第1話ー⑤
文字数 2,973文字
「貴女がすべきことは尼寺へ行くことのみ。今すぐ支度なさい」
決定事項のように告げられ、私は言葉を失うしかなかった。すぐに言葉が出てこなくなる経験を、私はここ数日で何度経験しているだろう。そう考えてしまうくらい、身に覚えのある感覚だった。
この数日で、私の人生は大きく変わっている。
だいぶ昔に決められていた婚約が、身に覚えのない話で解消になった。その数日後に先日言われた根も葉もない噂に、さらに尾ひれをつけられて、瓦版を使って広められてしまった。
それを悲観した母親に今、さっさと尼寺へ行けと言われている。
これまでのことをあらためて整理しても、やはり受け止められそうにない。
私はどうしてこんな目に遭っているのだろう。何がいけなかったのか、わかる人がいるなら教えてほしいと強く思った。
呆然とする私をよそに、父様が珍しく母様に強い口調で反論した。
「何を言っているんだ。ほとぼりが冷めれば凛が嫁入りすることだってできる。それなのに噂が立っただけで尼寺なんて、ありえん」
「これだけ悪い噂が立った娘を、誰が嫁にもらうのです。後妻にだっていりませんよ」
「お夏、自分の娘にその言い方はないだろう」
「それを言ったら、貴方が持ってきた凛の嫁ぎ先があの家だったからこんな事になったのでしょう。これ以上この子が恥をかかないために、一刻も早くここからいなくなるべきです」
「そんなことしたら噂が本当だと認めたのと同じだろう」
「では同じように瓦版で噂は嘘だと伝えさせますか? きっと火に油を注ぐことになるでしょうね。そんな無様なことを武家の我々がすべきこととお思いですか?」
すべきでないのは明白と言わんばかりに、母様は言った。父様は奥歯を噛み締めて黙り込んだ。
「こういう噂が立つと普通、多くの人はこう思うのです。『火のないところには煙は立たない。きっと多かれ少なかれ何かあったのだ』と。
早野家が違うと言うか、もっと上の方が味方でもしない限り、この噂は七十五日どころか一生この子につきまとうでしょう。そうして婚期を逃し、女の価値もなくなって、街へ出れば後ろ指をさされて生きるしかなくなります。
そんなことになるなら潔く尼寺へ行くべきですよ。そうすれば凛も見世物になりません。どこにも嫁げぬ娘を一生この家に居候させるより、仏門に入れたほうが小澤家の体面もいいでしょう。
貴方も稼ぐことばかり考えていないで、武家らしい振る舞いについてと我が家が世間様からどう見えるか、もう少し真剣に考えるべきです」
母様は父様への侮蔑の言葉を交えながら一息にいい切った。
まるで数年先まで行って、すべてを見届けて帰ってきたかのような話しぶりだなと思った。この話し方をされると事実のように聞こえてしまって、危うく信じそうになるけれど、今話たことは、どれ一つとして起きていない。
絶対に起きないとは言えないけれど、絶対に起きるとも限らない。他にも私の人生のやりようがあるはず。そう思い直して、折れかけた心を持ち直そうとした。
「お前はまたそうやって、自分の子を追い込むのか……」
父様は珍しく表情に怒りが滲んでいた。
責めるような言葉に、不愉快と言わんばかりに母様は眉を吊り上げる。
「何を言っているのですか。あの子がこの家に帰ってこなくなったのは、貴方のせいでしょう」
実は私には、六つ歳の離れた兄がいる。その兄様にも母様はこの物言いで厳しく振る舞っていた。
詳しくはわからないけれど、かなり小さい頃から「小澤家の跡取りとして」と剣術と学問を学ばせ、食事と寝るとき以外は学問をさせるほどの徹底ぶりだったらしい。
母様が兄様を褒めていたところはほとんど見たことがなく、「そんな事もできないのですか」と言っていたのを、そして言われるたびに表情を失っていく兄様を、幼心によく覚えている。
兄様は私には優しくて、母の目を盗んでかわいがってもらっていた記憶のほうが多い。そういうときの兄様は私が悪いことをしない限りほとんどずっと笑顔だった。けれどその笑顔も、だんだんと薄くどこ無理しているように感じられるようになって、ぼんやりとしている時間が増えていった。
そういえば、この前お会いした元許嫁の清之助様もぼんやりとしていた。
でも兄様のあの虚ろな目とは、少し雰囲気が違った。あの自分の結婚や許嫁の私への無関心さや他人事のような振る舞いは、兄様のように長年強く言われ自分というものを否定され続けてきたのとはまた違うような気がする。
父様を侮辱する早野様に苛立ったとき、私に向けた驚くような視線。部屋を後にするときにこちらを見ようとした清之助様は、一体なにを思っていたのだろう。
