼は白いティーカップに紅茶を注いだ。紅茶の薫り高い匂いが、部屋の空気に溶けていく。
「……エリザと話していたときも、ソルは寝てばかりだった」
言いながらリュンヌは、夢の内容を思い出していた。幼い日、ソレイユとエリザと共に過ごした、かけがえのない半年間を夢の中で辿った。
普通の夢なら、起きて朝食を食べるうちにどんどん忘れていく。
だが、昨晩見たのはただの夢ではない。十年間、閉ざされていた大切な記憶なのだ。思い出すごとにその鮮明さは増し、あの暖かい半年間はたしかに存在したのだと、より確信できるようになっていった。
磁器どうしが触れ合う、小さな音が鳴った。
ソレイユがカップを置いて、まっすぐリュンヌを見つめた。
「ルナ、今までごめんね。ぼくはずっと隠しごとをしてた」
「謝ることじゃない。――ソルは覚えていたんだな、エリザのことを。今はそれが、とても羨ましいことのように思うよ」
それがリュンヌの素直な感情だった。
彼女の記憶を封じたムシュ・ラムに、ソレイユが協力していたことはもう分かっていた。
たしかに、彼が自分に嘘を吐いているなんて想像もしていなかった。その信頼は、ともすれば裏切られたと言えるのかもしれない。でもそれ以上にソレイユを信じていた。対話を重んじる性格、人を思いやる善性、状況を読む叡知を信じていた。
彼が嘘を吐いたのなら、それは吐かなければならない嘘だったのだろう。
「……大変だっただろう、ずっと」
できるだけ表情を緩めて、リュンヌはソレイユに声を掛けた。いくら隠そうとしていても、罪悪感が彼を苛んでいるのが分かったからだ。いつも太陽のような笑顔を咲かせている彼の、苦しそうな顔は、あまり見たくなかった。
ソレイユは労る言葉には触れず、黙って目を伏せた。
「機を見て思い出してもらおうということになっていた。それが昨日だったんだ」
「……なあ。意地の悪いことを聞くようだが」
リュンヌは少し考えて言った。
「要するに、ラピスにとって都合が悪いから私は記憶を奪われたのだろう。それならば、ずっと忘れたままのほうが良かったんじゃないか? 何故、今になって記憶を取り戻させるような真似をするんだ?」
ソレイユは少し驚いた顔をした。
「何だか、ルナ、冷静だね。もう少し混乱しても良さそうなのに」
「取り乱している場合じゃないんだ。ソルも分かっているだろう?」
「……そうだね」
ソレイユが眉をひそめて窓の外を見た。リュンヌも彼の視線を追う。2人がいるのは、塔の最上階に設けられた部屋だ。下を見下ろしても、道を歩く人は米粒にしか見えないほど高く、正確な高さは分からないが三百メートルはあるだろう。降りることがまず絶望的であると、そう確信するに十分な高さだった。
「新都の秩序を守る側にとって不都合だったから、記憶を奪われた。何故かといえば、それ以上周囲に話が広まらないようにするためだ。記憶を戻されたということは……」
リュンヌは細く長い息を吐いた。
核心に触れるのが怖かった。しかし、言わなければ始まらないと自分を勇気づける。
「これ以降誰とも接触を許されない、そういうことじゃないか?」
「その可能性は大いにある」
ソレイユが頷いた。
「さっき、ぼくの
「幹部候補生というのは口実で、本音は私たちを閉じ込めたかったわけか」
胃がずしりと重くなる感じがした。このまま一生、誰とも会えず、この部屋から出られないと考えると気が滅入るようだった。別にリュンヌは人と話すのが好きではないし、休みの日に出掛けることにも興味はない――少なくともリュンヌはそう思っている。だが、他人からそうしろと押しつけられるのは全く別の問題だ。不快だし、不安だ。
リュンヌは紅茶でトーストを流し込み、嫌な気分を打ち消そうとする。ざらついた感触が乾いた喉を流れていくが、味は分からなかった。
