第5話 ブルー・サンデー・シンドローム

文字数 14,149文字

 ボクが無気力にダラダラと髪を伸ばしていた頃だから2年前になる、2年前の2月の末、ボクは成維に呼び出されていた。
「白川、いづも先生から言伝だ」
 成維に告げられた瞬間、ボクは戦闘態勢に入る。だって嫌いな名前が出たから。
「定期検診は行った」
「相変わらず不安定だから観念しろ。お前にぴったりな問題児くんがいるぞ。会うだけで結構、今日の午後2時に来い、との事だ」
「もう誰とも組まない」
 この頃、半年組んでいた相棒と関係解消した頃で、不安定な状態のまま任務にあたり、勢いのまま物にもあたっていた、悪いストレス解消法だ、反省。
「またあちこち破壊して歩くつもりか?」
「ちゃんと直した」
「ろくに仕事もできねえんだ、会うだけ会いに行け」
「やだ」
「ひどくなってきているだろう」
「3日前にいづもに会ったからあと3ヶ月は会わない」
「まあ、ごねるのを見越して迎えに来てやったぜ、感謝しろよ」
 成維の後ろからヒョイとサングラスをかけた癖毛の男が現れた。反射で窓の方へ駆け出した。一か八か、窓を割って逃げる算段だ、窓から逃げるのは得意だし。
「あ、こら」
 執務机の上から最短ルートを目指したが、サングラスの男に結んでいた髪を掴まれる。髪が長いと痛いし不便だ、でも切るのはめんどくさい。
「ぐ」
 低く唸って彼方此方へ足を伸ばし振り回す。成維がおいと怒鳴っているが、全て無視。逃げようと紙の束やランプを蹴り飛ばした。本日の靴はシルバーのアンクルベルトがついた白いピンヒールであるので、カッターナイフくらいには危なっかしかった。サングラスの男はきらびやかな大振りのピアスやらネックレスやらをシャラシャラと鳴らしながら、またその身体にヒールの鋭い痛みを受けながらボクの首根っこを掴み。執務机から離れる。
「まあまあ落ち着けよ、子虎。さすがに、そのほそっこいヒールは痛いぞ」
 サングラスの男からふわりとラヴェンダーの香りがたちこめた。ボクは手負いの虎よろしく、ふーふーと唸りながら動きを止めた、不本意ながら落ち着かざるを得ない、この男の奇怪病は「ラヴェンダー症候群」と言い、対象を落ち着かせ、大変素直にさせるものであるからだ。
「3日ぶりだね、子虎」
 男の名前は釈迦谷(しゃかたに)いづも、いずも、ではなく、いづも、だ、悪しからず。八龍総合病院の奇怪病専門医である。奇怪病の診断や症状の把握、必要なサポートなど、奇怪病者が生きていくための判断をする医者であるが、ボクはいづもの奇怪病や奇怪病診断の事を思い出すと鳥肌が立ち、暴れ回り窓を壊してでも逃げ出そうというくらいには嫌いだ。端的に言って、大嫌い。
「やだ」
「まだ何も言っていないだろう」
 いづもがボクを下ろす。むすっと膨れた顔で応接用の革張りのソファーにドスンと腰を下ろした。逃亡を諦め、舌先三寸でこの状況を打破する作戦に変更。
「ボクはもう1人で平気」
「診察室を壊さなくなったら言おうねぇこの子虎が。一昨日も派手に壊しやがって」
 してやったりとばかりに、べえっと舌を出す。
「お前がいるのが悪い」
「いい加減慣れろよ」
「無理。生理的に無理」
 しようがないな、嫌いなものはなかなか好きになれないし。嫌いと苦手は違うし。苦手なら好きになる余地もあるだろうけど、嫌いが好きになるって相当努力が必要。でも、ボクはいづもに対して必要以上の労力を割きたくない。
「ボクは1人でもできる」
「制御不可で怪を取り逃すよな、最近。今だって机をこんなに滅茶苦茶にしやがって」
 成維が落ちた書類を拾い上げながら口を挟む。
「お前は組んだ方が安定するだろう。1人じゃ限界がある……だが、お前が色々と詮索されたくないってのは十分分かった」
 相棒お試し期間に無理と言われた人数は数多、そして過去に正式に相棒として組んだのは3人だが、1番長く続いて1年で、最短が3か月だ。ボクの相棒たる条件は少々複雑だ、ちょっとセンサイなんだ、ボク。
