「あなたと」
文字数 8,842文字
夏休みを二週間後に控えたその日の放課後、私は担任の皐月先生に呼び出されていた。
理由は――。
「お前な、なんで俺の数学だけこんな点数なんだ?」
「すみません……」
「他の教科はいいのに……」
皐月先生はため息をついた。
机の上に並べられた中間テストの成績を見て、最下位すれすれな数学の順位に泣きたくなる。
「このままじゃ卒業できないぞ」
皐月先生はもう一度ふかーいため息をつきながら言った。
「学年末で一つでも赤点があれば、進学が決まっていても卒業させてやれないんだぞ」
「ええー! そんなの酷い!」
「酷いのはお前の点数だ。……そこでだ、奥村のこの状況はさすがにまずいので特別授業をしてもらうことにした」
「特別授業……?」
「ああ。――藤堂先生」
皐月先生の言葉に、私たちの後ろに座っていた誰かがこちらを向いた。
「知っているか? 藤堂先生」
「いえ……」
「そうか。まあ、お前らの学年は担当してないからな。春に新任の紹介で挨拶があったけど覚えてないか?」
新任……。そういえば、若い先生がいたような気もする。……でも、その藤堂先生がどうしたというのだろう。
そんな私の心の声が聞こえたかのように、皐月先生は続けた。
「本当は俺が教えたらいいんだろうけど、さすがに忙しい。けど藤堂先生なら教科担当だけだからな」
「それって……」
「夏休みまでの二週間、藤堂先生に数学を教えてもらえ」
当たり前のように言う皐月先生に、藤堂先生は苦笑いを浮かべる。
ちなみに、と皐月先生は続ける。
「こいつな、俺の教え子なんだ」
「え……」
それで、困ったような顔をしつつ、断れない雰囲気を出しているのか……。
いや、それよりも。
「悪いですよ、そんなの! 藤堂先生だって忙しいでしょうし……」
「そんなこと言ってたら本当に卒業できなくなるぞ」
それは困る、凄く困るけど……。
チラッと藤堂先生の方を見ると、私の視線に気付いてニッコリと笑った、
「俺のことなら気にしないで。俺も昔、皐月先生に教えてもらったから」
「え?」
「お前が赤点とったら俺の評価が下がるだろ! なんて言って、放課後付きっ切りで教えてくれたよ」
「そうなんですか……?」
「うん。だから君のことは、責任を持って俺が教えるよ」
優しく微笑みながら、嫌だとは言わせない口ぶりで藤堂先生は言った。
***
翌日の放課後、重い足を引き摺るようにして私は指定された教室へと向かった。
「失礼しまーす……」
「お、ちゃんと来たな」
そこには、教卓にもたれかかるようにして、藤堂先生が立っていた。
「――んじゃ、はじめようか」
席についた私に、藤堂先生は何枚かのプリントを渡すと向かいの席に座った。
「どこまで出来るか確認したいから、今日はこれ解いてくれるか」
「はい」
渡されたプリントを一枚ずつ進めていく。問題は高一の範囲からこの間の中間の分まで幅広く用意されていた。
「すみません、私のせいで……」
「そんなこと気にするな。でも申し訳ないと思うなら、夏休み明けの期末試験でいい点数取ってくれると助かるかな」
じゃないと皐月先生に怒られるからさ、と藤堂先生は笑った。
その笑顔につられて私も笑いそうになる、けれど……。
「良い点数、取れないかも……」
「ん?」
「私、本当に数学がダメで」
「――みたいだな」
プリントを覗き込むと、藤堂先生は苦笑いを浮かべた。
上から順に全ての回答欄を埋めているはずなのに、そんな顔をされてしまうということは余程酷いのだろう……。
居た堪れなくなって俯いた私の頭に、何かが触れた。
「え……?」
「まぁ、そんなに気負うことないよ」
「藤堂、先生……?」
ポンポンと子供をあやすように私の頭を撫でると、藤堂先生は笑った。
「そのために俺がいるんだから。期末テストで皐月先生を驚かせてやろう」
「できるかな……」
「できるさ。――その代わり、ビシバシいくからな」
「はい!」
私の返事に、藤堂先生は優しく微笑んだ。
その笑顔に――ほんの少しだけ特別授業が楽しみになった。
***
「だから! なんでそうなるんだ。こっちがこうなら――」
「そっか!」
「そっかじゃない。一回間違えたところは確認する」
特別授業が始まって一週間が経った。放課後は毎日、藤堂先生のもとで数学のプリントを解き続けていた。けれど……。
「ホントに期末テストで挽回できるのかな……」
休憩時間、思わず呟いた私を藤堂先生は意外そうな顔で見た。
「えらく弱気だな」
「だってダメダメじゃないですか……」
丸つけの終わったプリントを確認するけれど、相変わらず間違いだらけ。まだ赤点回避すら難しそうだ。
「でも、一週間前に解けなかった問題が今は解けるようになってるよ」
「え……ホントですか!?」
「こことか、初日のプリントにも同じような問題入れてただろ」
「どれです……か……」
慌ててプリントを覗き込む……と、目の前に、藤堂先生の顔があった。
「っ……ご、ごめんなさい!」
「お、おお……」
心臓が、ドクンドクンと大きな音を立てているのが分かる。
落ち着け……落ち着け……。
思わず顔を逸らしてしまったせいで流れた微妙な空気を追い払うかのように、ゴホンと咳払いすると藤堂先生はプリントを指差した。
「ほら、ここ」
「……ホントだ」
「奥村は他の教科がいいんだから、地頭は悪くないはずだ。数学は苦手意識もあるのかな? 解きながらテンパってるだろ」
「う……」
確かにそうかもしれない。同じような数式を物理のテストで出されたら解けるのに、数学では間違えてしまう……。
解かなきゃいけない、間違えちゃいけない、今度こそ、そう思えば思うほど間違いが増えていく。
「その苦手意識さえなくしてやれば十分点数は取れると思うよ」
「でも、どうやって……」
「うーん、たとえば数学と何か好きなものが結びつけるとか」
数学と、好きなもの――。
思わず顔を上げた私は、藤堂先生と目があった。
数学と、好きな……。
「っ……」
今、私、何を考えた……?
