コントロールコントローラー完結
文字数 4,144文字
彼の意識がだんだんと遠のいていった。
体が後向きに倒れ、後頭部からまっさかさまに奈落の底へ落ちていくような感じだった。
彼は男の知り合いの脳外科医のクリニックの手術室にいた。
さんざん迷ったが、やはり手術を受けることにしたのだ。
そして、彼は奈落の底に落ちた!
そう思ったら手術は終わっていた。
後頭部に縫目があるようで少し痛かったが、まあ大したことはなかった。
三日もすると彼はもうクリニックの廊下をすいすい歩けるまでに回復した。
一回脳を開けたというのに、何と早い回復。彼は思った。
ニカ月くらいは入院するだろうと思っていた彼は驚いた。
「それは、あの先生の技術が凄いからですよ。普通だったら頭を開ければ一、二ヵ月は入院でしょう。でも、あの先生なら、入院は一週間で十分なんです」
手術から十日ほど後、すでにクリニックを退院した彼は、さっそく男のガラクタ置場、いや、オフィスで男に説明を受けていた。
「そうそう。それから、あなたの後頭部の傷口からニセンチ程ヒモ状のものが出ているでしょう。それは小脳に埋め込んだ受信機から伸びたアンテナなんです。だから、なるべく引っ張らないように注意してくださいね」
それで彼はおそるおそる後頭部の「ヒモ」に触ってみた。
「しかしまあ、これが僕の小脳につながっているんですね。何だか信じられないなあ」
「なんせ、あの先生の技術は凄いですから。それはさておいて、さあ、いよいよこれから、この送信機のセッティングを始めます。そこにトレーニングウエアがあります。さっそく着替えてください」
一時間後、彼はトレーニングウエア姿で近くの野球場のマウンドにいた。
肩慣らしを終えた彼の傍らには、例のラジコン飛行機用のPCM1024ZA型送信機を持った男がいた。
もう一人、やや肥満体の、がっちりした男が、ホームベースのところでキャッチャーミットを構えていた。
男は言った。
「じゃ、これから投げてください。大丈夫。彼はもと社会人野球のキャッチャーですから。思い切り投げて構いませんよ」
で、ほどなく彼は本格的な投球に入った。
男は彼に言った。
「一応全部で七個のメモリーがあります。まず、七つのボールを決めてください」
「ボールを決める?」
「だから、球種とコースを決めてください。七種類ですよ」
彼は男に詳しい説明を受け、しばらく考えた後、次の七つのボールを選んだ。
すなわち、
1 内角低めのまっすぐ
2 外角低めのまっすぐ
3 つり球の胸元へのまっすぐ
4 内角低めに決まるカーブ
5 外角低めに逃げる、ボールになるカーブ
6 ショートバウンドになるフォーク
7 左打者の外角へ逃げるチェンジアップ
「それじゃ、『1』からいきましょう。何球か投げてください。あなたの投球動作は、あなたの小脳にある受信機が解析しているのです。納得できる投球ができたら教えてください。送信機に入力しますから」
男の持っている送信機の液晶パネルには、何やら訳の分からない、いろいろの文字やグラフが表示されていた。
男はピッピッピッと音をたてながら何やら入力をしているようだった。
やがて、彼の投げた球は内角低めのいいコースに決まった。
「OK! 今のまっすぐ、ばっちりです」
「わかりました。さっそく入力しておきます。じゃ次、『2』いきましょうか…」
それから彼らが「1」から「7」までの入力を終えたのはもう夕方近くだった。
彼はそれまでに百球程投げていた。
彼は心地よい疲労感を感じていた。
そして彼は、この「コントロールコントローラー」の代金として、大きな声では言えないようなお金を支払った。
コントロールが良くなるんだったら、彼にとってはそんな大金でも年棒なんてどんどん高くなる訳だし…
で、彼はこのコントロールコントローラーの使い方について、男から次のように説明されていた。
試合では送信機から発せられる電波の届く範囲の関係で、球場から三百メートル以内のところに男の乗ったワゴン車が待機する。
そのなかで試合中継をモニターで見ながら男がコントローラーの操作をするのだ。
例の「1」から「7」までのどの球を投げるかは、彼との間であらかじめサインを決めておく。
といってもサインで必要なのは球種のみだ。
コースはキャッチャーの構えで分かるからだ。
彼の場合、球種はまっすぐとカーブとフォークとチェンジアップなので、サインは四つだけで十分だった。
それに、かりにキャッチャーの構えと違うところへいったとしても、それ自体、少しもめずらしいことではない。
かえって怪しまれなくて済むくらいだ。
そして彼の登板するときは、もちろん男は球場の周囲の駐車場にいつもワゴン車を待機させていた。
試合中継をモニターで見ながら男はコントローラーを操作することになっていたわけだ。
その後、彼のコントロールは飛躍的に良くなった。
内外角にずばずばと速球や変化球が決まるようになったのだ。
ときどき違うコースに行ったりしたが、こんなとき彼は男の入力ミスだろう、くらいに考えていた。
まあ、時々こういう球があったほうが、かえって良かったりもした。
打者にコースを読まれることもあるからだ。
まあ「適度に荒れている」くらいが、彼らしくてちょうど良いとも言える。
一方、コントロールに自信が持てると、思い切って腕を振れるようになる。
そうすると今度は球速は増すし、しかも何とコントロールはさらに良くなった。
こうして彼にとっては全てが良いほうへ回って行ったのだ。
とにかく彼は絶好調だった。
そしてしばらくすると彼は、先発ローテーションの柱として活躍するようになっていたのだった。
そんなある日。
彼はいつものようにマウンドで投げていた。
彼は堂々たる姿をしていた。
いまや彼には風格さえ漂っているではないか。
で、球場の近くには、いつものように男のワゴン車が駐車していた。
実は彼は試合当日、球場に入る前には必ず男のワゴン車を訪れ、男と二言三言ことばを交わすことにしていた。
この日もこんな会話が交わされていた。
「今日はワイルドキャッツ戦ですね。調子はどうですか」
「もちろん、ばっちりですよ。肩の調子も最高」
「じゃ、清山なんか三球三振ですね」
「そうだといいですね。まあ、見ててくださいよ。頑張りますよ。ところで、そちらの機械の調子はどうですか」
「もちろんばっちりです。いつでも準備OKですよ。じゃ、今日もがんばってくださいね」
まあ、こんな感じの、たわいのない会話を交わしてから、彼は球場入りするのだ。
さてさて、その日の試合もすでに九回表。
対戦相手のワイルドキャッツは、最後の攻撃となっていた。
この日も彼のピッチングは冴えわたり、完封目前だったのだ。
彼は最後のバッターを迎え、キャッチャーとのサインの交換。
彼は入念に球種を選び、コースを決めていた。
同時に彼はモニターを見ているであろう男に向かって極秘の球種サインを送る。
完封目前。
最も緊迫した場面だ!