夜明けの白い空から、色のない光が部屋に差し込んでいる。
リュンヌは改めて部屋を見回した。無機質な造りの部屋だった。塔が円柱に近い形状をしているからだろう、窓がある壁は緩いカーブを描いている。部屋の中央、無地のタイル張りの床に、ベッドとテーブルがひとつずつ、ぽつんと置かれている。
「……殺風景だな」
誰に告げるでもなく、リュンヌは呟いた。その空間にはソレイユもいたが、彼に聞かせるための言葉ではなかった。独り言であることを知ってか知らずか、ソレイユは相槌の代わりに視線をそらした。ガラスのような静寂が、二人の間に満ちる。
リュンヌの前には相方の、無表情に近い顔があった。右耳に下げた、太陽が象られたイヤリングは10年近く経っても未だに色あせない。長い睫毛に縁取られた、赤みの強い瞳に白い部屋が映りこんでいる。
見慣れた横顔を眺めて、彼に流れていた10年の年月に思いを馳せた。
*
朝食を終え、リュンヌはベッドの傍に立てかけられていたブーツを履いた。
時刻は朝の6時。普段の起床時間と同じだ。ちょうど一日前、ソレイユを起こすために彼の部屋に向かったのを、まるで遠い昔のように思い出す。
今日は葬儀だ、とムシュ・ラムが言っていたのを思い出した。
「いくら塔の上に囚われているとはいえ、葬儀には参列させられるのだろうな」
リュンヌは呟く。
ソレイユも、そうだろうね、と同調した。
新都ラピスにおいて、葬儀は何よりも盛大な催しだ。特に、研修生ともなればその死は一層重く扱われ、それに比例して葬儀は大規模になる。リュンヌが以前に参列した、とある幹部の葬儀は3日間に渡り、千人以上の人間が参列したと聞いた。何よりも命の保持を第一とするからこそ、死した人へ捧げる式典は盛大になるのだ。
統一機関における上層部の人間は、葬儀に参列するときに、死者を悼む人々の代表者として供え物を渡す慣習になっている。リュンヌたちも、実情はどうあれ、幹部候補生である以上はその役目が与えられるはずだった。
「ぼくたちが表向きどのような立場として扱われるのかを把握する機会かもしれないね」
ともかく、しばらくは状況の把握に努めよう、とソレイユが言った。リュンヌも同感だった。扉がひとつあるだけの、無機質な壁に区切られた空間を見渡す。
「このフロアには他に誰かいるのか」
「いないと思うけど。今のうちに見に行こうか」
ソレイユが立ち上がるので、それに従う。無駄にできるほど時間はなかった。身を守るものや、身を隠す場所、いざという時に役立つことを知っておく必要があると思った。
2人とも、自分の置かれた危機的状況を既に理解していた。
自分たちの命はムシュ・ラムの手に握られている。昨日までのように、黙っていても何となく生きていられた時期は終わったのだ。――何か不利益なことをすれば、殺される可能性すらある。いや、それは新都の倫理を最悪の形で裏切る、言わずもがな禁止された行為だが、もはや統一機関の上層部に信頼を置けなかった。対外的には塔の上で仕事をしていることにされたまま、こっそり殺される可能性がどうしてないと言えるだろうか。
リュンヌはやや重さの残る頭を振った。この頭には、新都の根幹を揺るがせかねない価値観が記録されている。あの半年間で、エリザがリュンヌに語ったことの数々だ。
「自由な世界が、かつてあった、という」
記憶の中のエリザを思い出しながら、リュンヌは呟いた。夢の中で見た内容は、すでに自分自身の記憶として脳に定着しつつあった。幼い日の自分を俯瞰しながら、会話を再構築していく。
「その世界の話をしてもらった。新都の人間が忘れている、いや、隠されている真実だ」
「そうだね、ぼくも断片的には覚えている」
