第8話

文字数 1,780文字

 秋が終わり、カレンダーは12月へと変わった。忘年会やクリスマス、年末の予定などを決め始める時期となり、例年よりも長い年末年始のカレンダーを眺めながら、正月を関東、関西どっちで過ごそうかと相談を始めた頃、高崎に異動の話が出た。時期は2月。部長の話では、新規プロジェクトでの貢献が認められ、大阪にある子会社の情報システム会社の経営企画部に出向が決まったとのことだった。
「高崎、東京来てどれくらいになる」チームメンバーでランチに行く道すがら部長が高崎に言った。12月にしては暖かい日で、高崎たちはコートを着ずに上着だけを羽織って外に出ていた。
「もう少しで3年です」
「じゃあそろそろ関西に帰りたい頃だろ」
「いや、そんなこともないですけど」
「いずれにせよ、子会社とはいえ経営企画部だしな。キャリア的にいい経験になるよ。ITとか詳しい?」
「いや、全くです」
「まあみんな最初はそうだろ。頑張れよ」
「はい、がんばってみます」
 その返事とは裏腹に高崎は胃の中に小石を放り込まれたような気分だった。キャリアを考えれば悪い話ではないのだろう。しかしせっかく慣れてきた東京の仕事や、関東の暮らしがある。そして澄香の存在もある。それらの事をいっぺんに考えると高崎の頭は混乱した。一行は昼はランチ営業をしている居酒屋に入り、高崎は焼き魚定食を頼んだ。話題は忘年会をどの店にするかで盛り上がり、同僚たちはみな口々に希望の店の名前や食べたいものを挙げていた。しかし高崎は一人その話に入らず、いつもならお替りするご飯も一杯で止めて昼食を切り上げた。 

 その日高崎は珍しく寄り道をした。駅前のドトールに入り、頼んだコーヒーも殆ど口をつけずに、小声で一人言を言いながら、ノートに何かを書き込んだ。30分ほどしてから、高崎は「よし」と呟いてテーブルを立った。

「俺異動やって」家に着いた高崎は開口一番そう澄香に伝えた。
「2月1日から大阪勤務。しかも今までの仕事と全く関係ない情報システムの会社に出向」
 先に帰っていた澄香はお好み焼きの材料の入ったボウルをかき混ぜながら「ほんま」と呟いた。それから「新しい仕事か、それもしんどいな」と言った。
「ほんまや」と高崎が答えた。
 澄香はしばらく黙ってお好み焼きのタネをかき混ぜていたが、ふとその手を止め、おたまを手にしたまま「なら、私も一緒に帰ろかな」と言った。
「帰るって、ええけど、仕事どうすんねん」と高崎が言った。
「いったん大阪帰って考えるわ。」またお好み焼きをかき混ぜながら澄香が答えた。「そろそろ戻ろ思ってたとこやし、ちょうどいいタイミングや。建築事務所なら向こうにもなんぼでもあるし」
「問題はどこ住むかやな」ネクタイを解きながら高崎が言った。
「会社どこやったっけ」と澄子が聞いた。
「淀屋橋」
「高崎君ち鷹取やろ、別に実家から普通に通えるやん」そう言って澄香はお好み焼きのタネをホットプレートに置いた。「あ、もう焼いてよかった?もうちょっと後にしよか?」高崎はそれに答えず「今更お互い実家帰ってもしゃあないやろ。どっか住むとこ探さな」と言った。
「でもうち、同棲禁止やで。知っとると思うけど」と澄香は言った。「こっちだったらこんなんしてられるけど、大阪戻ったら無理や」
「そらそやろ」と高崎は答えた。それから少し時間を置いてからこう言った。
「せやから、まあ、結婚すればええんちゃうか」
「え」と澄香が言った。
「まずいか」高崎が言った。
「まずいことないけど」と澄香は言った。
「ないけどなんや」
「なんか」
「なんや」
「結婚やて」澄香はお好み焼きのタネをホットプレートに伸ばしながら繰り返した「結婚やて」それからクスクスとこらえきれないような笑い声を立てた。
「何がおかしいねん」スーパードライの缶を空けながら高崎が聞いた。その声にも少し笑いが含まれていた。
「うちらがやで、結婚やて」また同じことを言って、澄香は笑い続けた。
「だから何がおかしいねん」と言って高崎も笑った。
 澄香は高崎の言葉に答えず、「結婚やて」と繰り返したが、次第に笑い声が鼻声に代わり、ティッシュを取って目に当てた。
「なんで泣くねん」
 それにも答えず、澄香は答えず目を拭いながら鼻をすすった。それからしばらくしてホットプレートの火を止め「お母さんに電話していい?」と言った。
「ええよ」と高崎は答えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み