第1話 リアリズム

文字数 919文字

※小説を書いてみての感想を書こうと思っています。
※脱線、逸脱しても勘弁してください。

 小説は難しい。感想としては、難しい、が一番ですね。
 こいつはやっかいな表現手段だな、と感じるのは、自分が作っているのもがどう出来上がってきているのかが、一望できないところです。千文字、二千文字、ダーって書き上げて、さてと見直してみても、膨大な細部が目に入るだけで、遠くから見ても全体像が分からない。その上、細部を目で追っているうちにどんどん訳が分からなくなってきてしまう上、何度読み返してみてもその度に印象が変わるという二重苦です。
 さらに言うと(というより現代的な地平から無理やり見てしまうと)、言語が単独で作用することはほとんどなく、周辺部の意味連関の中で作用し、変容することが明らかなので、私が蠅を写生したとて、読者がちゃんと頭の中で私の見た蠅を再現することは100%ない、と断言できる。
 先人はなんでこんな表現媒体でリアリズムが追求できると思ったのでしょうか? よく分からない。粘菌で彫刻するようなものじゃないか。まあ、昔は今よりも『客観』なるパワーワードに希求心があったんだろう。しらんけど。

 実は、いざ小説を書いてみるまで、私は俳句の追求したリアリズムの方がナンセンスだと思っていました。(近代俳句は正岡子規の追求したリアリズムから始まります)
 なぜか、それは散文と韻文の差からです。散文って、基本的に黙読。つまり描写に向いた表現方法。韻文は、逆に朗読。つまり抒情に向いた表現方法だと単純に捉えていました。
 しかし、今は俳句作りより、小説作りの方が圧倒的に『作曲』に似た作業に思えます。この実感の差は面白いですね。十七文字で書かれた極めて短い文芸の俳句。こちらの方が、作品全体の出来栄えを一望出来て、リアリズムを追求する媒体としてはマッチしていたのでは? しかし、俳句は適度に間が空いた、スカスカな文芸なので、思想だの、社会性だのが入れ込みやすい表現方法である。(というより芭蕉がワビサビを入れ込むことにより、言葉遊びや紋切り型から独立させたので、以降美学を入れ込むことは運命づけられているのですが)本当は両者を比較する方が間抜けなんです。
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