「性別、奇怪病について詮索してこない。自分も相棒も大きな変化は好まないが毎日同じも苦痛、多少の変化とハプニングが欲しい。中々難しい条件だ」
 いづもを無言で睨みつける。
「めんどくさくって悪かったってか? 勿論、お前が当然主張していい内容だ、医者としてちゃんと探すさ。人として文句は言わせて貰うがな」
 あーはっはっは! といづもは大声で笑う。成維が迷惑そうに顔を顰めた。
「それで、いづも先生の次のオススメは?」
「自分さえ良ければどうでもいいって言うタイプの子犬だ」
「へえ、相性良さそう」
「こいつも子虎と同じくらいやんちゃでねえ、奇怪病の相性もいいだろうし、お前の大好きな好奇心の塊だ。いいだろう」
「うー」
 唸る。唸り続ける。ソファーの肘置きにしがみついてうーうー唸る。
「お前幾つだよ」
 成維がやはり呆れたように言う。
「まだ18だし」
「今年19だろう。いつまで3歳児みてえなことしてんだ」
「やだったらやだ」
 成維は頭を掻きむしる。なんでここまで駄々をこねるんだ、と言いたげだ。悪かったね、いつまでも子供みたいで。
「どうして嫌なんだ」
「……」
「俺が納得できる理由なら、いづも先生を追い返してやる」
 ジャケットの襟に沈むように顔を埋めて口を開く。
「……次、嫌いになったり、続かなかったりしたら、もう立ち直れない」
 成維は大きく息を吐き出した。これまでの相棒解消の申し入れはボクから出されている。つまり、ボクが限界になって一方的に解消している。これまでの相棒達に非はない、ただのボクの事情だ。何でもないような顔をして、その実、受け入れられなかった事に嫌気がさしていた。だから1人の方がマシだ。1人はつまらないし寂しいが、誰も嫌う事がないから安心する。
「いづも先生、次の奴は本当に大丈夫なんですよね」
「だから、会うだけでいいって言ってんじゃん。まずはお友たちから始めて貰うだけで十分。今、不安定過ぎて外に出せないから、たまに外出する時に手綱握ってくれるだけでいい」
 まあ、組んでくれたら万々歳と付け加えたいづもの頭を成維は容赦なく叩いた。
「しばらく1人で行動するのは許してやる。だが、面会にだけは行って来い」
 成維から視線を逸らし、口を尖らせた。
「合わなかったらそれでいいんだ。人類皆仲良しだったら、戦争なんて起こらないだろう」
 ますます口を尖らせた、地球規模の話をされてもボクはピンとこない。
「こいつ、もう持って行ってもいいか?」
 いづもが痺れを切らし提案すると、ソファーから右手を離した。ウィッピンにて徹底抗戦の構えである。成維は溜息を吐いていづもに話しかける。
「先生、こいつ、抵抗する気ですよ。俺としても建物を壊されるのは不本意だ」
 成維は続けてボクに話し掛ける。
「今、会わせたい奴の好きなものは青色だ。青色以外興味がない」
「……だから?」
「お前に興味はまずない、安心しろ」
「……それでも興味を持ったら分からない」
「そうしたら諦めろ」
 諦めろ。何を諦めればいいんだろう。その時、分かるのだろうか?
「分かった」
 その言葉を聞くなりいづもがボクを抱えようとしたから、その手を払い除けた。
「触んな」
 ゲラゲラ笑い始めるいづもを無視して立ち上がった。



 八龍総合病院は巨匠館1号館の向かいにある。
「こんなに近いから脱走なんかしない」
 その道のりをボクはいづもに首根っこを掴まれながら歩いていた。本部を出てすぐにボクの首を掴み、いづもは機嫌よく鼻歌交じりに歩き始めた。ボクはその手をバシバシと叩いていた。ボクの身長は決して低くないのに、2メートル近くあるいづもにとって、人類は等しく小さい存在だった、まず、それが気に食わない。
「あんなに駄々っ子だったんだ。信用がない」
 残念だったなぁ子虎! とゲラゲラと笑われた、今、ボクの機嫌は底辺まで落ちたけど?
