第2話ー②

文字数 2,746文字

「婚約を取り止めるだけなら、私もいらなかったのでは?」
 小澤様と凛殿が帰ったあと、父に話を切り出した。

「もし小澤やその娘が逆上したときに、人が多いに越したことはないからな」
 どうやら俺は、父の護衛のために呼ばれたらしい。
 いずれ縁をつなぐからと金を渡していた娘の嫁ぎ先から破談を言い渡されたら、仏でもない限り普通は怒るだろう。小澤様の堪忍袋の強靭さに尊敬しかなかった。
 それに、普段から使い走りばかり使ってほとんど自分で動かない父より、小澤様のほうが剣術などの腕もたしかそうにも見えた。見る限り穏やかそうでこのままあと20年ほど歳を取れば好々爺になりそうな雰囲気だが、実際はかなり腕も立つし切れ者だろう。前に道場で似た雰囲気の人に挑んで、痛い目にあったことがある。並々ならぬ剣術の腕と、誰も斬れなそうな穏やかな雰囲気を同時に持つ人はいるのだと知った。あの方もおそらくそれだろう。
 そしてそれとは逆に、立派な刀を持ちいつでも斬りかかることができそうな雰囲気を出しつつも、まったく腕の立たない人間もいる。床の間に置かれた、妙に派手な装飾が施された鍔のついた、父の刀を盗み見た。
 一見立派な刀そうに見えるが、立派なのは鍔と柄ばかりで、中は刀ではなく竹光なのを知っている。本当の刀の刃は錆びついたまま、床の間の脇の棚に隠されている。金がなくて刀鍛冶に手入れを頼めず、頼めたとてそれをまともに扱える腕はない。
 俺は父がかつて世話になった道場に行っていて、父と同門だった方が今は師範をしている。俺が道場の中でも上位の実力になったとき、師範から「あいつの息子が、こんなに真面目に稽古をして腕をあげるとは」と褒められ、すべてを察した。
 同心は事件や犯人を追いかける仕事ではあるが、基本的には捕縛して奉行所で沙汰を仰ぐから、急に人を斬るようなことはしない。
 だから相当なことがない限り、父の腕が試されることがないのだ。なにより常に岡引きを連れているから、荒事はその者たちに任せきりなのだろう。
 戦国の世が終わってから久しく、今はもう武士にとって刀の腕がすべてではない。しかしそれでもなお、武士の誇りを守るため鍛錬を怠らないというのが道理だと思うのだが。俺が道場に通うようになった頃から今まで、父が木刀を振る姿すら見たことがない。
 父の剣の腕がどうだろうと知ったことではないが、この人にとって『武士』とはなんなのだろう、とは思う。


「小澤様から金をもらってきていたのですね」
 そして、ずっと聞きたかったことを尋ねることにした。
 凛殿の姿に気を取られて、その場ではなにも言えなかったが、驚きの事実ではあった。小澤様たちがいないところなら、少しは申し訳無さそうにするかと思っていた。
「ああ。毎月どなたかをもてなし、少し付け届けをしたら消えるくらいのたいしたことのない額だ」
 使い道など知ったことではない。
「それを許嫁として決まってから今まで、ずっとですか?」
「我が家が上手く立ち回れば、あいつの娘がより良い家に嫁ぐことになる。そのために使っていたのだから、問題あるまい」
 詭弁だ。なにより意味不明だ。こちらの都合で金を借りた挙げ句、あんないい加減な破談理由で婚約を破棄しておいて、俺がまだ信じていると思っているのだろうか。そんなわけがない。
「婚約を決めた頃、すぐにまとまった金を借りることができたら、株を買うことができたのだが。小澤もそこまでは出せんと言われてな。上の機嫌を伺ってその時を待つことしかできなくなってしまった」
 父は舌打ちをしながら不機嫌に言う。しっかり内容を耳に入れたはずなのに、意味がわからなかった。

 「株」とは「与力株」だ。
 そして父が任されている「定町廻り同心」は、同心のお役目の中では花形だと言われている。
 しかし父は野心が強く、どうにかして上のお役目である「与力」になりたいと考えているのは、以前から聞かされていた。
 しかしそれはそんなに簡単なことじゃない。同心は南町と北町の奉行所をあわせて百人ほどいるが、与力となるとその半数しかいない。そしてそれを任されている家も、我が家と同じように代々お役目を賜っているところが多いから、同心から与力になるというのは、めったに起こることではないのだ。
 しかし稀に養子や跡継ぎに恵まれず役職を返上したり、汚職で処罰をされて「与力株」が浮遊したりすることがあるらしい。
 生活苦から与力が「与力株」をよそに売ることもあるが、我が家にそれが買えるほどの金はない。だから父は、浮遊する与力株を割り当てられる機会を求めて、奉行所に関わるお偉方の機嫌を取ろうと躍起になっているらしかった。
 しかしそんな話はそうよく起きることではない。
 だから我が家は何年にも渡って、付け届けやご機嫌伺いのために、金を失い続ける日々を過ごしていた。
 父だけどこに呼ばれても恥をかかない立派な着物を着て、お偉方が来ることはない我が家の客間はの畳は、無惨なほどに荒れ果てている。
 それでも父は目上の人間に媚びへつらい、料理茶屋で宴を開き、付け届けや贈り物をする。
 生活はひっ迫しているのに金はどこから出ているのかとずっと思っていたが、今日の早野様との話を聞いて、やっとそれが分かったのだった。
 許嫁の家から金を借り、それを自分の野心のために使う。しかもそれを返すことなく、婚約も解消していた。もともと金にがめついのは知っていたが、こんなに非道な人間だとは思わず、怒りに心が乱れた。
 今までの父の動きも理解できないことばかりだったが、今回はほとほと呆れ果てた。
 こんな人間が、町の治安を守る「同心」とは笑わせる。
「ずっと金の出どころを知りたかったので、ようやく知ることができて嬉しいです」
 父を激昂させない程度に嫌味を言うと、父はせせら笑った。
「まだ子どものお前には、こういう駆け引きはまだわからんだろうな」
 あれは完全なる一方的な言いがかりであり、脅しだ。
 駆け引きの経験はあまりないし、自分でも得意とは言えないが、さっき見たあれを駆け引きとは言わないことはわかる。
 だから去り際に、今までの返済を求めない代わりに、これ以上この件を口外しないようにと小澤様に釘を刺されたのだ。あれは父に怯えたわけでもごまかしたいわけでもなく、凛殿を守るため、そう言ったに違いない。
 下手したら父よりも状況を理解できているが、長い間、見ざる、聞かざる、言わざる、で過ごしてきた自分にはとっさに言い返せるだけの気力はなくて、じっと目だけで反抗の意を唱えた。

 そんな思いを少しも察することなく、父は急に表情を明るくした。
「ここからはお前に関係のある話をしよう」
「なんでしょうか?」
「お前に、縁談の話が来ている」
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登場人物紹介

小澤凛(こさわりん)

南町奉行所の同心を父に持つ武家の娘。

小澤彦右衛門(こさわひこえもん)

南町奉行所の同心。

早野清之助(はやのせいのすけ)

南町奉行の同心を父に持つ武家の長男。

早野平三郎(はやのへいざぶろう)

南町奉行所の同心。

小澤夏生(こさわなつき)

凛の母。お夏とも呼ばれている。

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