これで役者は揃った(一)

文字数 2,280文字

 3月24日の木曜日。
 落ち込んでいても明日は来る。仕事も来る。引き受けた分のチラシは片さなければならない。
 足には履き慣れたランニングシューズ。自転車の後ろ籠には色とりどりのチラシ。肉離れを起こしたふくらはぎはまだ若干痛む。当分は筋肉の負担を減らす為に自転車配布で頑張らないと。
 朝方まで降っていた雨のせいで、正午近い今でも雫が光るポストが幾つか有った。私はチラシを濡らさないように気をつけて、そっとポスト口に投函していった。

「カナエさん」

 私が仕事を終えるタイミングで声が掛かった。誰が呼んだのかはすぐに判った。サイカナ探偵団のサイである。

「お疲れさま。そっちも仕事終わり?」
「ええ。二十分前に」

 今日は才と約束をしていない。それなのに私は彼が目の前に現れる予感がしていた。これまでの才の行動パターンから、そろそろ接触してくるだろうなと読んでいた。

「行きましょうか」

 才は行き先も告げずに歩き出した。私は拒否せず自転車をゆっくりこいで従った。何となく彼が向かう先も予測できた。これを以心伝心と呼ぶのだろうか。少しずつ才の助手になりつつある自分が怖かった。
 案の定、才は木嶋友樹が殺害されたアパート前に私を伴った。正午の太陽が真上から照らしていたので、陰惨な事件が起きた建物にしては明るい印象を受けた。それとも事件続きで、私の感覚が麻痺しているのかもしれない。

「ここが、全ての始まりだったんだよね」

 私はしみじみと言った。才と出会い、死体を発見して、平凡な日常を奪われた場所。

「事件の始まりはここじゃないですよ。美波さんのお父さんが、木嶋さんよりも前に襲われてますから」
「私達にとっては、という意味。木嶋さんの死を切っ掛けに、私達はマングローブに(まつ)わる事件に足を突っ込むことになったんだから」
「そうでしたね。マングローブを知ったのは木嶋さんの部屋でしたね。そこからゴッドに話が繋がったんだった」

 シリアスな場面のはずなのに、マングローブやゴッドという単語を交えるせいで、自分達が凄く間抜けな会話をしている気分になる。

「……慎也さんのこと、何か聞いている?」

 テレビでは事件のおさらいばかりで、新情報が報道されていなかったのだ。

「美波さんの話だと、慎也さんはまだ逮捕も拘留もされてないそうです。重要参考人という扱いのようですね」
「そっか……」

 監視はされているだろうが、今はまだ慎也は自由行動ができているようだ。しかし……。

「警察は絶対、慎也さんを犯人だと思っているよね?」
「あの刑事の態度だとそうでしょうね」
「だよね……」

 佐野刑事はともかく、堂島刑事は完全に慎也を犯人だと想定した上で、しつこく質問を繰り返していた。刑事が慎也の無実の訴えを聞いてくれる気がしなかった。
 他の人はどう思っているのだろう? 娘の聖良。後輩の海児。そして何よりも彼は。

「才くん、あなたは慎也さんが犯人だと思う?」
「判りません。俺には渚慎也という人物像が掴めていません」

 きっぱり否定してほしかった私は、才の曖昧な返答を聞いてがっかりしてしまった。そんな私を見て才が苦言を呈した。

「カナエさん、不倫は駄目です。誰も幸せになりません」
「ほぇ!?

 思いもよらない言葉を投げられて、私の口から変な音が出た。教養有るエレガントなマダムなら一生発しない声だ。

「不倫!? 誰と誰が!?
「慎也さんのことが好きなんじゃないんですか?」
「私が!?
「あれ、違うんですか?」

 私の全身からぶわっと大量の汗が噴き出した。更年期という訳ではない。

「いやいやいや、無いわ! いや好きなのは好きだけれどさ」
「どっちですか」
「好きだけれど、違う! そういう好きじゃないの!」

 才にとんでもない誤解をされていた。

「アレだよ、アレ。中学や高校に入学したばかりの頃、よく知らないのにさ、上の学年の先輩に憧れたこととか無かった?」
「まぁ、一度くらいは」
「私の慎也さんに対する想いはそれと同じなの。本気で慎也さんとどうこうなりたいなんて考えていないよ。ただカッコイイってうっとりして、遠くからキャーキャー騒ぎたいだけ」

 もう新婚時代のようなトキメキは無いけれど、それでも夫とは生涯を共にしたいと願っている。

「そうでしたか……」

 才の目尻が垂れた。笑ったのだ。

「良かったです。カナエさんには、園長先生のようにはなってほしくないから」
「……………………」

 そうだった。この子は、不倫の末に哀しい結末を選んだ恩師を見ているのだった。私の慎也へのミーハーな好意が、才のトラウマを刺激してしまったかもしれない。ごめんよ。

「慎也さん以外で、俺、怪しいと思っている人物が居ます」
「そう」
「でもその人には動機の面で……」
「ちょ、ちょっと待って!」

 不倫の話題に動揺していて、才の重要な発言を右から左に聞き流してしまっていた。というか相手がボーっとしている時に重要な発言はすんな。

「怪しい人が居るの!? 慎也さん以外で!?
「ええ。ただしその人が犯人だとしても動機が不明です。木嶋さんと坂上さんを殺しても、その人が得をするとは思えないんですよね」
「だ、誰なの!?
「ん-……。犯人だと確定していないのに名前を出すのはちょっと。その人の名誉に関わりますから」

 何を急に常識人ぶっているんじゃい。荒神美奈子やゴッド☆俊のことは散々こき下ろしてきたくせに。
 才は成長しているのだろう。憶測で人を判断してはいけないと彼なりに慎重になっているのだ。それはとても良い心がけである。でも今は常識をかなぐり捨てて、思いついたその人の名前を言いなさい。
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