「これから会うのはお前と同い年、今年3歳」
「19」
「失敬失敬。名前は聞いとく?」
「自分で聞く」
「あっそ。性別は男。恋愛に興味はなし。好みのタイプも分からない。そんで青色が大好き」
「へー」
 興味なさげに相槌を打つ。
「病室に入っての注意点だが、死にたくなったらすぐに出て来い、何がなんでもいい、出て来い」
 いづもは急に真面目な声でボクに言い聞かせる。
「奇怪病のせい?」
「ああ、詳細は聞くか?」
「必要ないよ。それに、ボクが他人の奇怪病でどうこうされるわけないし」
「それもそうだけどな。まあ、覚えておけよ」
 院内に入ってもいづもはボクから手を離そうとしない。おかげで患者と看護師からジロジロと注目を集めた。
「離せ」
「さすがの子虎も戦意喪失か?」
「必要以上に見られる趣味はない」
 そう言って下から睨みつけてやると、いづもは簡単に手を離した。
「北棟3階の大面会室だ。迷わずついて来いよ?」
「分かっている」
 いづもの後を追い、奥まった場所の北棟の更に奥へと進んでいく。大面会室はボクも何度か利用させられた事がある。多少暴れてもいいように耐衝撃、防音、監視カメラとマジックミラーが設置されており、隣の小部屋から確認できる。この部屋は奇怪病の特定や奇怪病者の定期検診に使われているのだ。
「まあ、見て驚くなよ?」
 大面会室の前の扉でいづもは怪しげに言う。
「いいよ、別に」
「そうだよなぁ。それじゃあ、いつも通り隣にいるから何かあったら駆け込むなり呼び出すなりしてくれ。命の危険を感じたら、とにかく部屋の外へ出る事、以上」
 それじゃあ、ごゆっくりーといづもはひらひらと手を振って小部屋へと入っていった。でも、ボクはドアを開けられなかった。開けるのが怖くて、自分を落ち着かせたくて、いつものフライトジャケットのポケットに入れていたリップスティックを取り出す。
 昔、無理矢理、キスされた時から人間の唇が苦手だ。自分の唇さえ、見るのが嫌だ。綺麗な色で塗られていれば、まだマシだ。だから、ボクはいつでも口紅を塗る。今日は、ピンク色のバラに似た色、確か、マイ・ダーリンなんていう商品名だった。色が気に入って買ったけれども、この名前だけは嫌いだった。
 誰かに愛される、特に恋をされるのが、ボクには恐ろしい。これまでの相棒も、ボクに恋心を抱いていると知ってからどうしても上手くいかなくて、解消の申し入れをした。彼や彼女たちの事が嫌いになったのではない。ただ、恋心を向けられるのが怖かった。
 恋をしたら、たいていの人間は肌を重ねるだろう。ボクは自分の身体を直視できない程、性別を嫌っている。決めつけられる事が嫌いなのだ、ボクは。だから、性別によってああだこうだ言われたくない。しかし、ボクがどれだけ嫌っていて、どれだけ隠していても、服を脱げば性差は歴然だ。肌を重ねて、1つになりたがる。肌を重ねて愛が伝わると信じて、本能の行為の中に真実があると熱に浮かされた脳味噌で観察して、身も心も1つになろうとする。
 その行為を知った時、ボクは大人になりきれなかった。トイレに駆け込んで、げえげえと胃の中のものを全て、胃液まで出し切ってしまうくらいに、吐いた。自分の身体すら、直視できないのに、五感で自分にも性別があると認識させられ、他人と混ざり合うような行為を許せと? そんなものが、皆が褒め讃える『恋』の正体で、全てを許される『愛』に変わるなんて、そんなもの、ボクは欲しくない。
 ボクは自分の外見が人を惹きつける容姿を持っている事を自覚している、いや、自覚させられた。今は自分の武器だと言い切れるが、数年前までは隠すように生きていた。自慢かと思うなら、それも大いに結構。気持ち悪い勘違い男と粘着質なストーカー女に付きまとわれても、自慢だと言い切れるなら大層おめでたい脳味噌だ。そして、勘違い男もストーカー女も、まっとうな感性を持った人々も同じ事を言う、恋をすれば変わる、愛とは素晴らしい! と。
 なんと、まあ、素晴らしい純粋か!
