第27話 霊山へ続く道
文字数 1,794文字
4月、工藤信義はむつ中央警察署に署長として赴任した。
青森県下北半島にある小さな警察署ではあるが、退職前の経歴としては上々だ。いや、高卒という学歴からすれば上限に近い。
下北半島は大きなまさかりの形をした部分で、小さな町々と、いくつかの観光名所がある。
霊山の恐山が有名だが、南部生まれの工藤にはあまりなじみがない。
遠いし、死者の口寄せを生業とするイタコのような者とは職務上、関わろうとは思わない。
定年まであと2年。
粛々と市民の安全と署内のコンプライアンス、我が身の保身を真摯に考え、静かに退職できれば御の字だった。
その後は相応の退職金と年金をありがたくちょうだいし、妻の庭仕事を手伝いながら、春は奥入瀬で山菜を、短い夏は白神や岩木山を楽しみ、秋は八甲田の紅葉と温泉巡りだ。
工藤にとって、下北は田舎ゆえに事件も少なく、終わりの時を過ごすにはよい土地といえた。
「工藤署長、ちょっど来でもらえねべか」
9月も終わろうとするある夕方。
国道X号線の見通しのよいカーブで事故が起こり、事故処理で出かけた福士巡査部長からの電話だった。
「なんだ」
「運転手がいぐねくて。一発しめでやってけねが」
事故を起こした運転手が、自分の過失をガンとして認めず、処理が難航しているという。
出向くと、小さな集落を過ぎたところに、カーブを曲がり切れずに電柱に衝突した運送会社のトラックがあった。その前に、思っていたよりもずっと小さな男が、巡査部長とともに立っていた。
「なにもしてねえ」
男が、泣きそうな顔で言い張る。
「おめが運転してらんだべや!」
「んだけど」
巡査部長がため息をつく。
「ハンドルを引っ張られたというんですよ」
「誰に?」
「……わがらね」
男は下を向き、2人の警察官は腕を組む。
「バガこくな。おめ、居眠りしてたんだべ」
下を向いたまま、男はかぶりを振った。
運送業に事故は致命的だ。過失を認めたくないのだろう。
「いいがげんにしろじゃ! このもつけが!」
「福士巡査部長、市民になめだ口きぐなよ。あんた、むつ中央警察署署長の工藤だ。何、悪いようにはしねえ。安心してけ」
1人が責め立てたあとに1人が助け舟を出す。
ここで意地を張っても無駄だ、うまくやれと暗にほのめかす。
だが、男は「なにもしてねえのに、ハンドルひっぱられだんだ。わは、悪ぐねえ」とくり返した。知恵が少し足りないのかと思うくらい、かたくなだった。
9月の空気はすでに冷たく、思いのほか日が暮れるのも早い。
時計を見ると、6時をとっくに回っている。処理班はすでに帰り、残っているのは、3人だけだ。
「わいは、もうこったら時間」
ふと周囲を見ると、逢う魔が時だ。
下北の空はさえぎる物がなく、広い。
広いけれども、いつも低い雲がたちこめて工藤を息苦しくさせる。
その雲が白から青へ、そして灰色へとみるみるうちに変化していく。
あっという間にお互いの表情が見づらくなる。
「もういいじゃ! わが悪がった!」
突然、男が叫んだ。
「ここさいたぐね! 行ぐべ! 帰るべ!」
巡査部長がホッとした表情を浮かべる。
「んだんだ。帰るべし」
異論はなかった。
「あどは署でやるべ」
工藤たちは署に戻ることにした。
巡査部長が帰り際に「見ましたか」と聞いてきたが、工藤は「何がじゃ」と相手にしなかった。
もう二度とこの道で事故は起こさんでくれよと、工藤は切実に願う。
青と赤のトタン屋根は、国道よりやや低い位置に並ぶ。
恐山へと続く一本道は、まるで魚眼レンズでのぞいたように、集落の家々は丸く外へ外へと広がり、焦点を当てようと思うと逃げていく。
暮れなずむ空の下、磨りガラスに灯りがともり、ガタンガタンと引き戸をこじあけようとする音。
傾いた窓のすき間から黒ずんだ老婆が顔を出し、廃棄された風呂桶のそばに着ぶくれした幼児が遊んでいる。
あの道沿いの家々がすべて廃屋だと気づいたのは、配属して1カ月以上経ってからだ。無人の集落に、見えない人影がうろつく。その道の先には恐山がある。
あれらが何であるかなど、工藤は知りたくもない。
おそらく前任者も、その前の署長も、ここに赴任してきた者は、そう考えたに違いない。
「あと1年ちょっとだじゃ」
ひとりごちて、目をつぶる。
見てはいけないものなら、見なければいい。