好きなものって言われて、それで――。
ううん、違う。今のは数学と藤堂先生が結びついただけで、好きなものと結びついたわけじゃない。
そんなわけ、ない……。
「……どうした?」
「なんでも! ないです!」
「そ、そうか?」
気にしないでくださいと言うと、少し不思議そうな顔をしながら藤堂先生は続ける。
「まあ最初は難しくても、ちょっとずつ苦手意識をなくしていくといいよ。あと深呼吸かな。テスト用紙をめくる前に深呼吸。落ち着いて、それから解き始める」
「深呼吸、ですか?」
私の言葉に、藤堂先生はニッコリと笑う。
「自主学習で点数が取れるのに、本番になると解けないっていう子の大半は、緊張や焦りなんかから本来の力が出せないんだ。だから、一呼吸おいて落ち着く。これが大事だよ」
「そうなんですね……。深呼吸、頑張ります!」
「……ふっ」
私の返事を聞いた藤堂先生は、何故か笑っていた。
「ホント、真面目だな。もっと肩の力を抜いてさ、気楽にやればいいんだよ。俺みたいにね」
藤堂先生がおどけて言うから思わず笑ってしまう。
そんな私を見て藤堂先生も笑う。
「奥村は、そうやって笑ってる方がいいな」
「え……?」
「あ……」
藤堂先生の言葉に思わず赤くなってしまった私から目を逸らすと……藤堂先生は困ったような表情で笑った。
「――なんて、な」
「…………」
「…………」
沈黙が、私たちを襲う。
でも、妙に甘ったるくて、気恥ずかしいこの沈黙は――不思議と嫌じゃなかった。
「……続き、しろよ」
「はい……」
カリカリとシャーペンがプリントの上を走る音だけが響く。
時折聞こえてくる藤堂先生の息遣いにドキドキする。
「っ……」
違う、そんなんじゃない。そんなわけがない。
だって、先生だし。ついこの間まで存在も知らなかったのに、そんなこと――。
心の中に湧き出てきた感情を、必死に否定する。
でも、どうしても否定しきれない感情に、思わず頭を抱える。
「……奥村?」
名前を呼ばれただけ。
なのに、ただそれだけのことで……こんなにも心臓がドキドキして、顔が熱くなる。
「どうした? 体調でも悪いのか?」
顔を覗き込まれると――心臓が痛いぐらいに、苦しい。
こんなに近くにいるのに……。
「藤堂、先生……」
「奥村……?」
無意識に、藤堂先生へと手を伸ばしていた。
その手が、藤堂先生に触れた瞬間――私は弾けるように立ちあがった。
「奥村?」
「ごめんなさい! 今日は帰ります!」
「ど、どうした?」
「すみません!」
私は鞄を掴むと、教室を飛び出した。
廊下を駆けぬけて昇降口へと向かう。
「私の……バカ……」
静まってほしいと思えば思うほど、心臓の音は激しさを増す。
ダメだと分かっているのに、理性とは裏腹に、感情は叫ぶ。
「好き……」
言葉に出してみたら、その想いは思ったよりもすんなりと、私自身の中へと入ってくる。
違う、そうじゃないと否定してみたところで、一度湧き出た感情はどんどんと大きさを増していく。
「私、藤堂先生のことが……好き……」
真剣な表情、笑い声、優しい笑顔……。
思い出せば思い出すほど、胸が苦しくなる。
行き場のない思いを抱えたまま、私は――その場に立ち尽くしていた。
***
翌日、いつもより早い時間に目が覚めた。
期待していたわけじゃない。でも……もしかして、に賭けて私はいつもより早く家を出た。
「あ……」
いた……。
学校へと向かう道のりで、私は見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「藤堂、先生……」
「え?」
「あっ……」
思わず呟いた声が聞こえたのか、藤堂先生は私の方を振り返った。
「お、おはようございます」
「おはよ。早いな」
「目が覚めちゃって」
苦しい言い訳だろうか……。
追いついた私に、藤堂先生は大丈夫か? と、言った。
「昨日、具合悪そうだったからさ」
「あ、えっと……」
「ごめんな、気付いてやれなくて」
申し訳なさそうに藤堂先生が言うから、私は慌てて首を振った。
「大丈夫です! もう元気ですから!」
「ならいいんだけど」
「はい! 今日もよろしくお願いします!」
「おう」
クスクスと笑うと藤堂先生は歩き出す。
その隣を私は歩く。
何か喋らなければと思えば思うほど、言葉が出てこない。
「……あの」
「ん?」
「いえ、何でもないです……」
「そうか」
それっきり藤堂先生も口を開くことはなかった。
私たちは黙ったまま学校へと向かう。
普段はお喋りな私なのに――藤堂先生の隣では、何故か言葉が出てこない……。
話したいことは、たくさんあるはずなのに――。
「――んじゃ、俺職員室行くから」
「え、あ……はい。また放課後に」
その声にハッと辺りを見回すと、いつの間にか学校へと着いていた。
じゃあな、と手を振って、藤堂先生は職員室へと向かって歩いて行く。
名残惜しげにその背中を見つめていると――突然、藤堂先生が振り返った。
「え……?」
「っ……」
藤堂先生は私と目が合うと、慌てて顔を逸らしてしまう。そして――今度は振り返ることなく、歩いて行った。
「心臓、うるさい……」
静まらない心臓の音が、いつまでも私の中で鳴り響いていた。
***
藤堂先生のおかげで、少しずつ数学が楽しくなってきていた。
そんなある日、私は昼休みに皐月先生に呼び出されていた。
「失礼します」
「おう、来たな」
職員室に入ると、先生たちの視線が私に向けられた気がした。
……どうして?