 恋や愛が全ての人にとって素晴らしいとは、傲慢だ。少なくとも、ボクにはその良さが分からない。
 恋は内面を誰かに預けるような行為だ。知ってもらい、好きになってもらう。必要なら、恋人の好むように変化する。自分のプライドも信条も『愛している』という他者への気持ちだけで、簡単に超えていく。皆、恋をもてはやし、愛を讃える。恋をすると幸せになる、愛とは素晴らしい、それで結構。
 そんなに簡単に変わってやるものか。ボクはボク自身の選択で変わっていくのだ。顔を隠すのをやめた時、もう他人に決められてボクを曲げるのをやめると決めた。ボク自身を変えようと決めたのも、ボクだ。他の誰でもない、白川睦千だ。ボクを好きでいるために、ボクが好きなボクになる。誰かのためじゃない、ボクのためだ。それが白川睦千の生き方だ。だから、好きな人のために、このボクのプライドを簡単に変えられると思うな。ボクが1番好きなのは、ボク自身だ。
 愛し愛されと言う関係は正しい、人は誰でも欲するものだ。だから、ボクは普通じゃない。恋も愛も要らない、人でなしだ。生物失格だね、笑いなよ。
 しかし、どれだけ愛を否定しても、人でなしだと嘆いても、結局は誰か隣にいてほしいと、願ってしまっているのだ。だって、1人はやっぱり寂しい。ボクだって、安心できる誰かの隣にいたい。愚かだった笑いなよ、ボクは笑うよ、アハハ。
 ボクは漸く扉をノックした。はーい、と中から男の声で軽快な返事が聞こえたから、ドアを開けた。しかし、そこには見知った大面会室はなかった。
「いづも先生が会わせたいって言ってたのは、君の事?」
 ボクが知っている大面会室は一面白く、無機質な部屋だ。それが一面青のマーブル模様になっている。その中で同じ年頃の青年が窓際に立っていた。不健康そうな細身の身体に、彼方此方に飛び回っている癖毛、隈がくっきりと寝そべっている垂れ目と乾燥して割れている唇で、なるほど、こいつはイカれているのかもなとその人物を軽く睨んだ。
「そう」
「ふーん、君は全く青くないんだね」
 彼は窓を背にしてボクを見ながら呟く。ぞくりと妙な違和感が襲い、ボクはさっと足元を見た。嫌な予感がした。
「へぇ」
 繰り返すが、ボクの今日の靴はシルバーのアンクルベルトがついた白いピンヒールだ。加えて今日のボクは白いスキニーパンツだ。ついでに付け足すと、ボクは色素の薄い肌をしている。つまり、白い物を身につけると全身真っ白になる。その足元が靴もパンツも肌も、絵の具で塗ったみたいに青く変色している。今のところは妙な寒気だけだが、放置しているわけにもいかないと、ウィッピンを手に出し床に叩きつけた。バシンと音が響くなり、ボクの周りは本来の大面会室の床と部屋に入って来た時のボクの色に戻る。
「なるほど! いづも先生が奇怪病の相性がいいって言ったのはこういう事だったんだ!」
 青年はウィッピンを見て目を丸くして、ぴょんぴょんとゴム毬のように飛び跳ねた。不健康そうに見える割に高く飛び上がっているのが、やけに面白い……無意味にウィッピンを振り回してしまうほどに。
「ねえ! ちょっと遊んでみない?」
「……いーよ」
 部屋のマーブル模様がより一層濃くなりまた足元から青くなるから、ウィッピンを鳴らし撥ねつける。
「不思議な鞭だね!」
 白い光が青色を打ち消す。その隙間へすぐに青色が入り込む。踊るようにボクは光を撒き散らかして、オーケストラを指揮するように彼は青色を散らす。
「君も不思議な青色だ」
「そうでしょお?」
 彼はふらふらと左右に揺れたかと思うと、こちらへ駆け出して来た。マーブル模様は次第に色の境界が分からなくなるほどに濃くなっていく。彼が手を伸ばして、その手が自分の首に伸びているような気がして、慌てて首を押さえてしまう。そして、そのまま自分の首を締めてしまいたくなって、ウィッピンが手から落ちていく。なるほど、いづもが言っていたのはこういう事か。
「このまま遊んでいたいね」
 彼は足を止めてにんまりとこちらのザマを見て笑う。
 今、この最高の時で止めてしまいたいという願望に抗いたくない。そのために、今、この生を止めてしまうのがいいのではないかと手に力が入る。いづもが逃げて来いと言って来ている気がするが、だが、それは正解じゃない。
「……なら、ずっと続けよう」
 君がボクの生死を決めんじゃない。首から手を離して、その手を真上に突き上げる。死は永遠だが、一瞬だ。生は有限だが、一瞬じゃない。ボクは一瞬に満足はできないし。だから、ウィッピンを、再び、その手の中に掴む。
「ちょっと痛いかも」
 彼は驚いたように目を見開いて、ウィッピンの軌道を避けるどころか、こちらへ向かって来た。そして、そのままボクの胸へと飛び込んできた。大型犬に押し倒されるように、そのまま彼を受け止めて床に転がった。そうきたかと反撃に出ようとするが、彼はボクの右手首を掴んでそれをじっと見ていた。部屋のマーブル模様は消え去っていて、元の無機質な白色に戻っている。正直に言って、何が起こっているのか、何が起こるのか、予想がつかなかった。
「……ちょっと……?」
「きぃーれぇー」
 酩酊したような彼の蕩けた声が聞こえた。彼の身体で肺が圧迫されているようで息が苦しい。まただ、また、こうしてボクを支配しようとするんだ。
「……どいてよ……苦しい……」
 左手で彼の腰の辺りをバシバシと叩くと、彼は不満げに、しかし言われるがままボクの身体の上から降りた。しかし、右手は掴んだまま、うっとりと見ている。
「……ちょっと……何……」
 ボクの右手は掴まれているけど手首は動かせそうだ、だから一振りすればすぐにウィッピンが出てくる、ふざけた事を言ってみろ、真正面から打ってやる。
「君の静脈を見ているの!」
「はぁ?」
 ボクは自分の左手首を見た。手首に三本青色の筋が見えている。何の変哲のない人間の手首だ。まぁ、ボクの手首なので、美術品みたいに整っているから、見惚れるのは分かる……いや待て、静脈だ、静脈。静脈の賛美は分からんが、普通の静脈のはず?
