第2話ー③
文字数 3,252文字
「ここからはお前に関係のある話をしよう」
「なんでしょうか?」
「お前に、縁談の話が来ている」
「は?」
心の底から感じた気持ちが思わず口から転がり出た。
さっきまで婚約者がいた身に、どうして縁談が来ているのだろうか。
意味がわからず言葉に困っている俺とは裏腹に、父はにこやかな表情を浮かべていた。
「お相手は筆頭与力を務める細井典文 様の娘、香乃 様だ」
相手を聞いて俺はやっと、今日起きたすべてのことを理解した気がした。
筆頭与力といえば、与力の中でもさらに限られた人数しか務めない上位職だ。
父はこの縁談を受けたくて、小澤家を捨てたのだ。
「香乃様は去年の花見で見かけたお前を気に入り、典文様にその話をされたらしい」
去年の花見と言われて、俺は友人から強引に誘われ、連れて行かれたことを思い出す。
与力の息子で幼馴染の甚五郎という奴がいる。そいつが隅田川で花見船を借りたから、一緒に来いとしつこかったのだ。
金がないと断ったのにもかかわらず学舎の出口で待ち伏せされ、一緒に行く悪友たちに両腕を掴まれ、引きずるように船に乗せられたのだった。
甚五郎たちは桜よりも酒に夢中で騒いでいたが、俺はそういう騒ぎ方が好きじゃない。正直金よりもそちらのほうが、断った理由としては大きいくらいだった。
俺は宴席から離れて船の開け放たれた窓枠に腰掛け、二刻くらいは隅田川の土手に咲く桜を眺めていたと思う。
あの日、あの船の中で一番花見をしていたのは、間違いなく俺だ。
そんな逃げるように花見をしていた俺の姿を、その筆頭与力の娘が見かけたということなのだろうか。
「見かけたときお前の名前がわからなかったらしくてな。人づてで探しに探し、やっとこの前、私にまで話が届いたというわけだ」
「私が花見をしたことを父上に話したことがあったでしょうか?」
思えば俺が花見をしたことをこの男に話した覚えはない。なのになぜ自分の息子だと確信し、縁談を進めているのか、不思議に思った。もし人違いなのに「私の息子です」と嘘を着いていたら、それこそあとで大事になるに違いがいない。
「花見をした日、母様に土産と言って船で出された折詰を渡しただろう?」
なるほど、と思った。
花見をした日、酒飲みたちに絡まれるのが面倒だからと、船で出された料理には手をつけず外を見ていた。それを見た給仕は俺が船酔いしたかと思ったらしく、用意されていた折詰弁当をそのまま持たせてくれたのだ。
その折箱か風呂敷あたりが、父の目に入ったのかもしれない。
同心としての勘の怪しさが、密かに息子の耳に届くほどの父ではあるが、普段から宴や付け届けをしている分この手のものには詳しく、勘もはたらくのだろう。
その力を同心のお役目にもう少し使えば、悪評が息子の耳にまで届くことはなかったんじゃないかと思う。
「しかし、やっとお前だと分かったのにお前には許嫁がいた。だから香乃様もひどく落ち込んだそうだ。それで先日細井様に呼ばれ、直接『許嫁はいるのか?』と尋ねられたというわけだ」
細井様が言ったという「許嫁はいるのか?」は、おそらく「その許嫁をどうにかできないのか?」という意味を兼ねていたのだと思う。もし本当に言っていたら、だが。
「だから凛殿との婚約を破棄したと」
「私の一存ではないぞ? 細井様のたっての希望でもある。
どの相手にも首を縦に振らない娘が、やっと夫婦になってもいい男を見つけたというのだから、叶えたいのは親心というものだ」
「……はぁ」
それを言ったら、娘が嫁いでから苦労しないようにと何年もの間、我が家に金を渡していた小澤様も、相当な親心だと思うのだが。
それに細井様はお会いしたことがないので、こういうことを言うような方なのかわからない。
だから、この話がどこまで本当かも想像できなかった。
いずれにせよ、この縁談を成功させるため、小澤家をあのように追い払ったことだけは確かだ。