「……数学はどんな感じだ?」
「え?」
「少しはマシになったか?」
「あ、はい! 少しずつですけど解ける問題が増えてきました!」
「そうか……」
珍しく皐月先生の歯切れが悪い。
いったいどうしたというのだろうか……?
「……先生?」
「単刀直入に言う。今な、学校で嫌な噂が流れている」
「嫌な、噂?」
「放課後の教室で、お前と藤堂先生がその……いかがわしいことをしているという噂だ」
「なっ……」
思わず言葉を失った私に、皐月先生は申し訳なさそうに言う。
「もちろんそんなことはないと分かっている。そもそも数学を教えてもらうように言ったのは俺だからな。でも、それを聞いても納得しない人がいる。……藤堂にも誤解されるような行動を本当にしていなかったかと注意したところだ」
「そんな……」
さっきの視線は、そのせいで……?
「中途半端な状態になって申し訳ない。だが……特別授業は終わりにする」
「え……?」
「もう藤堂先生には伝えてある。まあ、夏休みを挟めばこんな噂も消えると思うから――」
「でも……!」
話を終わらそうとする皐月先生の言葉を遮った私に、冷たい視線を向ける。
「何か問題でもあるのか?」
「っ……」
「ないならこの話は終わりだ。もう行っていいぞ」
「……失礼、しました」
トボトボと職員室から出ると、私は教室へと向かう。
そんな私に向けられる視線に、嫌でも気付く。
どうして今まで気付かずにいられたんだろう。
それほどに、沢山の人が私を見てコソコソと何かを言っていたのに……。
「あ……」
廊下の向こうから歩いてくる藤堂先生の姿が見えた。
「っ……」
目が、あった。
なのに――藤堂先生は私から目を逸らすと、何も言わず通り過ぎて行った。
「どうして……」
その問いに……答えをくれる人は、いなかった。
***
結局、藤堂先生と話をすることなく夏休みを迎えた。
うだるような暑さの中、涼しさを求めて行った図書館からの帰り道――見覚えのあるシルエットが目に入った。
「藤堂、先生……」
私に気付くことなく藤堂先生はどこかへと歩いて行く。
こんなにも近くにいるのに、話しかけることすら出来ない。
「なんで……」
好きだと、気付かなければよかった。
そうしたらあんな噂なんて笑い飛ばせたのに。
今だって、何も考えずに話しかけることができたのに……。
「っ……」
溢れ出る涙を隠すように、しゃがみ込む。
足元のアスファルトには、ポタポタと零れ落ちた涙が黒いシミを作っていた。
「藤堂、先生……」
名前を呼んでみても、あの時のように藤堂先生が振り返ってくれることはない。
胸が、苦しい。
こんなにも、こんなにも好きになってるなんて、思ってもみなかった。
「こっち、向いてよ……せん、せ……」
「――どうした?」
「え……?」
顔を上げると、そこには――心配そうに私を見つめる、藤堂先生の姿があった。
「どうし、て……」
「……呼んだだろ?」
「っ……」
「奥村の声が聞こえた気がして、振り返ったらしゃがみ込んでたから。……大丈夫か?」
「だいじょ……っ……」
「お、おい!」
慌てて立ち上がった私は――目の前が真っ暗になった。
倒れる……! そう思った私は思わず目を瞑る。
けれど――。
「え……?」
いつまでたってもアスファルトとぶつかる衝撃が来ることはなく……不思議に思ってそっと目を開けると、私の身体は藤堂先生の腕の中にあった。
「大丈夫か!?」
「は、はい……」
慌てて離れようと藤堂先生の身体を押しのける……けれど、勢いよく動いた私を再び眩暈 が襲う。
「っ……」
「……送っていく。歩けるか?」
「え……?」
「家、こっち? それとも……」
「だ、大丈夫です!」
藤堂先生に迷惑をかけるわけにはいかない……。
慌てて離れようとするけれど、そんな私の腕を藤堂先生は掴んだ。
「無理するな。……行くぞ」
「あ……」
強引に、でも優しく私の腕を握りしめたまま藤堂先生は歩き始める。
その手の温もりが、ひんやりと冷たい私の腕に伝わって……。
「藤堂、先生……」
これ以上は、ダメだ。
私のせいで、藤堂先生に迷惑をかけてしまう。
そう頭ではわかっているのに……一度走り出した感情は、止めることができない。
「おくむ――」
なかなか歩き出さない私を不審に思った藤堂先生が振り返ろうとした瞬間――私は、その背中に抱き付いた。
「好きです」
「え……?」
「藤堂先生のことが、好きです」
藤堂先生が、息を呑むのが分かる。
拒絶される――そう思った私は、必死に笑った。
「なん、ちゃって! ビックリした?」
「奥村……」
「だ、ダメだよーちゃんと笑ってくれなきゃ洒落になんなくなるじゃん」
「っ……」
「ちゃんと笑って、それで……ちゃんと……」
泣くな。
泣いちゃ、ダメだ、
「ちゃんと、フッてくれなきゃ……」
必死に堪えようとした涙が、頬を伝う。
「諦め、られないよ……」