目を閉じてやり過ごしていれば、いずれ定年なのだから。
青森県下北半島にある小さな警察署ではあるが、退職前の経歴としては上々だ。いや、高卒という学歴からすれば上限に近い。
下北半島は大きなまさかりの形をした部分で、小さな町々と、いくつかの観光名所がある。
霊山の恐山が有名だが、南部生まれの工藤にはあまりなじみがない。
遠いし、死者の口寄せを生業とするイタコのような者とは職務上、関わろうとは思わない。
定年まであと2年。
粛々と市民の安全と署内のコンプライアンス、我が身の保身を真摯に考え、静かに退職できれば御の字だった。
その後は相応の退職金と年金をありがたくちょうだいし、妻の庭仕事を手伝いながら、春は奥入瀬で山菜を、短い夏は白神や岩木山を楽しみ、秋は八甲田の紅葉と温泉巡りだ。
工藤にとって、下北は田舎ゆえに事件も少なく、終わりの時を過ごすにはよい土地といえた。
「工藤署長、ちょっど来でもらえねべか」
9月も終わろうとするある夕方。
国道X号線の見通しのよいカーブで事故が起こり、事故処理で出かけた福士巡査部長からの電話だった。
「なんだ」
「運転手がいぐねくて。一発しめでやってけねが」
事故を起こした運転手が、自分の過失をガンとして認めず、処理が難航しているという。
出向くと、小さな集落を過ぎたところに、カーブを曲がり切れずに電柱に衝突した運送会社のトラックがあった。その前に、思っていたよりもずっと小さな男が、巡査部長とともに立っていた。
「なにもしてねえ」
男が、泣きそうな顔で言い張る。
「おめが運転してらんだべや!」
「んだけど」
巡査部長がため息をつく。
「ハンドルを引っ張られたというんですよ」
「誰に?」
「……わがらね」
男は下を向き、2人の警察官は腕を組む。
「バガこくな。おめ、居眠りしてたんだべ」
下を向いたまま、男はかぶりを振った。
運送業に事故は致命的だ。過失を認めたくないのだろう。
「いいがげんにしろじゃ! このもつけが!」
「福士巡査部長、市民になめだ口きぐなよ。あんた、むつ中央警察署署長の工藤だ。何、悪いようにはしねえ。安心してけ」
1人が責め立てたあとに1人が助け舟を出す。
ここで意地を張っても無駄だ、うまくやれと暗にほのめかす。
だが、男は「なにもしてねえのに、ハンドルひっぱられだんだ。わは、悪ぐねえ」とくり返した。知恵が少し足りないのかと思うくらい、かたくなだった。
9月の空気はすでに冷たく、思いのほか日が暮れるのも早い。
時計を見ると、6時をとっくに回っている。処理班はすでに帰り、残っているのは、3人だけだ。
「わいは、もうこったら時間」
ふと周囲を見ると、逢う魔が時だ。
下北の空はさえぎる物がなく、広い。
広いけれども、いつも低い雲がたちこめて工藤を息苦しくさせる。
その雲が白から青へ、そして灰色へとみるみるうちに変化していく。
あっという間にお互いの表情が見づらくなる。
「もういいじゃ! わが悪がった!」
突然、男が叫んだ。
「ここさいたぐね! 行ぐべ! 帰るべ!」
巡査部長がホッとした表情を浮かべる。
「んだんだ。帰るべし」
異論はなかった。
「あどは署でやるべ」
工藤たちは署に戻ることにした。
巡査部長が帰り際に「見ましたか」と聞いてきたが、工藤は「何がじゃ」と相手にしなかった。
もう二度とこの道で事故は起こさんでくれよと、工藤は切実に願う。
青と赤のトタン屋根は、国道よりやや低い位置に並ぶ。
恐山へと続く一本道は、まるで魚眼レンズでのぞいたように、集落の家々は丸く外へ外へと広がり、焦点を当てようと思うと逃げていく。
暮れなずむ空の下、磨りガラスに灯りがともり、ガタンガタンと引き戸をこじあけようとする音。
傾いた窓のすき間から黒ずんだ老婆が顔を出し、廃棄された風呂桶のそばに着ぶくれした幼児が遊んでいる。
あの道沿いの家々がすべて廃屋だと気づいたのは、配属して1カ月以上経ってからだ。無人の集落に、見えない人影がうろつく。その道の先には恐山がある。
あれらが何であるかなど、工藤は知りたくもない。
おそらく前任者も、その前の署長も、ここに赴任してきた者は、そう考えたに違いない。
「あと1年ちょっとだじゃ」
ひとりごちて、目をつぶる。
見てはいけないものなら、見なければいい。
目を閉じてやり過ごしていれば、いずれ定年なのだから。