第10話 This city is not London!
文字数 8,230文字
【6月4日17:35 鳴鐘より45分】
福薬會 の2階には巨大な会議室兼ホールがある。ここで研修を受けたり、成維 のありがたい話を聞いたりするが、今は緊張した顔が詰め込まれているばかりだった。
「ラブ」
ホールに入った睦千 と青日 は、壁の方に突っ立っていたラブを見つけて駆け寄る。
「状況は?」
「さあね。メールで知らされた事しか知らんよ。周りもそうみたいだ、だからみんなパニック寸前さ」
「ねぇ、おれ、鐘が鳴るの聞いたの初めてなんだけど」
青日がこそりと呟く。
「俺だって初めてだな」
「ボクも。前に鳴ったの、20年くらい前だと思う。だから、多分、ここに冷静な調査員はいないだろうね」
「うわぁ、やばいね」
こそこそ話していると、神妙な顔をした成維と茎乃 が入ってきて、雑談が止んだ。成維は正面の席に座ると、室内を見渡し、話し始める。
「本日、15時過ぎ、場所不明、霧の怪 が確認された。詳細は後ほど説明するが、極めて危険度が高い。よって、本日16時50分に警報を発令した。今後、福薬會全員でこの怪の対応に当たる。なお、既に福薬會案内方2名の命が奪われている。全員、黙祷」
室内に衝撃と静寂、再び恐れと哀しみに包まれる。短い黙祷を終え、成維が再び口を開く。
「では、怪の詳細を狐師匠から頼む」
前に狐の面を付けたパンツスーツの女が出てくる。狐面は右側が白、左側が黒と色が分かれており、目元だけを隠している。見えている薄く赤い唇とふんわりとウェーブした茶色い髪はどことなく若い女の雰囲気を出していた。しかし、彼女は『師匠』と呼ばれる、福薬會でもそれなりに偉くご立派な立場である人物であった。
福薬會には怪調査方を始めとした様々な部署が存在する。事務方などはいわゆる事務長みたいな、ちゃんとした上司が責任を持って事務員の方々を束ねるが、奇怪病者はそう簡単にはいかない。リーダーみたいなめんどくさいのはやりたくない、弱いやつにとやかく言われたくない、そんなんかんけーねー云々。しかし、それぞれ所属する「方」の中でのまとめ役はあった方が、何かと便利だ、決めてもらわなくては困る。そこで、分かりやすく且つ諦めがつきやすい方法でまとめ役を決める事にした。とある子曰く「1番強い奇怪病を持っている奴がまとめ役である、これすなわち『師匠』と呼ぶ」と。1番強い奇怪病を持つ人物が、全体会議での代表、御大からの小言、細々とした連絡、メンバー同士の喧嘩の仲裁、備品の管理など、まとめ役兼雑用係として、所属する奇怪病者を率いる事になった。なに、嫌ならそれっぽい理由をつけ、自分より強い人物を差し出せば良いのだ、しかし、強者は往々にして面倒を見るのが好きだったりするよね、偏見か、以上、福薬會の常識。
「では早速、怪の詳細について述べる」
狐師匠はゆったりとした口調で、しかし端的に語り出す。
「怪の正体はまだ視認できていない。霧の中を動き回っているようだ。霧は巨匠館地区を中心に八龍全土。当初はただの霧であったが、16時半頃、怪の気配が変質、調査方科捜派鵺師匠、呪方での分析の結果、奇怪病者を死に至らしめる事が判明。案内方2人の死因もこの怪によるものと思われる。よって、諸君らの霧の中での長時間の活動は厳禁。霧は風や火などで払えない事も確認済みだ。しかし、幸いにも屋内には入り込んでこないので、移動は屋内を通っていく事。異変を感じたらすぐさま本部に連絡をする事。霧の中での活動時間は30分以内、しかしこれはあくまで目安だ。今後解析が進めば時間の短縮、もしくは拡張があるかもしれない。情報は常にアップデートしていくので、各自、メールを定期的に確認してくれ。呪方からは以上だ」
狐師匠が話し終わると、補足いいですかぁ? と間延びした声が聞こえた。
「鵺師匠、お願いします」
狐師匠に代わり、1人の女が壇上に立つ。ピンク色に染めた肩ほどの髪はあちこちに跳ね、可愛らしいそばかすの童顔の女だ。ただ一点だけ、鹿の角が頭から生えていた。彼女が調査方科捜派の鵺師匠だ。鵺師匠は五感によるあらゆるものの分析ができる『キメラ症候群』を持っていた。ちなみに角は生えていたり生えていなかったり、鹿だったり触角だったりその日の鵺師匠の気分による。
「今、見たところ、霧の効果は累積されないので、30分出たら30分引きこもってもらえれば大丈夫です。案内方2人の死因については不明な点があるので、後ほど分析結果を連絡しまーす。皆さん、気をつけてねー」
呑気に話した鵺師匠がポテポテとした足取りで壇上から去る。そして、再び成維が戻ってきた。
「怪の詳細については以上だ。では各部門に指示を出す。まず呪方、八龍全体に広がり怪を見つけ次第払ってくれ。調査方武闘派は呪方のサポート、科捜派は怪の詳細調査、並びに行動予測を頼む。案内方は八龍内の被害確認作業に協力してくれ。他、細かい指示に関しては、事務方と各師匠で調整している最中だ。よって、決まるまで暫く待機、少し気分を切り替えてほしい。では、皆、早期解決に励んでくれ」
