プロローグ
文字数 1,998文字
時間を確認しようとしたが、左目は開かなかった。
頬が生暖かく流れる液体を感じているのは出血しているからだ。だが、どこに傷があるのかわからないほど、痛みは全身から湧き上がってくる。
それでも右目はなんとか開いた。ステアリングホイールから、萎んだエアバッグが垂れ下がっている。ヘッドライトは暗闇の中のごつごつした岩を照らしている。車は崖から右よりで落ちたあと、奇跡的に体勢を立て直したらしい。
時計を着けていた左手首は動かなかったが、右手でライトボタンを押すと18時20分をまわったところだとわかった。ということは、意識を消失していたのは5分程度か。
フロントガラスは粉々に割れていて、フレームしか残っていない。フードの右側半分は落下の衝撃で潰れ、不自然に開いた箇所から煙があがっていた。エンジンは切れていた。無意識に自分が切ったのか、衝撃で切れたのかはわからないが、二度と動くことはないだろう。新車なのに1ケ月でこんなことになったのが悔しい。
白い煙の先に、瞬く星が見えた。低い空に寂しく光っているのは、フォーマルハウトだ。ああ、秋だな。いや、こんな状況で壊れてしまった車や星座のことを考えるのもおかしいか。
近くで犬の悲しそうな鳴き声が聞こえた。
軽金属を軽やかに弾く音と、次に起こった振動とともにフードの上で輝く毛並みの大型犬がふわりと現れた。
体の大きさからして成犬だろうか。ガラスが落ちたウインドシールドのぽっかり開いた空間から、円らで大きな瞳が自分を心配そうに覗き込んでいる。ごめんね、というように。
そうだよ、オマエのせいだよ、と言っても仕方ないか。
柔らかな風が、犬の輝く毛並みを揺らした。ヘッドライトに浮き上がっている姿は、貴族のような気品がある。パリコレのファッションモデルに例えてもいいかもしれない。あ、オレにそんなこと考えている余裕はあるのかと視線を落とすと、襲ってきた新しい痛みに後悔したが、その視線の先に何かがキラリと光り、ブレーキレバーにIDタグがひっかかっているのがわかった。Tシャツの胸ポケットに入れていたので、車が落下するときに重力に逆らえなかったようだ。
条件反射でタグを取れと頭が手に命令した。かろうじて動く右手でそのタグをつかむとボールチェーンがするりと落ちた。が、拾えるほど体の自由は利かないのはわかっていたのでチェーンは諦め、ステンレススチール製の認識票をジーンズのコインポケットになんとか入れた。次に、手探りでシートベルトはずした。途端、胸に激痛が走って呻き声が出た。経験したことのない痛みだ。口の中に鉄の味があふれてきたので吐き出すと、葡萄茶色の液体が白いTシャツに広がった。動く方の手で手招きすると犬がおとなしく寄ってきた。首輪につけているドッグダグが、軽い摩擦音を立てた。タグにはアルファベットで名前らしきものが書かれていたが視界がぼやけて見えなかった。こんなものしてるオマエはオレと同類だ。もとい、オレがオマエと同類か。
男が大声で仲間を呼んでいるのが聞こえた。時間がない。待てよ、この状況設定は先週見たアクション映画の「GIX(ジーアイエックス)」みたいじゃないか。
そうだ、しなければならないことがあったんだった。右手でジーンズのリアポケットからなんとかキーホルダーを取り出す。JOURNEYのベストアルバムCDについていた特典だ。つい最近、CD込みで2万5千円で落札したレアモノだが、惜しんでいる暇はない。感覚がなくなりそうな手で彼女のネームタグにホルダーをつけようとした。が、うまくいかない。すると、犬が動かない左手の下にそっと頭を入れて近づいてくれた。そう、そのままじっとしてて。言い聞かせようとしたが声はでなかった。空気を吸っても吸っても息苦しい。落ち着け、焦って落としたらそれで終わりだ。
その意図がわかるかのように犬は動かなかった。
細切れの光が視界に入ってきた。男達が懐中電灯を持って崖を降りて来る。自分が意識を保てる時間は、あと3分もないだろう。まるでウルトラマンじゃないか。自分にツッコミをいれると、美しい毛並みの犬は悲しそうに鼻を鳴らした。
そう、オレは死にかけてるんだ。さっきはオマエのせいだと思ったけど、半分くらいの割合にしておくから、半分程度の罪滅ぼしだと思って協力しろよ。
そのとき、奇跡的にホルダーが犬のネームタグについた。
さあ、行け。
念じながら最後の力を振り絞って右手を動かした。犬は、その意図を理解したようにボンネットをしなやかに弾いて走り去っていった。
この証拠はゼッタイにあいつらにわたさない。事実を明らかにしてやる。
だが、確固な意思は迫ってきた大きな暗闇にあっけなく飲み込まれた。
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