「おれ、この青色、好きだなぁ。今までで一番好き。皮膚の下にあるのに、こんなに綺麗に透けていて、しっかりと青い、やっぱり自然にできた青がいいよね。ブルーアイズもいいけど、このいかにも人体っていう色合いが、生命の神秘で、ここまで綺麗な青色、見た事ないよ……おれ、君の色好きになったな。これからも健康でいてね、ずっと綺麗な静脈をおれに見せてよ」
 男の頬が寄せられる。男の頬ずりって、髭が痛いんだよなあと覚悟したが、触れたのは存外つるりとした肌の感覚だ。
「……男? つるんつるんじゃん」
 今度は彼が驚いたようにボクを見た。ペチペチと軽く男の頬を叩いてみる。
「髭生えないの? ほっぺた痛くないんだけど。それともごめん、女の子だった?」
「いーや、男だよ。隣に入院していた子の奇怪病でねー、暇だったし、要らないし、ちょうどよかったから、やってもらったんだー」
 更に頬を擦り寄せてきた。つまりは脱毛か? と自然ともう片方の手で彼の頬を撫でていた。どこまでもつるりとした肉の感触が続いている。その意外な触感に、飛び込んできた彼の温もりに、何よりも『静脈の色が好き』の一言に、好奇心がそわりと動き出した。
 顔が好き、顔だけは好みは人生で一番よく言われた言葉だけど、静脈の色が好き! そんな事、初めて言われた、そのユニークでチャーミングな視点! こんな素敵な視点を持つ人間とこの街を歩いたら、ありふれた日常がほんの少しだけ特別になるだろうか? なるだろうな、なる。この可愛らしい男ともう少し話してみたい、それに、この男が言う、単純で自分勝手な軽い好きは嫌じゃない、そう思うとさ、ちょっとさ、やっぱり、諦められないな。
 だから、口は自然と言葉を紡いでいた。
「……ボクと一緒に、外に出る?」
 彼は顔を上げた。不健康そうな顔だなと思っていたが、大きく見開いた目は、キラキラと蛍光灯の光を何倍にも増幅して輝いていた。その目の下、左右対称の泣き黒子が可愛らしい。特段、可愛らしい顔立ちではないのに、妙に可愛らしく見えて、それすら面白い。
「いいの?」
「うん。君がいいなら」
「おともだちってやつ?」
「そうかもね、嫌?」
「最高。おれ、君の事、最高だって思う」
「どうして?」
「理由なんてないよ! 強いて言えば静脈が好み!」
「頭、空っぽだ」
 素直に感想を述べると、彼はニコニコと笑い出した。
「そう! 頭空っぽなんだ!」
 嬉しげに笑うものだから、ボクは色々と考えるのをやめた。楽しけりゃいいや。今は、とりあえず。
「白川睦千」
「むち?」
「うん。ボクの名前、睦千」
彼はボクの名前を不思議がる事も無く、睦千、と呼んだ、嬉しそうに、呼んでくれた。
「睦千ね! おれ、盛堂青日!」
 あ、お、ひ、と口の中で音を転がした。
「青日」
「うん! 睦千!」
 にへらっと青日は笑った。年下にも見えるような可愛い笑顔だった。
「じゃれあっているところ邪魔するぜ」
 突然開いたドアと、いづもの声に表情筋が無表情のポジションに戻った。条件反射ってやつ。
「ま、まずはお友達になれておめでとう」
「ありがとう!」
 青日は元気に返事をした。
「それで、子犬の青日君はそろそろ退院したいよなあ?」
「したーい」
「というわけだ」
 いづもはボクの方へくるんと顔を向けて言った。
「小虎、しばらくこいつと遊んでやってくれ」
「いづもに言われるのは癪だけど、いいよ」
 うんうんといづもは満足げに笑った
「それで、子犬の奇怪病だが、お前、さっきこいつの奇怪病の症状、思いっ切り食らったろう」
「……うん」
「死にたくならなかったか?」
「……ちょっと?」
「えーマジで。結構濃くしたから、相当死にたくなると思ったよー」
 青日は驚いたように、だが、どこか嬉しそうに言い、その場でくるくると回り始めた。嬉しいと回るのか、やっぱり可愛い男なのかもしれない。
「子犬の奇怪病はな」
「ブルー・サンデー・シンドローム!」
 くるくると機嫌よく回っている青日の元気な声が聞こえた。
「青色、日曜、症候群」
「おれ、月曜日が来るのが嫌なんだよね」
 ピタリと回転を止めた青日がボクに向き合う。