加羅枝の指示を受け、それぞれが動き出す。会議室の前に座っていた師匠達は一斉に頭を抱えながら、立ち上がり、大声で伝達を始めた。
「呪方、担当区域を今メールした。確認して、行動始め」
「科捜派の皆さん! 解析の続きをはじめまーす!」
「武闘派は一度道場に来い!」
その中でぽっぽーと鳩が鳴く。正しくは、鳩の頭をした人間(と思われる生物)から声がした。こちら、案内方師匠、この道30年のプロ、鳩師匠である。
「案内方の中で気分が悪い人はすぐにご連絡を! 心配な事も早く伝えてくださいっぽ」
案内方の奇怪病者の多くは、怪を退けられるほどの強い奇怪病を持っていない。危険を回避し、遭遇した場合は確実に逃げる、いかに安全にお客様を帰すか、そんな部署だ。調査方の中にはそれを弱いと思う馬鹿もいるみたいだが、他人を気遣い無事に帰る事ができる時点で天才じゃん、と睦千と青日は考えていた。
さて、武闘派師匠の指示に従って、睦千達は3階の道場へ移動した。みちみちと詰め込まれた猛者どもの中心には一際巨体の男が静かに立っていた。彼こそが武闘派師匠『大狸師匠』である。外見はでかい古狸と達磨を足し合わせ、さらに熊のような筋肉を盛り付けた、愛嬌のある強面の男である。
「お前ら、浮き足だっているな」
大狸師匠は、一通り人の出入りが落ち着くなり、そう語り始めた。
「詳細は今、連絡した通りだ。我々の任務は呪方の補佐、封じ込めの札を使うのは良いが、通せんぼの札は使うな。道が通れないなどの混乱の元になる。もし、万が一、使うしかない状況で、使ってしまったら、すぐに儂まで知らせる事。基本的には普段のコンビ、グループ単位での行動をしろ。以上だ。質問はないか?」
活入れかぁ、と睦千は小さく溜息を吐いた。意味があるとはイマイチ思えない。その時、ポケットで携帯が震えた。睦千は鳴り出した携帯を見て、首を傾げた。
「マミだ」
小さく青日に告げると、首を傾げる。
「なんでマミちゃん?」
嫌な予感がした睦千は道場を出て、通話ボタンを押す。この異常事態にマミが電話をしてくるのは、ちょっと考えられない。
「はい、睦千」
『ジェシカ見なかったか!?』
切羽詰まった声に、睦千は顔を顰めた。
「ジェシカ? 店で別れた後から見てない」
『まだ帰ってきてないんだ、連絡もつかない』
「ちょっと待って……切らないで」
道場に戻り、盛り上がってきた調査員の間をすり抜け、ラブの肩を叩く。
「なんだぁ?」
「ジェシカと連絡がとれないってマミが。電話掛けてみて」
「おー、ちょっと待て。ジェシカ……ジェシカ……」
ラブが携帯を操作している間、睦千の耳元にはマミの焦った息遣いが聞こえていた。ちょうど、活入れも終わったようで、ざわざわと調査員が移動を始めている。
「大丈夫、ジェシカは大丈夫だから……ジェシカはいつぐらい家を出たの? 行き場所は分かる?」
『昼過ぎに、練習に……いつものスタジオ、オレンジ通りのスペイン館だ』
「うん、分かった」
このあたりで、ラブか携帯を耳に当てながら首を横に振る。それを見た青日がふらりと何処かへ歩き去る。
「こっちも繋がらない。ボク達で探すから、マミは絶対外に出ないで」
『そんな、これ以上、落ち着いていられない!』
「ジェシカが帰ってきたら時、マミが家にいないと、あいつは探しに行く。それは危険、分かっているでしょう?」
『……』
「大丈夫、ボクを信じて。ジェシカを見つけるから、今度一足サービスしてよ」
『……頼む、あたしにはもう、ジェシカだけなんだ』
「分かっている。じゃあ切るよ」
『睦千、ごめんな』
「平気。これがボクの選んだ仕事。じゃああとで」
睦千はマミが電話を切るのを確認してから、携帯の電源を落とす。
「ジェシカがいない。一般人だけど、霧の中で迷っている可能性もあるし」
話していると青日が戻って来る。
「大狸師匠から許可とってきたよ。タキさんところがおれ達の分もフォローしてくれるって。あと、全体で共有するから、見つかったら連絡するって」
「青日、ナイス。助かった」
「それで、探しに行くのか?」
ラブが厳しい顔で尋ねる。
「探してくる」
おい、とラブは引き留めるように2人を呼んだ。
「無茶はすんなよ」
「大丈夫」
睦千はラブの目を見て言った。相棒だった時のアレやコレやを思い出しているのかと、睦千はちょっとこそばゆい気持ちになった。
「今は、自分が1番大事だから。無茶はしない。多少の無理はするかもだけど、でも、ボクは自分を大事にしたいから、行く」
力強く言い切った睦千に
「なら、気をつけろ。2人とも」
「ラブもね」
睦千達が去っていくのをラブはじっと見ていた。
【6月4日 18時】
睦千と青日は深文化郷地区のオレンジ通りに面するスペイン館に来ていた。支配人の話から、ジェシカは警鐘が鳴る前に帰路についている。