兄様ほど表情がない感じではなかったけれど、何かを諦めている感じはあった気がする。もう夫婦になるわけではないし、会うことすらないだろうから真相はわからない。あちらはあちらで、きっと何か事情があるのだろう。
兄様の方は四年前のある日、遊学の旅に出て、それ以来すっかり家に寄り付かなくなってしまった。
もう江戸には戻っていて、父様とはときどき会っているようだけれど、私は奉公で忙しくしているのもあって久しく兄様のお顔を見ていない。
父様は母様の接し方を見て、兄様を守るために家と距離を置くことを許したのだと思う。けれど母様は自分のやり方を「しつけ」と信じて疑わず、父様の気遣いを「甘やかし」と捉えているようだった。
兄様を甘やかさないようにと、夫婦の部屋から母様の怒る声が聞こえてくる時期もあった。
思えば、私は物心がついたときから今日まで、母様と父様が家の中で仲良くしていたところを見たことがないかもしれない。私が物心ついた頃には、すでに夫婦の仲は冷え切っていた。
私は娘だから、母様からはできるだけ良いお家に嫁入りすることしか期待されていなかった。
だから読み書きなどの手習いやお稽古ごとはさせられていたけれど、兄様のように心を追い込まれるほどなにかをさせられたことはなかった。
花嫁修業を兼ねて奉公へ行くようになってからは、この家にいない時間も増えたから、特に気に病むこともなく育つことができたのだと思う。そう思うと、幼いうちに許嫁が決まったことは悪いことではなかったのかもしれない。
母様にとっては”わずか”な期待すら応えられなくなった私は、今や”いらないもの”でしかないらしい。だから母様は小澤家の体面のために、さっさと尼寺へ行けと私に言っているのだ。
母様の言いたいことは理解できる。自分は小澤家のためにいるのであって、小澤家の人間として役に立たなければならず、そうでない者は家にいらない。たとえそれが自分の子どもだとしても。それがはっきりと理解できてしまって、ただただ悲しかった。
その言葉は私が慕う奥方様よりも冷たく辛辣で、実の母の言葉であることを忘れた方がむしろ苦しくないような気がした。もしかしたら、母様の中では私はもう自分の娘ではないのかもしれない。
でもそれならそれでいい。この家にいらないというのなら、私がこの家の人間でなくなればいいのだから。
「……わかりました。私は、この家を出ていきます」
「凛! お夏の言葉なんて気にするな。尼寺には行かなくていい」
「私もそのつもりです。この家を出て、一人で暮らします」
決定事項のように告げられ、私は言葉を失うしかなかった。すぐに言葉が出てこなくなる経験を、私はここ数日で何度経験しているだろう。そう考えてしまうくらい、身に覚えのある感覚だった。
この数日で、私の人生は大きく変わっている。
だいぶ昔に決められていた婚約が、身に覚えのない話で解消になった。その数日後に先日言われた根も葉もない噂に、さらに尾ひれをつけられて、瓦版を使って広められてしまった。
それを悲観した母親に今、さっさと尼寺へ行けと言われている。
これまでのことをあらためて整理しても、やはり受け止められそうにない。
私はどうしてこんな目に遭っているのだろう。何がいけなかったのか、わかる人がいるなら教えてほしいと強く思った。
呆然とする私をよそに、父様が珍しく母様に強い口調で反論した。
「何を言っているんだ。ほとぼりが冷めれば凛が嫁入りすることだってできる。それなのに噂が立っただけで尼寺なんて、ありえん」
「これだけ悪い噂が立った娘を、誰が嫁にもらうのです。後妻にだっていりませんよ」
「お夏、自分の娘にその言い方はないだろう」
「それを言ったら、貴方が持ってきた凛の嫁ぎ先があの家だったからこんな事になったのでしょう。これ以上この子が恥をかかないために、一刻も早くここからいなくなるべきです」
「そんなことしたら噂が本当だと認めたのと同じだろう」
「では同じように瓦版で噂は嘘だと伝えさせますか? きっと火に油を注ぐことになるでしょうね。そんな無様なことを武家の我々がすべきこととお思いですか?」
すべきでないのは明白と言わんばかりに、母様は言った。父様は奥歯を噛み締めて黙り込んだ。
「こういう噂が立つと普通、多くの人はこう思うのです。『火のないところには煙は立たない。きっと多かれ少なかれ何かあったのだ』と。
早野家が違うと言うか、もっと上の方が味方でもしない限り、この噂は七十五日どころか一生この子につきまとうでしょう。そうして婚期を逃し、女の価値もなくなって、街へ出れば後ろ指をさされて生きるしかなくなります。
そんなことになるなら潔く尼寺へ行くべきですよ。そうすれば凛も見世物になりません。どこにも嫁げぬ娘を一生この家に居候させるより、仏門に入れたほうが小澤家の体面もいいでしょう。
