文字数 3,443文字

 湧き水で人間に出会って四つ目の朝。
 リッカはあの後、住み処の柵から出ていない。
 飲み水が底をついた。

 カメの雨水を全部畑に撒いた。
 洞穴の寝具を丁寧にたたみ、外に出ていた道具類は中にしまった。
 別に誰に咎められる訳でもないが、住みっ放しで出て行くのは嫌だった。
 こうやって片付けて、畑もいたわってから出掛けた方が、またここへ戻って来られる気がした。

 いつも雑に被るツバ広帽を、今日は丁寧に髪を後ろへやってアゴ紐を掛けた。
 残り少ない保存食と僅かな財を身に付けて、兄と過ごした住み処を後にする。

 兄が帰って来なくて七日目。
 リッカは歩き出す。生まれて初めて自分の判断で。


   ***


 森を出た事はないが、出口は分かる。
 兄がいつも向かっていた、木々が途切れて空が沢山見える方向。
 リッカは眩しいのが嫌いで、定められなくてもそちらへは近寄らなかった。

 行く前に湧き水に寄ってみた。今度は用心して、藪からそっと覗く。

 案の定
 大きい靴の足跡がドロリドロリ。
 火を焚いた焦げ痕と、白い小さいゴミが侮辱するように散らばっていた。
(穢(けが)れだ、あれは)
 水は、森の命の為に湧いてくれているのに。
 腹が立って、その後悲しくなった。

 人の姿は見えなかったが、まったく居ないかどうかは分からない。用心を怠ってはならない。
 帽子を目深に被り直して、そっとそこを離れた。あの穢れは、兄と会えた後に清めに来よう。

 少しずつだが水をくれる植物があるので、それらを口に含みながら歩く。生で食べられる新芽もかじった。そんなのも、兄がみんな教えてくれた。


 三百、四百、五百 …… 千、千と百 …… 千が三回と百、千が三回と二百 ……
 頭上の枝の重なりが薄くなり、周囲がどんどん明るくなる。
 それにつれて、木々の向こうにぽかりと広く、違う景色が見えてくる。

 やがて、人の手による石積みの塔が二つ現れた。
 間は十歩ほど離れていて、太い縄が渡されてある。
 高さは肩ぐらい、一抱えほどの四角い石が、ゴツゴツと積み上がっている。
 リッカは目を細めて、その存在感におののいた。
 これは、兄が立てるおまじないの柵と同じ種類の物だ。

 縄はくぐらないで、回り込んで脇を抜けた。
 塔の外側には何かの文字が彫られていた。読めないけれど綺麗な文字だと思った。

 塔から一歩外に出ると、風がさあっと抜ける。
 そうしてリッカはとうとう森を出た。


 ここから先は、木のほとんど無い、所々低い草原があるだけの、土がむき出しの平地。
 遠くに山脈も見えるが、それより手前に、四角い大きな建物群。
 霞んでいるからあまり近くではない。
 『街』って奴だ。人が集まって住む所。
 兄は木工品を売りに行っては、塩やノートや鉛筆を買って来てくれた。

 リッカにはその街が大きいのか小さいのか、どの程度の規模のどういう街なのか、分からない。
 何せ生まれて初めて目にする、本物の街。

 いや……? そうではない?
 人が沢山暮らす場所なら、見ていたような記憶がある。
 細い路地の坂を水が流れていて、家々の戸口に植え込みがあって人が座っていて……
 絵本や挿し絵じゃない、うんと小さい頃の、自分の……?

 眩しさに頭がズキンとした。

 リッカは帽子の唾を引き下ろして、俯(うつむ)いて足を前に運んだ。
 とにかく、進まなければ出て来た意味が無い。

 遮る木々の無い高い空は、ひたすら光を投げつける。
 乾いた空気が身体にまとわり着いて、葉っぱの茂みも隠れ穴も無い不安に、リッカは胸が苦しくなった。
 背を丸め、足元の陰を睨みながら、ひたすら歩く。

 時々見上げる街は全然近付いて来なくて、しかもいきなり川が現れた。
 とても飛び越えられない幅、ザバザバとしぶきを上げて、驚く量の水を湛えている。
 水を口に含みたい衝動に駆られたが、嗅いだ事のない匂いがする。
 湧き水とは違う物。兄の教えに従って我慢した。