「小澤のことも片付いたし、急いで細井様に文を差し上げよう。こちらはすぐにでも、香乃様をお迎えすることができるとな」
何年も世話になっていた相手に言いがかりをつけて追い払ったにも関わらず、まるでちょっとした用事が片付いた、みたいないな言い方が気に障る。
普段は苛立ちや怒りをあまり感じないほうだと思っていたのに、今日何度目の苛立ちだろう。
「筆頭与力の娘御にみそめられるとは、たいしたものだ。よくやった。
これで与力になる日も、そう遠くはないだろう。娘の嫁ぎ先を同心の家のままにしておいたら、娘が可哀想だからな」
我が家の出世話ではあるが、とても素直に喜べそうにはなかった。
本当にこのまま、この男の思う通りになってしまうのだろうか。
今まで我が家は、この男の野望のためにかなり切り詰めた生活を送ってきた。俺との結婚を担保に、長い間、金も受け取っていた。
その借りを全て踏み倒し、筆頭与力の娘を我が家に迎え、ゆくゆくは今よりも上の地位につくなんて、許されるのだろうか。
「そんなにうまくいくでしょうか?」
「なに……?」
「因果応報と言います。人を裏切れば裏切られ、人を軽んじれば軽んじられるのです。それに仮に細井様の娘御が我が家に嫁がれたとしても、だから与力になれるというのは、少し話が――」
「黙れ!」
父は烈火の如く怒り出した。
「お前に何がわかる! これまでの私の苦労を知らないからそんなことが言えるのだ!!
金を使い、上の人間の顔色を伺い続けた。私の努力を知らないお前に何がわかる!!」
しまった。
この男の非道な行いをなじったところで無意味なことはわかっていた。そしてこうやって烈火の如く怒ることも。
しかしあれだけの不義理を不義理とも思わず、あまりに身勝手な皮算用をするこの男に、口を出さずにはいられなかったのだ。
この怒りが続くと、母にまで怒りの矛先が向かいかねない。数年前、似たように意見して父を怒らせたとき、翌日母が部屋から出てこなかったことがあった。
少し熱があるので寝ていると言っていたが、後々それが父に殴られて腫れた顔が落ち着くまで、部屋にこもる口実だとわかったのだ。
世話をする女中が母のいる部屋に入るとき、障子の隙間から見えた母の顔は赤く腫れ、口の端も切れて赤黒くなっていた。
表情は心を失いかけている人のような、ぼんやりとした顔だった。
その顔を見る限り、母が殴られるのはそのとき始まったことではないのだろう。いつも優しい笑みを浮かべる母と同じ人とは思えないくらい、むしろ人形ではないかと思うくらいに生気がなかった。
父に楯突くと、母に怒りが向かってしまう。殴られて、母にまたあんな顔をしてしまうことになる。
父に逆らっては、いけない。
それが強く記憶に焼き付けられた出来事だった。
俺は父と距離を取ると、姿勢を正して頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
あの時のようなことが起きないように、俺は父に頭を下げた。これは母のための謝罪で、この男へのものではない。
しかし俺が形だけでも頭を下げたことで、父は少し気をよくしたようだった。
「わかってくれれば良いのだ。……しかし、お前が言うのももっともかもしれんな」
その言葉にどう返答するか困った。
そうだろうと言えばまた怒り出すかもしれないし、そんなことはないと言えばさっきまでの言葉と矛盾する。
黙って顔だけ上がると、すっかり機嫌の直った父が思案げに片眉を寄せていた。
「小澤のことを軽んじるのはいけないな」
「そうですよね、ですから――」
「――更に手を打たねばならんかもしれんな。小澤が何か仕返ししてきて、こちらに害が及ばぬように」
父がよくない顔をした。
嫌な予感がする。
しかしここで何か言えば、今さっき起きたことの繰り返しになるだろう。
小澤様と凛殿か、それとも母か。
思い浮かんだのは、母の顔だった。
――その数日後、ある瓦版が江戸の街で話題になった。