ソレイユが頷いた。だけど、と続ける。
「はは、ぼくはエリザの話の途中にしょっちゅう寝ていたから。だからほとんど記憶になくてさ、ルナが頼りなんだ」
彼は、戯けるように笑って見せた。リュンヌはその頼りなさに眉間を抑える。
「ソルが聞いていれば随分と話は違ったものを……」
「――分かってるよ、ルナ」
声のトーンが変化したのに気づき、リュンヌははっと顔を上げた。彼は空になった食器を片付けていて、今は背中しか見えないが、その声が僅かに震えたのが分かった。
「ぼくだってずっと後悔してきたんだ」
「……そうだよな」
その背中に向けて、悪かった、と謝罪を投げかけた。言葉にすることで却って、彼の苦しみを肯定してしまう気がしたが、それでも伝えようと思った。
*
部屋を出て、間取りを確認した。
塔にはぐるりと廊下が巡らされて、外側にはリュンヌがいたのと同じような造りの部屋がいくつも並んでいた。どの部屋も無人、殺風景で、調度品らしい調度品はなかった。そのうちひとつの部屋にはベッドと机があり、おそらくそこがソレイユに与えられた部屋なのだろう。そして塔の中央にある部屋は、ガラス張りの天井から朝陽が降りそそいでいる以外、昨晩のままだった。部屋の中央に鎮座する、時間を操るという装置は今は沈黙している。周囲に箱や小物が散乱しているが、ほとんどはガラクタだった。
部屋の床の形に少し違和感を覚え、柱の数を数えると7本だった。
部屋の形が正七角形なのだ。非対称なつくりの部屋に立っていると、眩暈を覚えそうになった。
「この柱、地名と人名が刻まれてる」
ソレイユが柱の元に屈み込んだので、リュンヌはそばに寄った。大理石とおぼしき柱の素材に、たしかに筆記体でなにか刻まれていた。
「それで7本か」
リュンヌは納得する。7といえば、新都ラピスにある街の数だ。統一機関のある中心部はラ・ロシェル、二人の出身地はバレンシア。他にも5つの地名があり、合計七つの地域から成り立っている。
「そうだね。でも、この名前は誰のだろう、ルナ、覚えはある?」
「……いや。知らない名前だ」
「『祖の言葉』のなかには?」
「出てこない」
7つの柱を見て回った。
地名はどれもラピスに実在するものだが、人の名前と思われる文字列にはどれも見覚えがなかった。『祖の言葉』は新都ラピスの成立時に記された、新都の理念を語るものだが、その中に具体的な人名は一切言及されていなかった。そういえば、名前のない『祖』とは一体どんな存在だったのだろう。気にかけたこともなかったが。
「ルナが知らないってことは、公にされていないってことかな」
ソレイユの言葉にはリュンヌに対する信頼が見えて、少し面映ゆい気分だった。偶然知らないだけかもしれないが、と予防線を張る。
「少なくとも私は目にしたことがない。それに、エリザの話にも出てこなかった」
「そこが不思議だね」
ソレイユがうーん、と首をひねる。
「こんなところに名前を刻まれるほどの人間が、無名とは思えない。恐らくは、新都の成立に貢献した人たち、っていうか、祖そのものなんじゃない? ってぼくは思う」
「一番ありそうだな。祖といえども、人なのだから」
「そう。それをエリザが知らない、ということがあるかな」
「……それについては、ひとつ考えがある」
部屋をぐるぐると歩き回っていたソレイユが、ぴたりと立ち止まって振り返る。どういうこと、と首をかしげる。
「ソルは、エリザはそもそもどこから来たのだと思う? 彼女は元々、どういう人間だったと考えている?」
「えっ。――そうだね、あれだけ一般市民が知らないような内情を知っているのだから、元々統一機関の幹部だったとかかな」
ソレイユの意見はもっともらしかった。
だが、それはリュンヌの記憶と決定的に反している。