 遠くに橋の影が見えたのでそちらへ回り、やっと街がはっきり見え出した頃は、陽が傾きかけていた。
 兄は日帰りしていたというのに、自分はノロマだと思った。

 とにかく兄のいるビョーインって奴を探さなくては。
 リッカは帽子の紐をしっかり絞め直し、フラフラの身体を前に運んだ。 

 いかにも入り口っぽい正面の広場は避け、回り込んだ小さい路地から街へ入った。
 建物の間の薄暗さにホッとした。
 狭い道だが、意外と人は通る。リッカはドキドキしたが、構って来るような者はいなかった。

 建物と建物の間に、明るい広い大通りが見える。
 夕暮れなのに何であんなに明るいの? いやそれより、トンでもない数の人間。
 お店って奴もある。目も眩むような沢山の品物が積まれていて、沢山の人を飲み込んで、袋を持たせて吐き出している。

 道には人だけでなく、本で見た自動車って奴も走っていた。あの四つの輪っかが回っている上に、どうやって箱が乗っかっているんだろう。
 森を出てから土の地面に二つの線を見かけたが、あれの足跡だったのか。
 水場に来ていた人間たちは、あれに乗って森の前まで来ていたのかもしれない。
 兄はあれに乗った事があるんだろうか。

 そんな事を考えて立ち止まっていると、視線を感じた。

 背をもたせかけた壁の上、開いた窓から、一人の人間がじっと見下ろしている。シワ一杯の老婆だが、リッカには人間の歳の区別が分からない。

「あんた、臭うよ」

 いきなり話し掛けられてびっくりしたが、声に悪い感じがしない。
 この人にビョーインの場所を聞けるだろうか。

 しかし老婆は反応しない子供を睨んで、眉間にシワを入れた。

「おお臭い臭い。部屋の中まで臭って来る。他所へ行っておくれ」
 大きな声でそう言うと、細長い紙の箱をふたつばかり投げ落として、窓をピシャンと閉めた。

 リッカが呆然としていると、別の路地から鳥打ち帽を被った子供が走って来て、素早く箱を拾って駆け去った。

「??」

 何なんだろう? 
 でもとにかく、街は思ったより広くて大きくて明るい。
 さっきの人はリッカに猫なで声を出さなかったから、きっと頼ってもいい人だ。

「おぉい、おぉい」

 何度か呼んだら、窓が細く開いて、さっきの老婆が覗いてくれた。

「ビスケットをやっただろ。他の浮浪児に取られたのはあんたがボケッとしていたからだ。もうやらないよ」
 早口なのでリッカには聞き取れない。
「とにかく居着かないでおくれ!」
 窓が開いたと思ったら、カップの水をザッと掛けられた。


「…………」

 普通の浮浪児なら、水なんか掛けられたらヒィと言って逃げるものを、薄汚れた子供はその場に突っ立って、自分の腕や手の甲を、犬のようにペロペロとなめている。
 老婆は窓を閉めるのを少し躊躇した。

「いや…… あんた、そんなに喉が乾いているのかい。あぁダメダメ、およし!」

 子供が黒ずんだ帽子を脱いでツバをなめようとしたので、老婆は慌てて止めた。
 そうして一旦中へ戻り、水差しとカップを持って来た。

 子供はキチンと「ありがとうございます」と言って、両手でカップを受け取った。
 身なりはボロボロだが礼儀は教えられているようだ。爪も切り揃えられているし、そこら辺の浮浪児とは違う気がする。
 老婆は少し考え直して、水のおかわりを注いでやる時、子供の顔をちゃんと見た。

 息が止まる!
 この子……!

「兄が水汲みをリッカにやらせていた理由が分かった」

「え、は? アニ?」

「大事なモノを大事に思う心を育てる為だ。水は本当にありがたい物だった」

「へえ、うん、そうだね……」

 老婆は上の空で返事をする。

「リッカは兄を探している。ビョーインという所を知らないか」

「アニ……お兄さん? ビョウイ……?」

「ニューインしていると言っていた」

「ああ、病院、入院ね」

 我に返った感じで老婆は、路地の陰に向かって声を上げる。
「ヤコブ、ヤコブ、そこに居るんだろ」

 煉瓦柱の向こうから、さっきの鳥打ち帽の子供が覗いた。リッカよりちょっと背のある男の子。

「この子を案内してやって。入院してるってんなら、中央病院だろ」

「なんで、俺が」

「さっきのビスケット分くらい働きな」

「ちぇ」
 男の子はリッカに近寄って、来いよ、と言う風に親指を立てた。

「それからあんた」
 老婆は、お辞儀をして去りかける子供を呼び止める。
「その帽子は誰に会っても目深く被っておくんだよ。ヤコブ、なるべく裏通りを歩いてやりな」 

 言うだけ言って、老婆は半分閉めかけていた窓を、今度こそパタンと閉めた。





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