涙を拭おうと藤堂先生から手を離す。必死で笑う私を――振り返った藤堂先生は抱きしめた。
「な……」
「――黙って」
「っ……」
藤堂先生の心臓がドキドキと音を立てているのが分かる。
「せん、せ……」
どれぐらいの時間そうしていただろうか……。
じっとりとした暑さに顔を上げると――困った顔で微笑む藤堂先生の姿があった。
「……帰れるか?」
「はい……」
さっきまでの出来事が嘘のように、私たちは歩き出す。
どうしてあんなことをしたのか聞きたかったのに、何も言えないまま――。
「ありがとうございました」
「あんま無理するなよ」
じゃあな、と言って藤堂先生は背を向けた。
「あの……っ!」
「――ごめんな」
思わず呼び止めた私にそう言うと……振り返ることなく藤堂先生は去って行った。
ごめんねの意味が分からないまま、私はその背中を見送ることしか出来なかった。
***
あの日から、一ヶ月が経った。
あれから藤堂先生とは一度も会えていない。
どうしてあの時抱きしめてくれたの……?
ごめんって、どういうこと……?
夏休み中、何度も何度も考えた。
でも、答えは分からない。
なら――。
「藤堂先生!」
始業式の朝、人気のない廊下に藤堂先生はいた。
まるで私が来るのを待っていたかのように――。
「……おはよう」
「おはよう、ございます」
空気が、重い。
「あ、あの……私、話が……」
「――俺も、話があるんだ」
絞り出すようにして言った私の言葉を最後まで聞くことなく、藤堂先生は言った。
「俺――学校辞めたんだ」
「え……? いつ……?」
「昨日付けで。ホントは会わずに行こうと思ってたんだけど……バカだよなぁ」
「どうして……?」
「…………」
「私の、せい……? 私が、あんなこと言ったから……? それで……」
違うよ、と言うと……藤堂先生は笑った。
「俺が、奥村のことを好きになったから」
「っ……」
その笑顔が、あまりにも悲しくて――私は何も言えなかった。
「俺、さ――海外に行くことにしたんだ」
「え……?」
「大学の時お世話になった教授に誘われてさ」
「それって……いつ帰ってくるんですか……?」
「――もう、帰らない」
真っ直ぐに私を見ると、藤堂先生は優しく微笑んだ。
「だから、俺のことは忘れてほしい」
「……いやだ!」
「奥村……」
「いやだよ! 私、先生のことが好きだよ! 一緒にいたいよ!」
「っ……ダメだ」
縋りつく私の手を、藤堂先生はゆっくりと離す。
「藤堂先生……」
「俺と一緒にいても、お前は幸せになれないよ」
「そんな……!」
「ごめんな」
行かないで、と言いたかった。
私のことを好きだと言うのなら……そばにいてほしかった。
でも……。
「藤堂、先生……」
幾らその名前を呼んでも……藤堂先生が振り返ることは、もう二度となかった。
***
そうして、藤堂先生は学校からいなくなった。
あの後……泣いている私の前に現れた皐月先生は言った。
「夏休み中、抱き合うお前たちの姿を、見ていた先生がいたんだ」
その先生は、とんでもないことだと職員会議の議題に上げた。
本当なら私も停学になるところだったらしい。だけど――。
「藤堂がな、責任は全て自分にあると。お前は――何にも悪くないんだと言ってな」
「そ、んな……」
私を庇って、藤堂先生は……。
「あっ……あ、ああぁぁっ!!!」
泣きじゃくる私を見ても、皐月先生は何も言わなかった。
ただ隣に並んで、青空に伸びる飛行機雲を見つめていた。
***
数日後、手紙が届いた。
切手も差出人の名前もないその手紙には一言だけ。
「幸せになってください」
そう書かれていた。
「とう、ど……せんせ……」
大粒の涙が、頬を濡らす。
幸せになってじゃなくて
幸せになりたかった。
違う誰かとじゃなくて……。
「――――」
伝えられなかった言葉が、涙とともにアスファルトへと零れ落ちる。
頭上には、涙を流す私をあざ笑うかのように、澄み切った青空が広がっていた。
理由は――。
「お前な、なんで俺の数学だけこんな点数なんだ?」
「すみません……」
「他の教科はいいのに……」
皐月先生はため息をついた。
机の上に並べられた中間テストの成績を見て、最下位すれすれな数学の順位に泣きたくなる。
「このままじゃ卒業できないぞ」
皐月先生はもう一度ふかーいため息をつきながら言った。
「学年末で一つでも赤点があれば、進学が決まっていても卒業させてやれないんだぞ」
「ええー! そんなの酷い!」
「酷いのはお前の点数だ。……そこでだ、奥村のこの状況はさすがにまずいので特別授業をしてもらうことにした」
「特別授業……?」
「ああ。――藤堂先生」
皐月先生の言葉に、私たちの後ろに座っていた誰かがこちらを向いた。
「知っているか? 藤堂先生」
「いえ……」
「そうか。まあ、お前らの学年は担当してないからな。春に新任の紹介で挨拶があったけど覚えてないか?」
