第8話 木屋瀬宿の舟庄屋梅本家 長崎街道

文字数 1,211文字

 木屋瀬宿を訪ねた。梅本家は昔、造り酒屋を行っていた。ご主人は中学の先生をされリタイヤ。江戸時代の様式の家のまま奥様と住まれている。家の片側は土間が裏まで続き、片面は住居になっている。二階はご主人の”男の遊び場”書斎だそうだ。木屋瀬の水害について江戸からの資料を調べてられている。私は「テレビで幕府と藩は農民の収穫した米を全部供出させ、農民は稗や粟やキビを食べていたイメージがあるが本当ですか」と尋ねた。「そんなことはない」と家に上がり資料を持って来た。
 水害について図書館で古文書を読み、関係文書をコピーし、解読していた。「ここにあるように、1700年の異実帳には、木屋瀬は水害で稲が育たず、秋には全く米の収穫がなかった」
黒田藩の担当武士と庄屋が立会い、この土地には「秋免」あきめんを行うと書いてある。「検見」けみというのがあったという。この秋の米の収穫については検見の結果、本来この田から年貢米は幕府や藩に納めなくてよいと協議し決定した文である。
 収穫した米の全部を納めるのではなく、幕府にいくら藩にいくらと割合が決められていた。
5割を幕府と藩に5割を農民にという具合に決められていた。藩によって割合が違っていたという。農民も米や麦や稗や粟を混ぜて食事をとっていたことになる。この理屈なら江戸時代が米や麦や稗など5穀をすべての人々が食べて暮らしていたということに納得できた。無茶な税額をとっていたのではなかったのだろうか。
 しかし、現在の税制だと国税と地方税合わせて50%などは取られてはいない。せいぜい25%位が個人所得から控除される程度ではないだろうか。徳川幕府の年貢米は税金であり、農家の収穫した米の50%も取り上げるとは、酷い話である。倒幕し明治政府を作ったことは、民衆にとり正しい事だったのだ。
 梅本先生の具体的な話で、農家の収穫した米を全て幕府と藩が取り上げてはいないことが、理解できた。農家も貧富の差はあるが、ほとんどの人が米を食べていることが分かり、安心した。
米が経済の基盤である。貨幣も流通しており、金銀貨は高額であり、銅銭という安価な物が、全国に流通していた。
 梅本家は、舟庄屋を兼ねていた。黒田藩の船24隻を管理する庄屋さんである。遠賀川の岸辺に米場があり、年貢米を集め、そこから芦屋宿に米を運んでいた。芦屋の米蔵で福岡藩と大阪へ運ぶ船に米を分け海で運ばれた。木屋瀬では米のほかにハゼの実をつぶしたロウが一緒に運搬された。高崎家がハゼ蝋の取り扱いをしていたという。
 舟庄屋というと大層な名誉と地位であるが、梅本家はその報酬として、藩から貰ったのは、年3石の米だけだったという。
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