「だから、日曜日も嫌いで、憂鬱になる。もう、死にたーいってくらいにね、そんな時、おれ、青色が見たくなるんだ。透明で、鮮やかで、濃くて、突き刺すような青色。おれにとって、一番きれいな存在なんだ、青って。そういう青色の中で死ねたら最高じゃない?」
 青日は夢を見るような瞳で語る。ボクは、その瞳に惹きこまれた。僅かに青みがかった色と光。初めて、誰かの瞳に惹かれた。ボクの瞳が、誰かを惑わすような色彩を持っている事を知っていたし、この目を使ってピンチを切り抜ける事は当たり前の事だった。それを今日は自分がやられている。確かに、これは、堪んない。
「子犬の奇怪病の症状は、周囲を青く変化させ、それを見た人を憂鬱、特に希死念慮を発生させる、というものだ。いまは大分落ち着いているが、よく暴走する。ちゃんと面倒見てくれよ、子虎」
 癪だなあと再び思いながら、じゃあと提案した。
「なら、今から散歩して来ていい? 青日と。今日天気いいし」
「いづも先生! おれも行きたい!」
 いづもははーはっはっはと笑い、窓を指さした。
「行ってこい!」
 やった! と青日は走り出した。
「早く行こう!」
「うん」
 ふわりと青日の短い髪が揺れて、ふと、髪を切りたいなと思った。今までで1番、短く。久しぶりに変わりたいと思った。この可愛い男の隣に立つのには、最高にかっこいいボクがいい。それに、青日は似合うね、と笑ってくれると思うと、ボクは自然に笑っていた、久しぶりに笑ったのか、ほっぺたが痛かった。



【2年前 3月の晴れた日】
 青日は奇怪病発症時、18になったばかりの少年だった。案の定、周囲の人々を巻き込んで自殺未遂を起こし、八龍総合病院へ入院と奇怪病のコントロールの訓練を求められた。だが、コントロールは一向に上達せず、暴走させては誰かが死にかける事態を繰り返していた。故に、いざという時に青日の奇怪病をコントロールできる誰かがいないと外に出られず、睦千と出会うまで、青日は退院できなかった。
 その日、おれはなんでかご機嫌だった。睦千は、最初は3日に1回、最近は毎日のようにおれを連れ出し、怪の調査がてら、おれに八龍を案内していて、その日も調査におれを同行させていた。
「話し相手がいないと寂しい」
 2回目に会った時、睦千の髪はバッサリと切られていた。すっきりとした短い髪が似合ってかっこいいけれども、時折、今のように可愛らしい事を言う。睦千は不思議人間だ。
「睦千って、結構可愛いところあるよね」
「アレ、ボクを口説くつもり?」
「最高に可愛いよ、はにー?」
「なんだそれ」
「口説くってこんな感じじゃない?」
「まあ、そう……そうかな?」
「じゃあ、睦千はどうやって口説くのさー」
 歩いていた睦千は立ち止まって、おれの顔を覗き込んで、ふっと口角を挙げた。
「ハーニーィ、かわいいね」
 ぽつりとおれだけに聞こえるように呟いた声に、うーんと唸る。
「口説いてないよ。顔で落としにいっているじゃん」
「だって、口で丸め込むより、顔の方が説得力あるから」
 睦千の顔は一般人なのか、と思うくらいに整っていた。鋭利な刃物を連想するような顔のパーツ、その中でやっぱり目は不思議と引き込まれる。光によって色を変える目は何もかも見透かすのかな、と思うけど、案外何も考えていないかもしれない。それくらい綺麗に整いすぎて現実味がない。でも目の前にいるし、普通に歩いているし、くしゃみもするし、やっぱり人間、それだけだ。
「あー確かに、睦千の顔面はパワーがあるね」
 睦千はそうでしょう? と言って白いヒールをカツリと鳴らした。
「まだ、怪は見つからないの?」
「うん」
 睦千はとある怪を追い駆けていた。
「連続失踪事件って、ここ多いの?」
「連続は珍しいかな。2、3日連れ去られていたっていうのは、ままあるけど、大体ケロッと無事に帰ってくる。今回みたいに連続で、帰ってくる気配がないのは珍しい」
 睦千が現在調査している怪は女性を攫っている。被害者は現在3人、被害者が歩いたとされる道に同じ怪の気配がある事から連続失踪事件として福薬會も調査にあたっている。
「こういうのは共通点が当然あるけど、彼女たちの場合は、恋人がいる事、付き合って3か月程度、まあそれくらい」
 カツリ、とヒールが音を立てる。
「おれも話聞いてもいいの?」