新任……。そういえば、若い先生がいたような気もする。……でも、その藤堂先生がどうしたというのだろう。
そんな私の心の声が聞こえたかのように、皐月先生は続けた。
「本当は俺が教えたらいいんだろうけど、さすがに忙しい。けど藤堂先生なら教科担当だけだからな」
「それって……」
「夏休みまでの二週間、藤堂先生に数学を教えてもらえ」
当たり前のように言う皐月先生に、藤堂先生は苦笑いを浮かべる。
ちなみに、と皐月先生は続ける。
「こいつな、俺の教え子なんだ」
「え……」
それで、困ったような顔をしつつ、断れない雰囲気を出しているのか……。
いや、それよりも。
「悪いですよ、そんなの! 藤堂先生だって忙しいでしょうし……」
「そんなこと言ってたら本当に卒業できなくなるぞ」
それは困る、凄く困るけど……。
チラッと藤堂先生の方を見ると、私の視線に気付いてニッコリと笑った、
「俺のことなら気にしないで。俺も昔、皐月先生に教えてもらったから」
「え?」
「お前が赤点とったら俺の評価が下がるだろ! なんて言って、放課後付きっ切りで教えてくれたよ」
「そうなんですか……?」
「うん。だから君のことは、責任を持って俺が教えるよ」
優しく微笑みながら、嫌だとは言わせない口ぶりで藤堂先生は言った。
***
翌日の放課後、重い足を引き摺るようにして私は指定された教室へと向かった。
「失礼しまーす……」
「お、ちゃんと来たな」
そこには、教卓にもたれかかるようにして、藤堂先生が立っていた。
「――んじゃ、はじめようか」
席についた私に、藤堂先生は何枚かのプリントを渡すと向かいの席に座った。
「どこまで出来るか確認したいから、今日はこれ解いてくれるか」
「はい」
渡されたプリントを一枚ずつ進めていく。問題は高一の範囲からこの間の中間の分まで幅広く用意されていた。
「すみません、私のせいで……」
「そんなこと気にするな。でも申し訳ないと思うなら、夏休み明けの期末試験でいい点数取ってくれると助かるかな」
じゃないと皐月先生に怒られるからさ、と藤堂先生は笑った。
その笑顔につられて私も笑いそうになる、けれど……。
「良い点数、取れないかも……」
「ん?」
「私、本当に数学がダメで」
「――みたいだな」
プリントを覗き込むと、藤堂先生は苦笑いを浮かべた。
上から順に全ての回答欄を埋めているはずなのに、そんな顔をされてしまうということは余程酷いのだろう……。
居た堪れなくなって俯いた私の頭に、何かが触れた。
「え……?」
「まぁ、そんなに気負うことないよ」
「藤堂、先生……?」
ポンポンと子供をあやすように私の頭を撫でると、藤堂先生は笑った。
「そのために俺がいるんだから。期末テストで皐月先生を驚かせてやろう」
「できるかな……」
「できるさ。――その代わり、ビシバシいくからな」
「はい!」
私の返事に、藤堂先生は優しく微笑んだ。
その笑顔に――ほんの少しだけ特別授業が楽しみになった。
***
「だから! なんでそうなるんだ。こっちがこうなら――」
「そっか!」
「そっかじゃない。一回間違えたところは確認する」
特別授業が始まって一週間が経った。放課後は毎日、藤堂先生のもとで数学のプリントを解き続けていた。けれど……。
「ホントに期末テストで挽回できるのかな……」
休憩時間、思わず呟いた私を藤堂先生は意外そうな顔で見た。
「えらく弱気だな」
「だってダメダメじゃないですか……」
丸つけの終わったプリントを確認するけれど、相変わらず間違いだらけ。まだ赤点回避すら難しそうだ。
「でも、一週間前に解けなかった問題が今は解けるようになってるよ」
「え……ホントですか!?」
「こことか、初日のプリントにも同じような問題入れてただろ」
「どれです……か……」
慌ててプリントを覗き込む……と、目の前に、藤堂先生の顔があった。
「っ……ご、ごめんなさい!」
「お、おお……」
心臓が、ドクンドクンと大きな音を立てているのが分かる。
落ち着け……落ち着け……。
思わず顔を逸らしてしまったせいで流れた微妙な空気を追い払うかのように、ゴホンと咳払いすると藤堂先生はプリントを指差した。
「ほら、ここ」
「……ホントだ」
「奥村は他の教科がいいんだから、地頭は悪くないはずだ。数学は苦手意識もあるのかな? 解きながらテンパってるだろ」
「う……」
確かにそうかもしれない。同じような数式を物理のテストで出されたら解けるのに、数学では間違えてしまう……。
解かなきゃいけない、間違えちゃいけない、今度こそ、そう思えば思うほど間違いが増えていく。
「その苦手意識さえなくしてやれば十分点数は取れると思うよ」
「でも、どうやって……」
「うーん、たとえば数学と何か好きなものが結びつけるとか」
数学と、好きなもの――。
思わず顔を上げた私は、藤堂先生と目があった。
数学と、好きな……。
「っ……」
今、私、何を考えた……?