「外に出よう。ここから『ちちんぷいぷい』までの道を探してみる」
睦千が迷わずスペイン館のドアを開ける。青日も当然のようにその後ろをついていく。
「でも、ウィッピンがちょっとしかきかないの、結構大変だよね」
「みんなそうみたいだけどね。有効的な奇怪病がないから、対策のしようがない」
ウィッピンで空間を切り裂くと、僅か2メートルほど視界が明瞭になる。しかし、それもすぐに霧の中に消える。その僅かな時間に何か手掛かりがないかと見渡す。途中すれ違う福薬會メンバーにマミの事を尋ねるが誰も何も見ていない。15分ほどで『ちちんぷいぷい』の前に着くと、2人はそのまま店の中に入った。
「ジェシカ!」
「ごめん、ボクと青日」
あからさまに肩を落としたマミに、睦千は申し訳なさそうに告げる。
「ごめん、まだ見つからない……連絡は?」
「ない……いや、こちらこそ、ありがとう。こんな、わがまま……」
「住民のための福薬會、だから当然の事。マミこそ、少し落ち着いた?」
「いや、あんまり……どうしていいか、分かんなくて……」
「うん。辛いと思うけど、もうちょっと待っていて」
マミは小さく頷いて、店のドアの方へ視線を向ける。睦千は携帯を確認していた青日を窺うと、青日は首を横に振った。特に情報はないらしい。
睦千はじっと、考える。ジェシカは何故帰ってこないのか。道が分からなくなった、可能性はあるがなら、どうして連絡をしない。携帯を落としたのか。しかし、ジェシカは「マミちゃんの携帯の番号覚えるのなんて当然!」と胸を張っていたし、『ちちんぷいぷい』には固定電話もある。どこかの家や店に入ったとして、携帯がなくなっていても、電話さえあればジェシカは必ずマミに電話をする。マミの無事を確認したがるはず。しかし、それ。していないという事は、やはり、電話ができる状態ではない。逃げているか、もしくは……。
「マミ、もう行くね」
歩き出した睦千の後を青日が追いかけかけて、一度足を止めて、マミへ近寄り声を掛けた。
「辛いかもしれないですけど、ごめんなさい、ここで待っていて。大丈夫、睦千が本気の本気出したから、ちゃんと帰ってくるよ」
「……分かっているよ、青日。睦千はこういう時、あんまり優しくしない。分かっているから、心配しなくていい」
「うん、ありがとう。じゃあ、また来るね」
青い顔だったけれどもマミは笑った。それに青日は笑い掛けて、睦千の後を追う。
「視界がきかない時、頼りにするのは音」
睦千が早足になりながら話し始める。
「ジェシカがまだ逃げているとして、調査員の呼び掛けや足音に反応しないのは、追手も同じ音をしているから」
「つまり、ジェシカちゃんは人に追いかけられているって事?」
「可能性としてね。多分、スマホは落としたんじゃないかな。助けを求めようとして、スマホの電源を入れる。その光で犯人は居場所を突き止める。慌てて逃げようとして、スマホを落とす。それで、その後、逃げ続けているか、どこかに隠れて動けないでいるか」
「怯えて出てこれないのかな」
「それだけならまだいい。一番厄介なのは……青日」
睦千が言葉を切り、青日を呼ぶ。そして、指差した先、ピンク色のカバーが付けられたスマートフォンと血痕があった。
「これってジェシカちゃんの?」
スマートフォンを持ち上げて、画面を確認する。着信履歴が表示された。『マミちゃん』の名前が並ぶ。間違いなくジェシカのスマートフォンだ。
「ジェシカ! ボク!睦千!」
睦千が声を張り上げるが、返事はない。
「睦千、血痕、こっちにもある」
青日が地面を這うように見て、逃げていく血の痕跡を見つけた。それを辿り、細い道へと入っていく。睦千はわざと大きく足音を立てた。ジェシカなら、マミの靴の音に気付いてくれるんじゃないかと期待していた。マミの靴が一番好きなのは、ジェシカだから。
「ジェシカ! 返事して! ボク、睦千だけど!」
呼びかけながら血痕を辿る。そして、それはすぐに途切れた。細い道の行き止まりだ。青日は辺りを見渡し、睦千はその小さな頭の中で八龍の地図を広げる。八龍深文化郷地区、今の場所は古糸 町のあたり、三味線やら箏を嗜む人々が多い。そして、この辺りは忍者屋敷かと言いたくなるほどカラクリも多い。
「青日、お地蔵さん探して」
「お地蔵さん?」
「この辺りはカラクリが多い。カラクリを動かすギミックがお地蔵さん」
「なるほど……あったよ!」
青日が乱雑に積まれた竹籠の奥に隠れていた地蔵を見つける。睦千はそれに近寄り、罰当たりにも鷲掴み、緊急事態だから許してほしいが、右にスライドさせた。がこん、と確かな手応え、そして、2人の背後の壁が開いた。
「うわ、すご」
「行こう」
2人は開いた壁に入る。道は左に続いているようで、通路の壁には血のついた指の跡が残っていた。10歩も進むと、ひらけた空間に出る。そして、そこにはうずくまったジェシカがいた。