「早期解決が望ましいから。ボク以外の視点も欲しい」
「えーおれ、頭は良くないよー」
「結構な進学校で成績優秀って、聞いてもないのにいづもが言っていたけど」
「覚えるのは誰だってできるじゃん」
「嫌味だね」
 そう言った睦千の表情は少々明るくなった。
「なら、お話をちゃんと覚えておいてもらおう、ほら、ここ」
 睦千は足を止め、建物を指差した。1階が古着屋で、地上は5階建て、地下はどれくらい階があるかは分からないけれども、被害者の恋人が住むというのが3階の一室だ。
「マユ!」
 ドアベルを鳴らすとドタバタとドアが開き、必死な形相の男が現れた。
「福薬會の白川です、タケダさんでお間違えありませんか?」
「……そうです……」
 睦千が尋ねると、男の顔から表情が落ち去り、弱弱しい手つきで部屋の中へ案内される。室内は物が整理整頓されているが、テーブルや椅子が乱れたままであったり、食器がシンクに置かれたままであったりと、彼の精神状態が正常でない事をこっそりと囁いていた。
「マユさんの事で調査に伺いました」
 睦千は淡々とした声音で話し始める。
「昨日からマユさんと連絡が取れず、またご自宅にも帰られていないという事でお間違いないですか?」
「はい」
「最後にお会いになったのはいつ?」
「昨日の、朝です、8時頃……」
「マユさんに何かトラブルがあったなどは聞いている?」
「いいえ」
「あなたとの関係は良好?」
「もちろん」
 生意気な睦千の口調と質問の内容に、男の顔がどんどん引き攣って行くのをおれはじっと見ていた。
「例えば、関係が良好でないと変なまじないに心酔してしまい、怪の被害者になってしまう、なんて事がある」
「……俺を疑っているのか? マユは怪に連れ去られたんだ!」
「本当に、そう? あなたに隠し事やマユさんに不審な行動は」
「睦千」
 おれは我慢できなくて睦千の言葉を遮るように口を開いた。
「話が外れているよ」
 睦千は、きゅっと口を結ぶと、申し訳ないと男に謝罪した。それから、一通り被害者の人柄や普段の行動を聞き取る。その間、室内の空気はピンと張り詰めたままだった。
「睦千、いつもああなの?」
 部屋から出て、迷わず睦千に問いかけた。
「ああだから、よく人でなしって言われる」
「あの人、彼女の事、本気で心配していた」
「どうして?」
「本気で動揺していたから」
「それだけで、あの人達は誠実な関係だと判断したの?」
「十分だよ」
 睦千は足をゆっくりと止めて、おれを見下ろした。
「青日も、恋だの愛だのは全て正しくて、人を救うものだと思っているの?」
 それくらいでおれがビビると思ってんの? と睦千の目から視線を逸らさず言ってやる。
「思わない。おれは、恋とか、分からないよ。だからこそ、恋とか愛とかを大切に思っている人を傷付ける事はしない。おれは、好きの否定をしたくないだけだよ」
 睦千もおれと似ていて、恋だ愛っていう言葉に支配された事があるんだと察せられた。おれが初めて奇怪病を発症した時、近くにいたのは当時付き合っていた女の子だった。自分が愛されているか不安に思った彼女が、目の前で手首を切って、おれも殺そうとした。その醜さ! あまりに醜い光景に、青色を強く求めた。おれが知っている一番きれいなものだったから。
 確かに、おれは彼女を特段好んではいなかった。告白されたから付き合っただけ、彼女が求めるからそれに答え続けただけ、恋をしているのが普通だからそうしただけ。普通のふりをしたかっただけだ。当時のおれにとって、彼女との恋愛ごっこは、義務感と決められたレール上の行動で、おれの本心は誰にも理解されないと諦めていた。
「大体の人は、恋は素晴らしいと言うけれども、でも、おれには分からないよ。だから、おれの思う愛っていうのも多分、他人と違っているよ。睦千もそうじゃない?」
 睦千は目を見開いた。睦千もきっと同じだと思っている。睦千も愛なんてくそったれと生きているんだ、多分ね。
「でも、それがおれ達を救わないとしても、他の人は恋とか愛に救われて生きているんだ、そういう人達を傷つけるのは、おれ達みたいな人でなしを作る事だよ」
「……だから、ボクや青日みたいなのは……人でなしって罵られるようなボクらは、黙って傷ついていればいいって言うの?」