とある同心の娘で許嫁のいる女が、町人と深い仲になり、子を孕んだと。
「なんでしょうか?」
「お前に、縁談の話が来ている」
「は?」
心の底から感じた気持ちが思わず口から転がり出た。
さっきまで婚約者がいた身に、どうして縁談が来ているのだろうか。
意味がわからず言葉に困っている俺とは裏腹に、父はにこやかな表情を浮かべていた。
「お相手は筆頭与力を務める
相手を聞いて俺はやっと、今日起きたすべてのことを理解した気がした。
筆頭与力といえば、与力の中でもさらに限られた人数しか務めない上位職だ。
父はこの縁談を受けたくて、小澤家を捨てたのだ。
「香乃様は去年の花見で見かけたお前を気に入り、典文様にその話をされたらしい」
去年の花見と言われて、俺は友人から強引に誘われ、連れて行かれたことを思い出す。
与力の息子で幼馴染の甚五郎という奴がいる。そいつが隅田川で花見船を借りたから、一緒に来いとしつこかったのだ。
金がないと断ったのにもかかわらず学舎の出口で待ち伏せされ、一緒に行く悪友たちに両腕を掴まれ、引きずるように船に乗せられたのだった。
甚五郎たちは桜よりも酒に夢中で騒いでいたが、俺はそういう騒ぎ方が好きじゃない。正直金よりもそちらのほうが、断った理由としては大きいくらいだった。
俺は宴席から離れて船の開け放たれた窓枠に腰掛け、二刻くらいは隅田川の土手に咲く桜を眺めていたと思う。
あの日、あの船の中で一番花見をしていたのは、間違いなく俺だ。
そんな逃げるように花見をしていた俺の姿を、その筆頭与力の娘が見かけたということなのだろうか。
「見かけたときお前の名前がわからなかったらしくてな。人づてで探しに探し、やっとこの前、私にまで話が届いたというわけだ」
「私が花見をしたことを父上に話したことがあったでしょうか?」
思えば俺が花見をしたことをこの男に話した覚えはない。なのになぜ自分の息子だと確信し、縁談を進めているのか、不思議に思った。もし人違いなのに「私の息子です」と嘘を着いていたら、それこそあとで大事になるに違いがいない。
「花見をした日、母様に土産と言って船で出された折詰を渡しただろう?」
なるほど、と思った。
花見をした日、酒飲みたちに絡まれるのが面倒だからと、船で出された料理には手をつけず外を見ていた。それを見た給仕は俺が船酔いしたかと思ったらしく、用意されていた折詰弁当をそのまま持たせてくれたのだ。
その折箱か風呂敷あたりが、父の目に入ったのかもしれない。
同心としての勘の怪しさが、密かに息子の耳に届くほどの父ではあるが、普段から宴や付け届けをしている分この手のものには詳しく、勘もはたらくのだろう。
その力を同心のお役目にもう少し使えば、悪評が息子の耳にまで届くことはなかったんじゃないかと思う。
「しかし、やっとお前だと分かったのにお前には許嫁がいた。だから香乃様もひどく落ち込んだそうだ。それで先日細井様に呼ばれ、直接『許嫁はいるのか?』と尋ねられたというわけだ」
細井様が言ったという「許嫁はいるのか?」は、おそらく「その許嫁をどうにかできないのか?」という意味を兼ねていたのだと思う。もし本当に言っていたら、だが。
「だから凛殿との婚約を破棄したと」
「私の一存ではないぞ? 細井様のたっての希望でもある。
どの相手にも首を縦に振らない娘が、やっと夫婦になってもいい男を見つけたというのだから、叶えたいのは親心というものだ」
「……はぁ」
それを言ったら、娘が嫁いでから苦労しないようにと何年もの間、我が家に金を渡していた小澤様も、相当な親心だと思うのだが。
それに細井様はお会いしたことがないので、こういうことを言うような方なのかわからない。
だから、この話がどこまで本当かも想像できなかった。
いずれにせよ、この縁談を成功させるため、小澤家をあのように追い払ったことだけは確かだ。
「小澤のことも片付いたし、急いで細井様に文を差し上げよう。こちらはすぐにでも、香乃様をお迎えすることができるとな」