「ジェシカ!」
睦千が駆け寄るが、反応はない、気を失っている。ジェシカの右腕と右脚には切り傷があった。睦千はブラウスを脱ぎ、切り裂く。柔らかい素材で良かった。そしてその布で傷口をきつく縛る。青日はその間、電話で大狸師匠に報告をしていた。電話を終えると、睦千の方を見て言う。
「ジェシカを病院に運んで、それから事情を聞けたら聞いて、調査の方に合流してだって」
「分かった……青日、ジェシカ、頼んでもいい?」
「そうだね、睦千は手を開けといて。だから、ダーリン、ちゃんと守ってね?」
「分かっているよ、ハニー」
いつもの軽口を言い合って、睦千は来た道とは反対側のドアに手を掛ける。
「一度、向かいのビルに入る。そこからなら下を通って病院まですぐ」
「りょーかーい」
そして、睦千達は外へ出ようとした。最初に出ようとした睦千は、咄嗟に、右手を振りウィッピンを出し向かってくる何かを切り裂いた。
「睦千!?」
「なんか来た」
「なんで分かったの!?」
「なんか、なんか、なんか、分かんない、でも、なんか来るなって、やば、すごい手ぇ震えてる、青日、ほっぺ貸して」
驚きと興奮を落ち着かせようと、睦千は差し出してくれた青日の頬に触れる。青日の頬からは、睦千の震える左手の冷たさが伝わる、あらやだ、睦千ったら可愛らし。
「てか、何来たのか見えた?」
「……四つ足だった」
「例の怪かな?」
「そうだといいな、スピード解決、無能組汚名返上で一面飾れる」
「この間返上したくないって言ってたのに」
「返上しないけどさ……青日、来るよ……」
睦千は、パチン、パチン、と地面を打ち続ける。僅かに視界が開ける。
パチンパチン、とウィッピンの音、そして、街灯が灯る。
その光が翳った。睦千はウィッピンを伸ばし、飛び込んできた物体を絡め取ろうとした。ブチンとウィッピンが千切れる感覚、右手に痺れが走った。
「青日、落ち着かせて」
「できるかなぁー」
「できるできる、青日は天才だから」
「よし、じゃあ、やっちゃお」
青日は灰色と白の、目の前の景色に青色を塗り始めた。今の気分はお家に帰りたい、そんなミッドナイトブルー。
夜空に似た青に侵食された中で、四つ足の怪はきゅっと縮こまり、ふうふうと吐き出していた霧がその身体の奥に引っ込んでいくのを見た。
「こいつだ、霧の怪」
早期解決、ラッキー、臨時ボーナス出るかな、出たら何しよ、青日と沖縄でも行こうかしら。ゆっくりと怪に近づき、レザーパンツの尻ポケットにねじ込んでいた封じ込めの札を取り出した。
瞬間、睦千の右手から血が噴き出した。痛みに札を取り落とす。
「い、た……」
「睦千ッ!」
青色が散り、元の灰色と白色に戻る。睦千の前腕からは血が滴っている。さっきブラウス破っちゃったのに、タンクトップもパンツも駄目になる、靴だけは死守しよう、今日買ったばかりよ、睦千の頭は妙に冷静で、空回っていた。
青日は周囲を見渡す。かつん、かつん、と足音が聞こえてきた。再び、霧が満ちてくる通りに、人影が一つ現れた。睦千も漸く、辺りを見渡せる。人影は男のようで、手に街灯の光を受けきらりと光るもの、刃物だろう。
「……青日、ジェシカを連れて病院に行って」
「睦千は?」
「後から……」
「置いていけるわけないじゃん!」
「ボクは大丈夫。それよりも、あいつはジェシカを傷つけた、でも、ジェシカは逃げた。まだ狙っている」
「だから、逃げろって?」
「うん」
睦千は左手にウィッピンを出す。もう駄目だ、靴にも血が垂れた気がする。これ、落ちるかな、と現実逃避……現実逃避っていうか、日常への懸想。
「まあ、そうだよね。じゃあ、病院でね」
青日はサッと駆け出して行った。睦千は大きく息を吸って、吐く。
「ねぇ、ボクの言葉は分かる?」
人影に声を掛けてみるが、返ってきたのは迫り来る足音。最低限の動きで躱わす。突き出されたナイフは顔の高さだった。
「ちょっと、顔は狙わないでくれる?」
霧の怪はまだ隅で震えてるようだが、霧を吐き始めている。そろそろ中に入らないとやばいかな。睦千は人影に向き合う。
「来なよ」
また、声を掛ける。人影がゆらりと動くのを見て、ウィッピンを思い切り打ちつけた。人影が道路に転がる音を聞き、睦千はウィッピンを上に伸ばし、ベランダの柵に引っ掛ける。そして、そのままウィッピンを縮め、ベランダに転がり込む。そして、窓を割り、ビルの中に入った。
「……空き部屋で良かった……」
埃に咽せ、深くなった傷に顔を顰め、よろけながら部屋を出た。
【6月4日 20時】
睦千は目を開けた。白い天井と、つーんとした消毒液の香り。病院だ、八龍病院の病室。
「目ぇ覚めた?」
ベッドの横、椅子に座ってきた青日が安心したように声を掛けた。
「……ボク、病院まで来たんだ……」
「意識朦朧だったよ。なんで腕にガラス突き刺さっていたのさ……」
「窓ぶち破った」
「怒られるよ」
「後で怒られておくよ」