 睦千の瞳がきらりと光った。思わず、背筋が痺れた。光ったのは涙なんていう綺麗でしおらしいものではなく、ここでふざけた事を言ってみろ、もう2度と会いたくないと思わせてやるからな、という殺意だ。おれ、睦千のそういう思想が好きとにっこりと笑った。
「傷つかないよ!」
 ブルー・サンデー・シンドロームは、誰かを死に誘う奇怪病だ。奇怪病が暴走するたびに、誰かが死にかけた。誰もが、おれの奇怪病に染め上げられた。誰も彼もがおれの元から去ろうとした、死にたくないもんね。これって、孤独っていうやつだ。
 だけど、睦千は染められなかった。おれの奇怪病に勝った。青色だけを求めていたおれの世界に、睦千の色が塗られた。その鮮やかな白色を塗り潰せなかった。世界に青色だけなら、きっと誰も青の美しさを知らなかった。でも他の色があったから、海や空の色にブルーや青と名前が付いて、美しさが際立ったのだ。他の色がないと、青は『青』と呼ばれないのだ。だから、睦千は特別だ。おれは、睦千にただ生きている事しか望まない。ブルー・サンデー・シンドロームに染められる事なく、自分は白川睦千だと堂々と立っていてほしい。それだけで、いい。
「おれが隣にいれば、結構楽しくて、ちょっとは平気でしょ?」
 睦千は顔に驚いたと言葉を貼り付け、それから吹き出すように笑った。
「はは、ちょっとなんだ」
「ちょっとでも十分じゃない?」
「それもそうか」
「一緒に愛とか何とか

とかに喧嘩売ろうよ、愛なんて大袈裟に言ってないで、単純な都合と薄っぺらい好きだけで楽しくやっていけるよってさ」
 『好き』が『愛』の下位互換なわけがないでしょう、『好き』はどこまでも『好き』で、愛だの気取っているから、本当に大切なものが見えなくなる。おれは、『愛』なんて言葉に酔っている奴らが嫌いだ、愛していると言えば、執着も束縛も許されるわけじゃない、愛だの言って目の前の認めたくないものから目を逸らす、おれの周りにいた愛を語る人間はそんなんばっかだった。だから、

愛をそのまま受け入れられない。真実の愛はただの『好き』だ。純粋な『好き』がおれにとって『愛』と呼べるものだ。
 おれは、それを、愛に酔っている馬鹿に人でなしと罵られて、恋という征服欲に晒されて、世の中へ殺意を滲ませている、目の前の一人に渡したかった。だって、おれに染められなかった、たった一色、たった一人だ、幸せになって、長生きしてもらわなくちゃ困る。おれだって楽しく長生きしたいからさ。
「……悪くないね、それ」
 ようやく階段を降り始める。睦千の方が2段くらい先を行く。かこんかこんと笑い声みたいな間抜けな音が錆びた鉄の階段から鳴り響いていて、愉快だった。
「それでさ、福薬會って楽しい?」
「ボクは好き」
「じゃあ、おれも一緒にやる」
「……いいの?」
 おれを試すように、足を止めた睦千がまた殺意を滲ませた表情で見上げた。
「ボクの相棒の条件、知っている?」
「そんなの、あるの?」
「ボクの奇怪病について訊かない、ボクの性別について訊かない、青日がボクに恋をしたら、相棒解消」
「いーよ。平気、余裕」
 おれが親指を立てて笑うと、ほんと? と睦千が首を傾げた。睦千の目に入り込む光の角度が変わって、明るい緑色に光った。
「ボク、顔には自信あるよ?」
「その顔で、自分の顔は醜いとか言うやつだったら信用できないよ! おれも、欲を言えば、青色のものは身に付けないでほしいけどさー」
 睦千はちょっと怪しくて、多分、色気があるとかそんな感じの表情から、一転、ふはっと吹き出すように無邪気に笑った。
「いいよ。自信満々な青日に免じて、一緒にやってあげる」
 おれは階段を駆け下がって、睦千の隣に並んだ。青日、ボクの服あげる、もう着れないからさ。やったね、でもサイズ合うかな? ハニー、可愛いサイズだもんね。ダーリンがでかいんだよ……とかグダグダ話しながら階段を二人で降りた。その日の日付は忘れたけれども、天気が良くて、青空にぷかぷかと白い雲が1つ2つ浮いていた事は鮮明に覚えている。ああ、あと日曜日だった、人生最高の日曜日だった。
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