第5話

文字数 1,609文字

 高崎の関東での生活も1年が過ぎ、また新しい春がやってきた頃、高崎と澄香は付き合いを始めた。高崎と同い年の澄香は大阪の大学を卒業後、建築事務所への就職と同時に東京に出て来ていた。
「うちお父さんがゼネコンで設計の仕事やっててな、それもあって小っちゃいころからレゴとかで家とか建物とか作るの好きでな、で普通に建築学部行って、そのまま今の建築事務所入ったんや」
 何度か目のデートの時、澄香は高崎に何故建築の仕事をしているのかと尋ねられ、そう答えた。散歩の途中で入ったタリーズコーヒーはほぼ満席で、二人は幸運にも先客が席を立ったばかりの隅のソファ席に坐っていた。
「じゃあ、澄香ちゃんは幸せやな、小さい頃から好きだった仕事が出来て」トールサイズのコーヒーを飲みながら高崎は言った。
「そうやね」澄香は答えた。「でもな」木のマドラーを指でいじりながら澄香は続けた。「最近よう分からん」
「そうか」と高崎は言った。
 それから二人はしばらく黙り込んだ。窓の外では既に陽が沈み、窓から見る空は既に夜の青さに変わりつつあった。店内は依然として混雑しており、他の客の話し声や店のBGMの入り混じった音が二人の沈黙を埋めた。
「東京もうどれくらいおるんやったっけ?」高崎が聞いた。
「今年の春で4年」澄香が答えた。
「じゃあすっかり慣れたやろ」高崎が言った。
「うん、私結構東京合ってるかも」と澄香が言った。
「じゃあ澄香ちゃん、しばらく東京おるんねんな」高崎が言った。
「そやね」澄香が答えた。「高崎君もしばらくおるんやろ」
「まあ、当分はな。しばらくはこっちやと思うわ」
「じゃあ東京でいっぱい遊ぼ。せっかくおるんやから、楽しまないと損やし」と澄香は言った。
「そやな」高崎もそう答えた。

 高崎の仕事は例の新規プロジェクトが稼働し、より忙しさを増していた。夜遅くまでの残業に、休日返上の出勤もしばしばの毎日だったが、高崎にとって初めて新規で獲得したクライアントであり、またチームメンバー一丸となって取り組む一体感に、辛さは感じなかった。
一番年少者の高崎はことあるごとに先方に通い、顧客のオーダーを聞いて持ち帰る役目となった。毎日のように客先に通い、打ち合わせをするうちに顧客の信頼を得て、高崎はいつの間にかクライアント窓口の役割を任されていた。常に顧客に接しているからこそ知っている情報や、先方のニーズなどを誰よりも早く理解している高崎は社内でも重宝がられ、部長や支社長や声をかけられるようになっていた。東京支社の幹部が集まる会議にも出席する機会が増えた。それは東京に来たばかりの頃には考えられない変化だった。

 一方で、仕事の合間を縫うようにして澄香との付き合いは続いた。週末は会社帰りに澄香のアパートに寄り、家のお好み焼きやたこ焼きを食べさせてもらってはその幸せを噛みしめた。その年の夏が終わる頃には会社の規定変更があり、高崎は横浜を離れ、総務部が新たに斡旋してくれた船橋のマンションに引っ越した。会社が錦糸町にあった澄香は自然と高崎の家から通う事が増えた。

「さすがにここまではおります男も出てこんな」
 二人で過ごす休日、買い物に行く電車の中で高崎が澄香に言った。土曜日の午後の総武線は空いており、窓から差し込む秋の日差しが紺色のシートを照らしていた。朝は勤め人で埋め尽くされる車内は家族連れや若者の姿が目立った。途中駅で止まると静かな風が吹き込んで、秋らしい涼やかな空気が車内を満たした。
「おらんとおらんで、ちょっと淋しいんちゃうん」と澄香が言った。
「ちょっとな」と高崎が答えた。
「だったらさあ、自分が二代目になってみたらええんちゃう?素質ありそうやし」と澄香が言った。
「あるか!」と高崎が言った。

 その翌年の春、箕面に住む澄香の両親が娘に会うついでに東京の桜を見に来た。後々何かとやりやすくなるかもしれないというお互いの判断で、高崎は案内役を買って出た。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み