好きなものって言われて、それで――。
ううん、違う。今のは数学と藤堂先生が結びついただけで、好きなものと結びついたわけじゃない。
そんなわけ、ない……。
「……どうした?」
「なんでも! ないです!」
「そ、そうか?」
気にしないでくださいと言うと、少し不思議そうな顔をしながら藤堂先生は続ける。
「まあ最初は難しくても、ちょっとずつ苦手意識をなくしていくといいよ。あと深呼吸かな。テスト用紙をめくる前に深呼吸。落ち着いて、それから解き始める」
「深呼吸、ですか?」
私の言葉に、藤堂先生はニッコリと笑う。
「自主学習で点数が取れるのに、本番になると解けないっていう子の大半は、緊張や焦りなんかから本来の力が出せないんだ。だから、一呼吸おいて落ち着く。これが大事だよ」
「そうなんですね……。深呼吸、頑張ります!」
「……ふっ」
私の返事を聞いた藤堂先生は、何故か笑っていた。
「ホント、真面目だな。もっと肩の力を抜いてさ、気楽にやればいいんだよ。俺みたいにね」
藤堂先生がおどけて言うから思わず笑ってしまう。
そんな私を見て藤堂先生も笑う。
「奥村は、そうやって笑ってる方がいいな」
「え……?」
「あ……」
藤堂先生の言葉に思わず赤くなってしまった私から目を逸らすと……藤堂先生は困ったような表情で笑った。
「――なんて、な」
「…………」
「…………」
沈黙が、私たちを襲う。
でも、妙に甘ったるくて、気恥ずかしいこの沈黙は――不思議と嫌じゃなかった。
「……続き、しろよ」
「はい……」
カリカリとシャーペンがプリントの上を走る音だけが響く。
時折聞こえてくる藤堂先生の息遣いにドキドキする。
「っ……」
違う、そんなんじゃない。そんなわけがない。
だって、先生だし。ついこの間まで存在も知らなかったのに、そんなこと――。
心の中に湧き出てきた感情を、必死に否定する。
でも、どうしても否定しきれない感情に、思わず頭を抱える。
「……奥村?」
名前を呼ばれただけ。
なのに、ただそれだけのことで……こんなにも心臓がドキドキして、顔が熱くなる。
「どうした? 体調でも悪いのか?」
顔を覗き込まれると――心臓が痛いぐらいに、苦しい。
こんなに近くにいるのに……。
「藤堂、先生……」
「奥村……?」
無意識に、藤堂先生へと手を伸ばしていた。
その手が、藤堂先生に触れた瞬間――私は弾けるように立ちあがった。
「奥村?」
「ごめんなさい! 今日は帰ります!」
「ど、どうした?」
「すみません!」
私は鞄を掴むと、教室を飛び出した。
廊下を駆けぬけて昇降口へと向かう。
「私の……バカ……」
静まってほしいと思えば思うほど、心臓の音は激しさを増す。
ダメだと分かっているのに、理性とは裏腹に、感情は叫ぶ。
「好き……」
言葉に出してみたら、その想いは思ったよりもすんなりと、私自身の中へと入ってくる。
違う、そうじゃないと否定してみたところで、一度湧き出た感情はどんどんと大きさを増していく。
「私、藤堂先生のことが……好き……」
真剣な表情、笑い声、優しい笑顔……。
思い出せば思い出すほど、胸が苦しくなる。
行き場のない思いを抱えたまま、私は――その場に立ち尽くしていた。
***
翌日、いつもより早い時間に目が覚めた。
期待していたわけじゃない。でも……もしかして、に賭けて私はいつもより早く家を出た。
「あ……」
いた……。
学校へと向かう道のりで、私は見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「藤堂、先生……」
「え?」
「あっ……」
思わず呟いた声が聞こえたのか、藤堂先生は私の方を振り返った。
「お、おはようございます」
「おはよ。早いな」
「目が覚めちゃって」
苦しい言い訳だろうか……。
追いついた私に、藤堂先生は大丈夫か? と、言った。
「昨日、具合悪そうだったからさ」
「あ、えっと……」
「ごめんな、気付いてやれなくて」
申し訳なさそうに藤堂先生が言うから、私は慌てて首を振った。
「大丈夫です! もう元気ですから!」
「ならいいんだけど」
「はい! 今日もよろしくお願いします!」
「おう」
クスクスと笑うと藤堂先生は歩き出す。
その隣を私は歩く。
何か喋らなければと思えば思うほど、言葉が出てこない。
「……あの」
「ん?」
「いえ、何でもないです……」
「そうか」
それっきり藤堂先生も口を開くことはなかった。
私たちは黙ったまま学校へと向かう。
普段はお喋りな私なのに――藤堂先生の隣では、何故か言葉が出てこない……。
話したいことは、たくさんあるはずなのに――。
「――んじゃ、俺職員室行くから」
「え、あ……はい。また放課後に」
その声にハッと辺りを見回すと、いつの間にか学校へと着いていた。
じゃあな、と手を振って、藤堂先生は職員室へと向かって歩いて行く。
名残惜しげにその背中を見つめていると――突然、藤堂先生が振り返った。
「え……?」
「っ……」
藤堂先生は私と目が合うと、慌てて顔を逸らしてしまう。そして――今度は振り返ることなく、歩いて行った。
「心臓、うるさい……」
静まらない心臓の音が、いつまでも私の中で鳴り響いていた。
***
藤堂先生のおかげで、少しずつ数学が楽しくなってきていた。
そんなある日、私は昼休みに皐月先生に呼び出されていた。
「失礼します」
「おう、来たな」
職員室に入ると、先生たちの視線が私に向けられた気がした。
……どうして?