貴方も稼ぐことばかり考えていないで、武家らしい振る舞いについてと我が家が世間様からどう見えるか、もう少し真剣に考えるべきです」
母様は父様への侮蔑の言葉を交えながら一息にいい切った。
まるで数年先まで行って、すべてを見届けて帰ってきたかのような話しぶりだなと思った。この話し方をされると事実のように聞こえてしまって、危うく信じそうになるけれど、今話たことは、どれ一つとして起きていない。
絶対に起きないとは言えないけれど、絶対に起きるとも限らない。他にも私の人生のやりようがあるはず。そう思い直して、折れかけた心を持ち直そうとした。
「お前はまたそうやって、自分の子を追い込むのか……」
父様は珍しく表情に怒りが滲んでいた。
責めるような言葉に、不愉快と言わんばかりに母様は眉を吊り上げる。
「何を言っているのですか。あの子がこの家に帰ってこなくなったのは、貴方のせいでしょう」
実は私には、六つ歳の離れた兄がいる。その兄様にも母様はこの物言いで厳しく振る舞っていた。
詳しくはわからないけれど、かなり小さい頃から「小澤家の跡取りとして」と剣術と学問を学ばせ、食事と寝るとき以外は学問をさせるほどの徹底ぶりだったらしい。
母様が兄様を褒めていたところはほとんど見たことがなく、「そんな事もできないのですか」と言っていたのを、そして言われるたびに表情を失っていく兄様を、幼心によく覚えている。
兄様は私には優しくて、母の目を盗んでかわいがってもらっていた記憶のほうが多い。そういうときの兄様は私が悪いことをしない限りほとんどずっと笑顔だった。けれどその笑顔も、だんだんと薄くどこ無理しているように感じられるようになって、ぼんやりとしている時間が増えていった。
そういえば、この前お会いした元許嫁の清之助様もぼんやりとしていた。
でも兄様のあの虚ろな目とは、少し雰囲気が違った。あの自分の結婚や許嫁の私への無関心さや他人事のような振る舞いは、兄様のように長年強く言われ自分というものを否定され続けてきたのとはまた違うような気がする。
父様を侮辱する早野様に苛立ったとき、私に向けた驚くような視線。部屋を後にするときにこちらを見ようとした清之助様は、一体なにを思っていたのだろう。
兄様ほど表情がない感じではなかったけれど、何かを諦めている感じはあった気がする。もう夫婦になるわけではないし、会うことすらないだろうから真相はわからない。あちらはあちらで、きっと何か事情があるのだろう。
兄様の方は四年前のある日、遊学の旅に出て、それ以来すっかり家に寄り付かなくなってしまった。
もう江戸には戻っていて、父様とはときどき会っているようだけれど、私は奉公で忙しくしているのもあって久しく兄様のお顔を見ていない。
父様は母様の接し方を見て、兄様を守るために家と距離を置くことを許したのだと思う。けれど母様は自分のやり方を「しつけ」と信じて疑わず、父様の気遣いを「甘やかし」と捉えているようだった。
兄様を甘やかさないようにと、夫婦の部屋から母様の怒る声が聞こえてくる時期もあった。
思えば、私は物心がついたときから今日まで、母様と父様が家の中で仲良くしていたところを見たことがないかもしれない。私が物心ついた頃には、すでに夫婦の仲は冷え切っていた。
私は娘だから、母様からはできるだけ良いお家に嫁入りすることしか期待されていなかった。
だから読み書きなどの手習いやお稽古ごとはさせられていたけれど、兄様のように心を追い込まれるほどなにかをさせられたことはなかった。
花嫁修業を兼ねて奉公へ行くようになってからは、この家にいない時間も増えたから、特に気に病むこともなく育つことができたのだと思う。そう思うと、幼いうちに許嫁が決まったことは悪いことではなかったのかもしれない。
母様にとっては”わずか”な期待すら応えられなくなった私は、今や”いらないもの”でしかないらしい。だから母様は小澤家の体面のために、さっさと尼寺へ行けと私に言っているのだ。
母様の言いたいことは理解できる。自分は小澤家のためにいるのであって、小澤家の人間として役に立たなければならず、そうでない者は家にいらない。たとえそれが自分の子どもだとしても。それがはっきりと理解できてしまって、ただただ悲しかった。
その言葉は私が慕う奥方様よりも冷たく辛辣で、実の母の言葉であることを忘れた方がむしろ苦しくないような気がした。もしかしたら、母様の中では私はもう自分の娘ではないのかもしれない。
でもそれならそれでいい。この家にいらないというのなら、私がこの家の人間でなくなればいいのだから。
「……わかりました。私は、この家を出ていきます」
「凛! お夏の言葉なんて気にするな。尼寺には行かなくていい」
「私もそのつもりです。この家を出て、一人で暮らします」