第6話

文字数 1,930文字

その翌年の春、箕面に住む澄香の両親が娘に会うついでに東京の桜を見に来た。後々やりやすくなるかもしれないというお互いの判断で、高崎は案内役を買って出た。「うちが高崎くんちにおること黙っといてね」と澄香は言った。「分かってる」と高崎は答えた。
あいにくその日はどんよりと曇った花冷えの一日で、高崎が熱心に調べた谷中霊園の花見コースもそこそこに一行は根津の甘味処に避難した。
澄香の母親は口数の多いタイプで、注文した品が来るまで高崎に仕事や両親の話を熱心に尋ねた。大手ゼネコンで設計職についているという澄香の父親は母親と対照的に無口な男で、運ばれてきたクリームあんみつを黙って食べていた。
澄香の母親が黙ると幾分居心地の悪い沈黙がテーブルを支配し、スプーンがガラスの容器をつつく音だけが客の少ない店内に響いた。

「そういえば、高崎君もめっちゃ阪神ファンなんやで」澄香が助け舟を出した。
あんみつを食べ終え、最後にサクランボを口に入れようとしていた父親がその手を止めて高崎のほうに顔を見た。
「君も阪神好きなんか」
「3歳の時から阪神ファンです」ここが勝負どころと見て、高崎は声を張って答えた。
「どう思う、今の阪神」澄香の父はサクランボを口に入れ、種を容器に置いてから高崎に再び尋ねた。
「出来過ぎやと思います。去年ぶっちぎりで優勝しましたけど、なんかまだ安心できないというか、なんかのきっかけにまた元通りになってしまうんやないかとか、そんなこと思ってしまいますね」高崎は日頃の胸の内を素直に話した。「例えば監督が変わったら、コロッと弱なってしまうとか」
「その気持ちはわかる」澄香の父は深くうなずいた。「確かに今の阪神は強い。でもどこかで信じられない気持ちもあるよな」
「はい、ここまで長かったですから」
「長かったよな」
 二人の男は似たようなタイミングでため息をつき、それからほぼ同時にお茶を啜った。
「あとは若手ですね。神戸におった頃はよく鳴尾浜見に行きましたけど、どれだけ1軍で通用する選手が出てくるか」
「君、鳴尾浜まで行くんか」父親はそこで初めて表情を緩めた。
「ええ、たまにですけど」高崎は答えた。
「僕もたまに行ってるんや。面白いよなファームは」
「面白いですね。そこで見てた選手が1軍で活躍すると、めっちゃ嬉しいです」
「せやな。新庄なんか見たときは、こいつはほんまごっつい肩しとるなと思ったけど、メジャーまで行ってしまったからな」
「新庄見てはったんですか、すごいですね!」
「普段阪神の話できひんから、嬉しいでしょう」と澄香の母が口を挟んだ。「ごめんね高崎さん、うちらがあんまり相手せんもんやから、勝手に盛り上がってしまって」
「妻と娘は全く興味あらへんねん」と澄香の父が言った。「澄香なんか小さい時から甲子園とか結構連れてってんねんけどな」
「あー、風船飛ばしたんしか覚えてへん」と澄香が言った。
「そういえば、東京の阪神戦も結構面白いですよ」と高崎が言った。「神宮球場とかめっちゃ阪神ファン多いですし、甲子園とはまた雰囲気が違います」
「そうか、東京の球場でも一回見てみたいなあ」と澄香の父親が言った。
「今度よかったらチケットとりますよ」
「来月に出張があるから、また東京に来るしな」と澄香の父親が言った。
「そうですか。日程教えてもらえれば押さえときます」と高崎が言った。
「よかったやないの、東京でも野球仲間ができて」と澄香の母親が言った。父親はそれに答えず、あんみつの最後の一すくいを口に入れた。
 
一通り澄香の父と高崎の阪神話が落ち着き、再びテーブルに沈黙が訪れた。しかしそれは先ほどのまでのものに比べれば温かみのあるものだった。
「で、奈良のおばさんとまたこの前会ったんやけどな」頃合を見計らって澄香の母親が口を開いた。「絶対家出る言うて聞かんねん」
「ええやろ、今そんな話は」澄香の父親が言った。
「ちょっとだけやて、澄香の意見も聞きたいし・・ごめんね高崎さん、しょうもない親戚同士の話やねんけど」澄香の母親が言った。
「ちょっとお母さん、もう構わんほうがええって。おばちゃん、絶対お母さんのことアテにしてんねんから・・」
「いや、そうは言ってもやで・・・」
阪神トークによって自分のパートを終えた高崎は、母親を中心に繰り広げられる上田家の親戚話をぼんやりと聞いていた。どこの家にでもあるような喧嘩やいざこざの話だった。高崎はぬるくなった湯のみの茶をすすりながら、自分の恋人が、自分が今日初めて会った人たちと、自分の全く知らない世界の話を語っているのを眺めた。母親と奈良のおばさんのやりとりを心配する澄香の顔は、いつも一緒にご飯を食べたりどこかに出かけたりしている彼女とはまた別の人の顔に見えた。
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