「……数学はどんな感じだ?」
「え?」
「少しはマシになったか?」
「あ、はい! 少しずつですけど解ける問題が増えてきました!」
「そうか……」
珍しく皐月先生の歯切れが悪い。
いったいどうしたというのだろうか……?
「……先生?」
「単刀直入に言う。今な、学校で嫌な噂が流れている」
「嫌な、噂?」
「放課後の教室で、お前と藤堂先生がその……いかがわしいことをしているという噂だ」
「なっ……」
思わず言葉を失った私に、皐月先生は申し訳なさそうに言う。
「もちろんそんなことはないと分かっている。そもそも数学を教えてもらうように言ったのは俺だからな。でも、それを聞いても納得しない人がいる。……藤堂にも誤解されるような行動を本当にしていなかったかと注意したところだ」
「そんな……」
さっきの視線は、そのせいで……?
「中途半端な状態になって申し訳ない。だが……特別授業は終わりにする」
「え……?」
「もう藤堂先生には伝えてある。まあ、夏休みを挟めばこんな噂も消えると思うから――」
「でも……!」
話を終わらそうとする皐月先生の言葉を遮った私に、冷たい視線を向ける。
「何か問題でもあるのか?」
「っ……」
「ないならこの話は終わりだ。もう行っていいぞ」
「……失礼、しました」
トボトボと職員室から出ると、私は教室へと向かう。
そんな私に向けられる視線に、嫌でも気付く。
どうして今まで気付かずにいられたんだろう。
それほどに、沢山の人が私を見てコソコソと何かを言っていたのに……。
「あ……」
廊下の向こうから歩いてくる藤堂先生の姿が見えた。
「っ……」
目が、あった。
なのに――藤堂先生は私から目を逸らすと、何も言わず通り過ぎて行った。
「どうして……」
その問いに……答えをくれる人は、いなかった。
***
結局、藤堂先生と話をすることなく夏休みを迎えた。
うだるような暑さの中、涼しさを求めて行った図書館からの帰り道――見覚えのあるシルエットが目に入った。
「藤堂、先生……」
私に気付くことなく藤堂先生はどこかへと歩いて行く。
こんなにも近くにいるのに、話しかけることすら出来ない。
「なんで……」
好きだと、気付かなければよかった。
そうしたらあんな噂なんて笑い飛ばせたのに。
今だって、何も考えずに話しかけることができたのに……。
「っ……」
溢れ出る涙を隠すように、しゃがみ込む。
足元のアスファルトには、ポタポタと零れ落ちた涙が黒いシミを作っていた。
「藤堂、先生……」
名前を呼んでみても、あの時のように藤堂先生が振り返ってくれることはない。
胸が、苦しい。
こんなにも、こんなにも好きになってるなんて、思ってもみなかった。
「こっち、向いてよ……せん、せ……」
「――どうした?」
「え……?」
顔を上げると、そこには――心配そうに私を見つめる、藤堂先生の姿があった。
「どうし、て……」
「……呼んだだろ?」
「っ……」
「奥村の声が聞こえた気がして、振り返ったらしゃがみ込んでたから。……大丈夫か?」
「だいじょ……っ……」
「お、おい!」
慌てて立ち上がった私は――目の前が真っ暗になった。
倒れる……! そう思った私は思わず目を瞑る。
けれど――。
「え……?」
いつまでたってもアスファルトとぶつかる衝撃が来ることはなく……不思議に思ってそっと目を開けると、私の身体は藤堂先生の腕の中にあった。
「大丈夫か!?」
「は、はい……」
慌てて離れようと藤堂先生の身体を押しのける……けれど、勢いよく動いた私を再び
「っ……」
「……送っていく。歩けるか?」
「え……?」
「家、こっち? それとも……」
「だ、大丈夫です!」
藤堂先生に迷惑をかけるわけにはいかない……。
慌てて離れようとするけれど、そんな私の腕を藤堂先生は掴んだ。
「無理するな。……行くぞ」
「あ……」
強引に、でも優しく私の腕を握りしめたまま藤堂先生は歩き始める。
その手の温もりが、ひんやりと冷たい私の腕に伝わって……。
「藤堂、先生……」
これ以上は、ダメだ。
私のせいで、藤堂先生に迷惑をかけてしまう。
そう頭ではわかっているのに……一度走り出した感情は、止めることができない。
「おくむ――」
なかなか歩き出さない私を不審に思った藤堂先生が振り返ろうとした瞬間――私は、その背中に抱き付いた。
「好きです」
「え……?」
「藤堂先生のことが、好きです」