ふうー、と睦千は大きく息を吐く。頭も重いし、体もふわふわする。
「ジェシカは?」
「大丈夫だよ。マミちゃんにも連絡した」
「ありがとう。あれ、人の方は?」
「睦千斬ったやつ? 報告したよ。みんなで頭抱えたね。霧だけじゃなくて切り裂きジャックまで出てきたのかーって!」
「アハ」
睦千は軽く咳き込みながら、笑う。
「いつから八龍はロンドンになったの」
「ラブ」
ホールに入った
「状況は?」
「さあね。メールで知らされた事しか知らんよ。周りもそうみたいだ、だからみんなパニック寸前さ」
「ねぇ、おれ、鐘が鳴るの聞いたの初めてなんだけど」
青日がこそりと呟く。
「俺だって初めてだな」
「ボクも。前に鳴ったの、20年くらい前だと思う。だから、多分、ここに冷静な調査員はいないだろうね」
「うわぁ、やばいね」
こそこそ話していると、神妙な顔をした成維と
「本日、15時過ぎ、場所不明、霧の
室内に衝撃と静寂、再び恐れと哀しみに包まれる。短い黙祷を終え、成維が再び口を開く。
「では、怪の詳細を狐師匠から頼む」
前に狐の面を付けたパンツスーツの女が出てくる。狐面は右側が白、左側が黒と色が分かれており、目元だけを隠している。見えている薄く赤い唇とふんわりとウェーブした茶色い髪はどことなく若い女の雰囲気を出していた。しかし、彼女は『師匠』と呼ばれる、福薬會でもそれなりに偉くご立派な立場である人物であった。
福薬會には怪調査方を始めとした様々な部署が存在する。事務方などはいわゆる事務長みたいな、ちゃんとした上司が責任を持って事務員の方々を束ねるが、奇怪病者はそう簡単にはいかない。リーダーみたいなめんどくさいのはやりたくない、弱いやつにとやかく言われたくない、そんなんかんけーねー云々。しかし、それぞれ所属する「方」の中でのまとめ役はあった方が、何かと便利だ、決めてもらわなくては困る。そこで、分かりやすく且つ諦めがつきやすい方法でまとめ役を決める事にした。とある子曰く「1番強い奇怪病を持っている奴がまとめ役である、これすなわち『師匠』と呼ぶ」と。1番強い奇怪病を持つ人物が、全体会議での代表、御大からの小言、細々とした連絡、メンバー同士の喧嘩の仲裁、備品の管理など、まとめ役兼雑用係として、所属する奇怪病者を率いる事になった。なに、嫌ならそれっぽい理由をつけ、自分より強い人物を差し出せば良いのだ、しかし、強者は往々にして面倒を見るのが好きだったりするよね、偏見か、以上、福薬會の常識。
「では早速、怪の詳細について述べる」
狐師匠はゆったりとした口調で、しかし端的に語り出す。
「怪の正体はまだ視認できていない。霧の中を動き回っているようだ。霧は巨匠館地区を中心に八龍全土。当初はただの霧であったが、16時半頃、怪の気配が変質、調査方科捜派鵺師匠、呪方での分析の結果、奇怪病者を死に至らしめる事が判明。案内方2人の死因もこの怪によるものと思われる。よって、諸君らの霧の中での長時間の活動は厳禁。霧は風や火などで払えない事も確認済みだ。しかし、幸いにも屋内には入り込んでこないので、移動は屋内を通っていく事。異変を感じたらすぐさま本部に連絡をする事。霧の中での活動時間は30分以内、しかしこれはあくまで目安だ。今後解析が進めば時間の短縮、もしくは拡張があるかもしれない。情報は常にアップデートしていくので、各自、メールを定期的に確認してくれ。呪方からは以上だ」
狐師匠が話し終わると、補足いいですかぁ? と間延びした声が聞こえた。
「鵺師匠、お願いします」
狐師匠に代わり、1人の女が壇上に立つ。ピンク色に染めた肩ほどの髪はあちこちに跳ね、可愛らしいそばかすの童顔の女だ。ただ一点だけ、鹿の角が頭から生えていた。彼女が調査方科捜派の鵺師匠だ。鵺師匠は五感によるあらゆるものの分析ができる『キメラ症候群』を持っていた。ちなみに角は生えていたり生えていなかったり、鹿だったり触角だったりその日の鵺師匠の気分による。
「今、見たところ、霧の効果は累積されないので、30分出たら30分引きこもってもらえれば大丈夫です。案内方2人の死因については不明な点があるので、後ほど分析結果を連絡しまーす。皆さん、気をつけてねー」
呑気に話した鵺師匠がポテポテとした足取りで壇上から去る。そして、再び成維が戻ってきた。
「怪の詳細については以上だ。では各部門に指示を出す。まず呪方、八龍全体に広がり怪を見つけ次第払ってくれ。調査方武闘派は呪方のサポート、科捜派は怪の詳細調査、並びに行動予測を頼む。案内方は八龍内の被害確認作業に協力してくれ。他、細かい指示に関しては、事務方と各師匠で調整している最中だ。よって、決まるまで暫く待機、少し気分を切り替えてほしい。では、皆、早期解決に励んでくれ」
加羅枝の指示を受け、それぞれが動き出す。会議室の前に座っていた師匠達は一斉に頭を抱えながら、立ち上がり、大声で伝達を始めた。