何年も世話になっていた相手に言いがかりをつけて追い払ったにも関わらず、まるでちょっとした用事が片付いた、みたいないな言い方が気に障る。
普段は苛立ちや怒りをあまり感じないほうだと思っていたのに、今日何度目の苛立ちだろう。
「筆頭与力の娘御にみそめられるとは、たいしたものだ。よくやった。
これで与力になる日も、そう遠くはないだろう。娘の嫁ぎ先を同心の家のままにしておいたら、娘が可哀想だからな」
我が家の出世話ではあるが、とても素直に喜べそうにはなかった。
本当にこのまま、この男の思う通りになってしまうのだろうか。
今まで我が家は、この男の野望のためにかなり切り詰めた生活を送ってきた。俺との結婚を担保に、長い間、金も受け取っていた。
その借りを全て踏み倒し、筆頭与力の娘を我が家に迎え、ゆくゆくは今よりも上の地位につくなんて、許されるのだろうか。
「そんなにうまくいくでしょうか?」
「なに……?」
「因果応報と言います。人を裏切れば裏切られ、人を軽んじれば軽んじられるのです。それに仮に細井様の娘御が我が家に嫁がれたとしても、だから与力になれるというのは、少し話が――」
「黙れ!」
父は烈火の如く怒り出した。
「お前に何がわかる! これまでの私の苦労を知らないからそんなことが言えるのだ!!
金を使い、上の人間の顔色を伺い続けた。私の努力を知らないお前に何がわかる!!」
しまった。
この男の非道な行いをなじったところで無意味なことはわかっていた。そしてこうやって烈火の如く怒ることも。
しかしあれだけの不義理を不義理とも思わず、あまりに身勝手な皮算用をするこの男に、口を出さずにはいられなかったのだ。
この怒りが続くと、母にまで怒りの矛先が向かいかねない。数年前、似たように意見して父を怒らせたとき、翌日母が部屋から出てこなかったことがあった。
少し熱があるので寝ていると言っていたが、後々それが父に殴られて腫れた顔が落ち着くまで、部屋にこもる口実だとわかったのだ。
世話をする女中が母のいる部屋に入るとき、障子の隙間から見えた母の顔は赤く腫れ、口の端も切れて赤黒くなっていた。
表情は心を失いかけている人のような、ぼんやりとした顔だった。
その顔を見る限り、母が殴られるのはそのとき始まったことではないのだろう。いつも優しい笑みを浮かべる母と同じ人とは思えないくらい、むしろ人形ではないかと思うくらいに生気がなかった。
父に楯突くと、母に怒りが向かってしまう。殴られて、母にまたあんな顔をしてしまうことになる。
父に逆らっては、いけない。
それが強く記憶に焼き付けられた出来事だった。
俺は父と距離を取ると、姿勢を正して頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
あの時のようなことが起きないように、俺は父に頭を下げた。これは母のための謝罪で、この男へのものではない。
しかし俺が形だけでも頭を下げたことで、父は少し気をよくしたようだった。
「わかってくれれば良いのだ。……しかし、お前が言うのももっともかもしれんな」
その言葉にどう返答するか困った。
そうだろうと言えばまた怒り出すかもしれないし、そんなことはないと言えばさっきまでの言葉と矛盾する。
黙って顔だけ上がると、すっかり機嫌の直った父が思案げに片眉を寄せていた。
「小澤のことを軽んじるのはいけないな」
「そうですよね、ですから――」
「――更に手を打たねばならんかもしれんな。小澤が何か仕返ししてきて、こちらに害が及ばぬように」
父がよくない顔をした。
嫌な予感がする。
しかしここで何か言えば、今さっき起きたことの繰り返しになるだろう。
小澤様と凛殿か、それとも母か。
思い浮かんだのは、母の顔だった。
――その数日後、ある瓦版が江戸の街で話題になった。
とある同心の娘で許嫁のいる女が、町人と深い仲になり、子を孕んだと。