藤堂先生が、息を呑むのが分かる。
拒絶される――そう思った私は、必死に笑った。
「なん、ちゃって! ビックリした?」
「奥村……」
「だ、ダメだよーちゃんと笑ってくれなきゃ洒落になんなくなるじゃん」
「っ……」
「ちゃんと笑って、それで……ちゃんと……」
泣くな。
泣いちゃ、ダメだ、
「ちゃんと、フッてくれなきゃ……」
必死に堪えようとした涙が、頬を伝う。
「諦め、られないよ……」
涙を拭おうと藤堂先生から手を離す。必死で笑う私を――振り返った藤堂先生は抱きしめた。
「な……」
「――黙って」
「っ……」
藤堂先生の心臓がドキドキと音を立てているのが分かる。
「せん、せ……」
どれぐらいの時間そうしていただろうか……。
じっとりとした暑さに顔を上げると――困った顔で微笑む藤堂先生の姿があった。
「……帰れるか?」
「はい……」
さっきまでの出来事が嘘のように、私たちは歩き出す。
どうしてあんなことをしたのか聞きたかったのに、何も言えないまま――。
「ありがとうございました」
「あんま無理するなよ」
じゃあな、と言って藤堂先生は背を向けた。
「あの……っ!」
「――ごめんな」
思わず呼び止めた私にそう言うと……振り返ることなく藤堂先生は去って行った。
ごめんねの意味が分からないまま、私はその背中を見送ることしか出来なかった。
***
あの日から、一ヶ月が経った。
あれから藤堂先生とは一度も会えていない。
どうしてあの時抱きしめてくれたの……?
ごめんって、どういうこと……?
夏休み中、何度も何度も考えた。
でも、答えは分からない。
なら――。
「藤堂先生!」
始業式の朝、人気のない廊下に藤堂先生はいた。
まるで私が来るのを待っていたかのように――。
「……おはよう」
「おはよう、ございます」
空気が、重い。
「あ、あの……私、話が……」
「――俺も、話があるんだ」
絞り出すようにして言った私の言葉を最後まで聞くことなく、藤堂先生は言った。
「俺――学校辞めたんだ」
「え……? いつ……?」
「昨日付けで。ホントは会わずに行こうと思ってたんだけど……バカだよなぁ」
「どうして……?」
「…………」
「私の、せい……? 私が、あんなこと言ったから……? それで……」
違うよ、と言うと……藤堂先生は笑った。
「俺が、奥村のことを好きになったから」
「っ……」
その笑顔が、あまりにも悲しくて――私は何も言えなかった。
「俺、さ――海外に行くことにしたんだ」
「え……?」
「大学の時お世話になった教授に誘われてさ」
「それって……いつ帰ってくるんですか……?」
「――もう、帰らない」
真っ直ぐに私を見ると、藤堂先生は優しく微笑んだ。
「だから、俺のことは忘れてほしい」
「……いやだ!」
「奥村……」
「いやだよ! 私、先生のことが好きだよ! 一緒にいたいよ!」
「っ……ダメだ」
縋りつく私の手を、藤堂先生はゆっくりと離す。
「藤堂先生……」
「俺と一緒にいても、お前は幸せになれないよ」
「そんな……!」
「ごめんな」
行かないで、と言いたかった。
私のことを好きだと言うのなら……そばにいてほしかった。
でも……。
「藤堂、先生……」
幾らその名前を呼んでも……藤堂先生が振り返ることは、もう二度となかった。
***
そうして、藤堂先生は学校からいなくなった。
あの後……泣いている私の前に現れた皐月先生は言った。
「夏休み中、抱き合うお前たちの姿を、見ていた先生がいたんだ」
その先生は、とんでもないことだと職員会議の議題に上げた。
本当なら私も停学になるところだったらしい。だけど――。
「藤堂がな、責任は全て自分にあると。お前は――何にも悪くないんだと言ってな」
「そ、んな……」
私を庇って、藤堂先生は……。
「あっ……あ、ああぁぁっ!!!」
泣きじゃくる私を見ても、皐月先生は何も言わなかった。
ただ隣に並んで、青空に伸びる飛行機雲を見つめていた。
***
数日後、手紙が届いた。
切手も差出人の名前もないその手紙には一言だけ。
「幸せになってください」
そう書かれていた。
「とう、ど……せんせ……」
大粒の涙が、頬を濡らす。
幸せになってじゃなくて
幸せになりたかった。
違う誰かとじゃなくて……。
「――――」
伝えられなかった言葉が、涙とともにアスファルトへと零れ落ちる。
頭上には、涙を流す私をあざ笑うかのように、澄み切った青空が広がっていた。