「呪方、担当区域を今メールした。確認して、行動始め」
「科捜派の皆さん! 解析の続きをはじめまーす!」
「武闘派は一度道場に来い!」
その中でぽっぽーと鳩が鳴く。正しくは、鳩の頭をした人間(と思われる生物)から声がした。こちら、案内方師匠、この道30年のプロ、鳩師匠である。
「案内方の中で気分が悪い人はすぐにご連絡を! 心配な事も早く伝えてくださいっぽ」
案内方の奇怪病者の多くは、怪を退けられるほどの強い奇怪病を持っていない。危険を回避し、遭遇した場合は確実に逃げる、いかに安全にお客様を帰すか、そんな部署だ。調査方の中にはそれを弱いと思う馬鹿もいるみたいだが、他人を気遣い無事に帰る事ができる時点で天才じゃん、と睦千と青日は考えていた。
さて、武闘派師匠の指示に従って、睦千達は3階の道場へ移動した。みちみちと詰め込まれた猛者どもの中心には一際巨体の男が静かに立っていた。彼こそが武闘派師匠『大狸師匠』である。外見はでかい古狸と達磨を足し合わせ、さらに熊のような筋肉を盛り付けた、愛嬌のある強面の男である。
「お前ら、浮き足だっているな」
大狸師匠は、一通り人の出入りが落ち着くなり、そう語り始めた。
「詳細は今、連絡した通りだ。我々の任務は呪方の補佐、封じ込めの札を使うのは良いが、通せんぼの札は使うな。道が通れないなどの混乱の元になる。もし、万が一、使うしかない状況で、使ってしまったら、すぐに儂まで知らせる事。基本的には普段のコンビ、グループ単位での行動をしろ。以上だ。質問はないか?」
活入れかぁ、と睦千は小さく溜息を吐いた。意味があるとはイマイチ思えない。その時、ポケットで携帯が震えた。睦千は鳴り出した携帯を見て、首を傾げた。
「マミだ」
小さく青日に告げると、首を傾げる。
「なんでマミちゃん?」
嫌な予感がした睦千は道場を出て、通話ボタンを押す。この異常事態にマミが電話をしてくるのは、ちょっと考えられない。
「はい、睦千」
『ジェシカ見なかったか!?』
切羽詰まった声に、睦千は顔を顰めた。
「ジェシカ? 店で別れた後から見てない」
『まだ帰ってきてないんだ、連絡もつかない』
「ちょっと待って……切らないで」
道場に戻り、盛り上がってきた調査員の間をすり抜け、ラブの肩を叩く。
「なんだぁ?」
「ジェシカと連絡がとれないってマミが。電話掛けてみて」
「おー、ちょっと待て。ジェシカ……ジェシカ……」
ラブが携帯を操作している間、睦千の耳元にはマミの焦った息遣いが聞こえていた。ちょうど、活入れも終わったようで、ざわざわと調査員が移動を始めている。
「大丈夫、ジェシカは大丈夫だから……ジェシカはいつぐらい家を出たの? 行き場所は分かる?」
『昼過ぎに、練習に……いつものスタジオ、オレンジ通りのスペイン館だ』
「うん、分かった」
このあたりで、ラブか携帯を耳に当てながら首を横に振る。それを見た青日がふらりと何処かへ歩き去る。
「こっちも繋がらない。ボク達で探すから、マミは絶対外に出ないで」
『そんな、これ以上、落ち着いていられない!』
「ジェシカが帰ってきたら時、マミが家にいないと、あいつは探しに行く。それは危険、分かっているでしょう?」
『……』
「大丈夫、ボクを信じて。ジェシカを見つけるから、今度一足サービスしてよ」
『……頼む、あたしにはもう、ジェシカだけなんだ』
「分かっている。じゃあ切るよ」
『睦千、ごめんな』
「平気。これがボクの選んだ仕事。じゃああとで」
睦千はマミが電話を切るのを確認してから、携帯の電源を落とす。
「ジェシカがいない。一般人だけど、霧の中で迷っている可能性もあるし」
話していると青日が戻って来る。
「大狸師匠から許可とってきたよ。タキさんところがおれ達の分もフォローしてくれるって。あと、全体で共有するから、見つかったら連絡するって」
「青日、ナイス。助かった」
「それで、探しに行くのか?」
ラブが厳しい顔で尋ねる。
「探してくる」
おい、とラブは引き留めるように2人を呼んだ。
「無茶はすんなよ」
「大丈夫」
睦千はラブの目を見て言った。相棒だった時のアレやコレやを思い出しているのかと、睦千はちょっとこそばゆい気持ちになった。
「今は、自分が1番大事だから。無茶はしない。多少の無理はするかもだけど、でも、ボクは自分を大事にしたいから、行く」
力強く言い切った睦千に
かつて
のような頼りない表情はなかった。「なら、気をつけろ。2人とも」
「ラブもね」
睦千達が去っていくのをラブはじっと見ていた。
【6月4日 18時】
睦千と青日は深文化郷地区のオレンジ通りに面するスペイン館に来ていた。支配人の話から、ジェシカは警鐘が鳴る前に帰路についている。
「外に出よう。ここから『ちちんぷいぷい』までの道を探してみる」
睦千が迷わずスペイン館のドアを開ける。青日も当然のようにその後ろをついていく。
「でも、ウィッピンがちょっとしかきかないの、結構大変だよね」