「エリザは、自分には役割がないのだと言っていた」
「……じゃあ、ソヴァージュとか?」
ソレイユが控えめに反論する。
たしかに、計画的に生産された人間ではなく、人と人との間に産まれた
だが、それも違う、とリュンヌは首を振る。
「彼女はどう見積もっても二十代以上だった。辺境でひっそり暮らしているならともかく、新都の中心部で暮らしていてその歳まで摘発されないことはないだろう」
ソヴァージュの人間は、統一機関によって発見された時点で役割を与えられる。
「……それもそうか」
ソレイユが複雑な表情をして頷く。なにか含むところのありそうな言い方に少し引っ掛かったが、だから、とリュンヌは話を前に進めた。
「結論から言うとエリザはラピスの生まれではないと思う」
「ラピスの他にも人の暮らすコミュニティがある、ということ?」
「その可能性はあるけれど、そうじゃなくて」
リュンヌは部屋の中央に顔を向けた。向かい合った2枚の虹水晶によって構成される、時間を操るという装置がそこにある。目を見開いたソレイユが、もしかして、と声に出した。
「あの子、ティアみたいに過去から来たってこと?」
「そう考えると色々な情報がぴたりと合うんだ」
たしかに、とソレイユが呟く。
「これらの柱にある名前が新都の創造に関わるもので、エリザが新都成立前の時代から来た人間なら、彼女がこれらの名前を知らないのは当然だ」
エリザがリュンヌに聞かせた、彼女の故郷の物語は平和で、多少の苦難はありつつも楽しいものだった。均衡を保っていたその社会は何かによって崩され、その跡地にラピスが築かれたということになる。
「旧世界では役割がなかった、というのはどうやら真実のようだしね」
「やはり、そうなのだろうか」
仮説だったものが補強され、真実味を増していく。
何だか怖いな、とリュンヌは呟いた。
「知らないままの方が幸せなのでは、と考えてしまうな……」
「ルナらしくない」
ソレイユが微笑む。
「新都はぼくたちから、そして人々から真実を不当に奪っていたんだよ」
それはそうだが、とリュンヌが言い淀むと、ソレイユは「あのね、ルナ」と言ってリュンヌの肩に手を置いた。反射的に逸らそうとした視線は、まっすぐ見つめる瞳の輝きに捉えられる。
「真実を知ることを恐れるべきじゃない。むしろぼくたちがすべきなのは、人々に真実を知らせ、旧世界の自由を再生させることじゃないか?」
ガラス張りの天井から、日光が降りそそぐ。太陽を背に微笑む友人を見てようやく気づいた。リュンヌは、塔に囚われた身になったことを憂い、安全に生き抜く方法しか考えていなかった。だけどソレイユは、リュンヌよりずっと遠い目標を見ている。
いや、きっと、ずっと前からそうだったのだろう。
「10年前、ルナの記憶が奪われたときからずっと思っていた」
強い意志の宿る目が、リュンヌにまっすぐ向けられた。
そんなにまっすぐに見つめないでくれ、と思った。かつてリュンヌのなかに宿った、どんな怒りや哀しみも、彼の視線に比べれば些細なものだと思えた。それ程までに真剣で、混じりけのない視線が焼き付き、目の底を焦がすような錯覚すら覚えた。
「ぼくは、ラピスの人に真実を伝えたい」
太陽の色をして燃える彼の瞳と、さし込む黎明の陽光が混じり合ったとき。
そのいずれでもない第三の光が爆発的に広がった。
虹色を湛えた光が混じり合って真っ白になり、大波になって2人を飲み込む。その眩しさに思わず目を細めてしまう。目の前にいた友人の姿がかき消され、名前を呼ぶ微かな声を残して見えなくなった。
目を閉じたまま、前方を手で探ったが、いたはずの場所に彼はいない。
「ソル?」
そして目を開けると、リュンヌはただひとり、正七角形の部屋に佇んでいた。