「みんなそうみたいだけどね。有効的な奇怪病がないから、対策のしようがない」
ウィッピンで空間を切り裂くと、僅か2メートルほど視界が明瞭になる。しかし、それもすぐに霧の中に消える。その僅かな時間に何か手掛かりがないかと見渡す。途中すれ違う福薬會メンバーにマミの事を尋ねるが誰も何も見ていない。15分ほどで『ちちんぷいぷい』の前に着くと、2人はそのまま店の中に入った。
「ジェシカ!」
「ごめん、ボクと青日」
あからさまに肩を落としたマミに、睦千は申し訳なさそうに告げる。
「ごめん、まだ見つからない……連絡は?」
「ない……いや、こちらこそ、ありがとう。こんな、わがまま……」
「住民のための福薬會、だから当然の事。マミこそ、少し落ち着いた?」
「いや、あんまり……どうしていいか、分かんなくて……」
「うん。辛いと思うけど、もうちょっと待っていて」
マミは小さく頷いて、店のドアの方へ視線を向ける。睦千は携帯を確認していた青日を窺うと、青日は首を横に振った。特に情報はないらしい。
睦千はじっと、考える。ジェシカは何故帰ってこないのか。道が分からなくなった、可能性はあるがなら、どうして連絡をしない。携帯を落としたのか。しかし、ジェシカは「マミちゃんの携帯の番号覚えるのなんて当然!」と胸を張っていたし、『ちちんぷいぷい』には固定電話もある。どこかの家や店に入ったとして、携帯がなくなっていても、電話さえあればジェシカは必ずマミに電話をする。マミの無事を確認したがるはず。しかし、それ。していないという事は、やはり、電話ができる状態ではない。逃げているか、もしくは……。
「マミ、もう行くね」
歩き出した睦千の後を青日が追いかけかけて、一度足を止めて、マミへ近寄り声を掛けた。
「辛いかもしれないですけど、ごめんなさい、ここで待っていて。大丈夫、睦千が本気の本気出したから、ちゃんと帰ってくるよ」
「……分かっているよ、青日。睦千はこういう時、あんまり優しくしない。分かっているから、心配しなくていい」
「うん、ありがとう。じゃあ、また来るね」
青い顔だったけれどもマミは笑った。それに青日は笑い掛けて、睦千の後を追う。
「視界がきかない時、頼りにするのは音」
睦千が早足になりながら話し始める。
「ジェシカがまだ逃げているとして、調査員の呼び掛けや足音に反応しないのは、追手も同じ音をしているから」
「つまり、ジェシカちゃんは人に追いかけられているって事?」
「可能性としてね。多分、スマホは落としたんじゃないかな。助けを求めようとして、スマホの電源を入れる。その光で犯人は居場所を突き止める。慌てて逃げようとして、スマホを落とす。それで、その後、逃げ続けているか、どこかに隠れて動けないでいるか」
「怯えて出てこれないのかな」
「それだけならまだいい。一番厄介なのは……青日」
睦千が言葉を切り、青日を呼ぶ。そして、指差した先、ピンク色のカバーが付けられたスマートフォンと血痕があった。
「これってジェシカちゃんの?」
スマートフォンを持ち上げて、画面を確認する。着信履歴が表示された。『マミちゃん』の名前が並ぶ。間違いなくジェシカのスマートフォンだ。
「ジェシカ! ボク!睦千!」
睦千が声を張り上げるが、返事はない。
「睦千、血痕、こっちにもある」
青日が地面を這うように見て、逃げていく血の痕跡を見つけた。それを辿り、細い道へと入っていく。睦千はわざと大きく足音を立てた。ジェシカなら、マミの靴の音に気付いてくれるんじゃないかと期待していた。マミの靴が一番好きなのは、ジェシカだから。
「ジェシカ! 返事して! ボク、睦千だけど!」
呼びかけながら血痕を辿る。そして、それはすぐに途切れた。細い道の行き止まりだ。青日は辺りを見渡し、睦千はその小さな頭の中で八龍の地図を広げる。八龍深文化郷地区、今の場所は
「青日、お地蔵さん探して」
「お地蔵さん?」
「この辺りはカラクリが多い。カラクリを動かすギミックがお地蔵さん」
「なるほど……あったよ!」
青日が乱雑に積まれた竹籠の奥に隠れていた地蔵を見つける。睦千はそれに近寄り、罰当たりにも鷲掴み、緊急事態だから許してほしいが、右にスライドさせた。がこん、と確かな手応え、そして、2人の背後の壁が開いた。
「うわ、すご」
「行こう」
2人は開いた壁に入る。道は左に続いているようで、通路の壁には血のついた指の跡が残っていた。10歩も進むと、ひらけた空間に出る。そして、そこにはうずくまったジェシカがいた。
「ジェシカ!」
睦千が駆け寄るが、反応はない、気を失っている。ジェシカの右腕と右脚には切り傷があった。睦千はブラウスを脱ぎ、切り裂く。柔らかい素材で良かった。そしてその布で傷口をきつく縛る。青日はその間、電話で大狸師匠に報告をしていた。電話を終えると、睦千の方を見て言う。
「ジェシカを病院に運んで、それから事情を聞けたら聞いて、調査の方に合流してだって」
「分かった……青日、ジェシカ、頼んでもいい?」
「そうだね、睦千は手を開けといて。だから、ダーリン、ちゃんと守ってね?」
「分かっているよ、ハニー」
いつもの軽口を言い合って、睦千は来た道とは反対側のドアに手を掛ける。
「一度、向かいのビルに入る。そこからなら下を通って病院まですぐ」
「りょーかーい」
そして、睦千達は外へ出ようとした。最初に出ようとした睦千は、咄嗟に、右手を振りウィッピンを出し向かってくる何かを切り裂いた。
「睦千!?」
「なんか来た」
「なんで分かったの!?」
「なんか、なんか、なんか、分かんない、でも、なんか来るなって、やば、すごい手ぇ震えてる、青日、ほっぺ貸して」
驚きと興奮を落ち着かせようと、睦千は差し出してくれた青日の頬に触れる。青日の頬からは、睦千の震える左手の冷たさが伝わる、あらやだ、睦千ったら可愛らし。
「てか、何来たのか見えた?」
「……四つ足だった」
「例の怪かな?」
「そうだといいな、スピード解決、無能組汚名返上で一面飾れる」
「この間返上したくないって言ってたのに」
「返上しないけどさ……青日、来るよ……」
睦千は、パチン、パチン、と地面を打ち続ける。僅かに視界が開ける。
パチンパチン、とウィッピンの音、そして、街灯が灯る。
その光が翳った。睦千はウィッピンを伸ばし、飛び込んできた物体を絡め取ろうとした。ブチンとウィッピンが千切れる感覚、右手に痺れが走った。
「青日、落ち着かせて」
「できるかなぁー」
「できるできる、青日は天才だから」
「よし、じゃあ、やっちゃお」
青日は灰色と白の、目の前の景色に青色を塗り始めた。今の気分はお家に帰りたい、そんなミッドナイトブルー。
夜空に似た青に侵食された中で、四つ足の怪はきゅっと縮こまり、ふうふうと吐き出していた霧がその身体の奥に引っ込んでいくのを見た。
「こいつだ、霧の怪」
早期解決、ラッキー、臨時ボーナス出るかな、出たら何しよ、青日と沖縄でも行こうかしら。ゆっくりと怪に近づき、レザーパンツの尻ポケットにねじ込んでいた封じ込めの札を取り出した。
瞬間、睦千の右手から血が噴き出した。痛みに札を取り落とす。
「い、た……」
「睦千ッ!」
青色が散り、元の灰色と白色に戻る。睦千の前腕からは血が滴っている。さっきブラウス破っちゃったのに、タンクトップもパンツも駄目になる、靴だけは死守しよう、今日買ったばかりよ、睦千の頭は妙に冷静で、空回っていた。
青日は周囲を見渡す。かつん、かつん、と足音が聞こえてきた。再び、霧が満ちてくる通りに、人影が一つ現れた。睦千も漸く、辺りを見渡せる。人影は男のようで、手に街灯の光を受けきらりと光るもの、刃物だろう。
「……青日、ジェシカを連れて病院に行って」
「睦千は?」
「後から……」
「置いていけるわけないじゃん!」
「ボクは大丈夫。それよりも、あいつはジェシカを傷つけた、でも、ジェシカは逃げた。まだ狙っている」
「だから、逃げろって?」
「うん」
睦千は左手にウィッピンを出す。もう駄目だ、靴にも血が垂れた気がする。これ、落ちるかな、と現実逃避……現実逃避っていうか、日常への懸想。
「まあ、そうだよね。じゃあ、病院でね」
青日はサッと駆け出して行った。睦千は大きく息を吸って、吐く。
「ねぇ、ボクの言葉は分かる?」
人影に声を掛けてみるが、返ってきたのは迫り来る足音。最低限の動きで躱わす。突き出されたナイフは顔の高さだった。
「ちょっと、顔は狙わないでくれる?」
霧の怪はまだ隅で震えてるようだが、霧を吐き始めている。そろそろ中に入らないとやばいかな。睦千は人影に向き合う。
「来なよ」
また、声を掛ける。人影がゆらりと動くのを見て、ウィッピンを思い切り打ちつけた。人影が道路に転がる音を聞き、睦千はウィッピンを上に伸ばし、ベランダの柵に引っ掛ける。そして、そのままウィッピンを縮め、ベランダに転がり込む。そして、窓を割り、ビルの中に入った。
「……空き部屋で良かった……」
埃に咽せ、深くなった傷に顔を顰め、よろけながら部屋を出た。
【6月4日 20時】
睦千は目を開けた。白い天井と、つーんとした消毒液の香り。病院だ、八龍病院の病室。
「目ぇ覚めた?」
ベッドの横、椅子に座ってきた青日が安心したように声を掛けた。
「……ボク、病院まで来たんだ……」
「意識朦朧だったよ。なんで腕にガラス突き刺さっていたのさ……」
「窓ぶち破った」
「怒られるよ」
「後で怒られておくよ」
ふうー、と睦千は大きく息を吐く。頭も重いし、体もふわふわする。
「ジェシカは?」
「大丈夫だよ。マミちゃんにも連絡した」
「ありがとう。あれ、人の方は?」
「睦千斬ったやつ? 報告したよ。みんなで頭抱えたね。霧だけじゃなくて切り裂きジャックまで出てきたのかーって!」
「アハ」
睦千は軽く咳き込みながら、笑う。
「いつから八龍はロンドンになったの」