ところで読者のみなさんは、このころワゴン車の中で何が行なわれているか、見たくありませんか?
男は目を皿のようにしてワゴン車の中のモニターに集中する。
彼からの極秘のサインと、キャッチャーのミットの位置を確認。
そして、その球種とコースを素早く送信機に入力。
そして彼の小脳の中の小型受信機に向かって信号を送る…
見ているだけで息づまるシーン!
では、実際に見てみましょう。
で、ワゴン車のモニターに映っていたのはなんと、ラジコン飛行機だった。
青空を背景に、甲高い音をたてながら気持ち良さそうに飛んでいた。
いわゆるラジコンのフライトシミュレーターだった。
男の声もしていた。
「三回半スナップロール!」
「ほう、おぬしやるな。よしよしちょっと送信機を貸してくだされ。それじゃわしはフラットスピンの切り返しじゃ!」
「おお、すげえ! 先生、やるじゃないですか」
男といっしょにいたのは例の脳外科医だった。
この大切な時に、よりによって彼らはラジコンのフライトシミュレーターで遊んでいたのだ。
何のことはない。
彼らはラジコン仲間だったのだ。
「ところで先生、彼の後頭部にくっつけてある、あの二センチくらいのひもは、簡単には外れないでしょうねえ」
「大丈夫。しっかりと頭皮に縫いつけてあるからね。しかしまあ、本当に脳を開ける手術をやっていれば、三日で歩けるようになるわけないわな」
「だから彼には、三日で歩けるのは、先生が凄腕の脳外科医だからだって言っておきましたよ」
「それはどうも。しかしまあ、あなたもすることがあくどい。あれであの値段ですか。まさに濡れ手に粟ですな。わっはっは」
「そうですなぁ。ひひひひひ」
「でもまあ、実際彼はこれのおかげで好投するようになったんだから。彼も二、三年後には一億円プレーヤーでしょうよ」
「それにしてもピッチャーのコントロールがこれほど心理的な影響を受けるとはねえ」
脳外科医は信じられないという表情で男に話した。
するとその男はゲームを中断し送信機を置くと、そんな脳外科医の方を振り返り、にやりと笑って言った。
「いいですか、だいたいコントロールなんてえのは、ボールがそこへ行くと信じて投げると、大体その辺に行くものです。それを、いらんことごちゃごちゃ考えて投げるから、ロボットみたいなぎくしゃくしたフォームになって、とんでもないところにボールがいくのです。まあ、とにかく! 自信を持って、思い切りよく投げることですよ。彼みたいにね。えへへへへへ」
コントロールコントローラー 完
(つまりコントロールって、案外そういうもんなんですよね。これは草野球で「ノーコン投手」で鳴らした私の経験でもあります)
体が後向きに倒れ、後頭部からまっさかさまに奈落の底へ落ちていくような感じだった。
彼は男の知り合いの脳外科医のクリニックの手術室にいた。
さんざん迷ったが、やはり手術を受けることにしたのだ。
そして、彼は奈落の底に落ちた!
そう思ったら手術は終わっていた。
後頭部に縫目があるようで少し痛かったが、まあ大したことはなかった。
三日もすると彼はもうクリニックの廊下をすいすい歩けるまでに回復した。
一回脳を開けたというのに、何と早い回復。彼は思った。
ニカ月くらいは入院するだろうと思っていた彼は驚いた。
「それは、あの先生の技術が凄いからですよ。普通だったら頭を開ければ一、二ヵ月は入院でしょう。でも、あの先生なら、入院は一週間で十分なんです」
手術から十日ほど後、すでにクリニックを退院した彼は、さっそく男のガラクタ置場、いや、オフィスで男に説明を受けていた。
「そうそう。それから、あなたの後頭部の傷口からニセンチ程ヒモ状のものが出ているでしょう。それは小脳に埋め込んだ受信機から伸びたアンテナなんです。だから、なるべく引っ張らないように注意してくださいね」
それで彼はおそるおそる後頭部の「ヒモ」に触ってみた。
「しかしまあ、これが僕の小脳につながっているんですね。何だか信じられないなあ」
「なんせ、あの先生の技術は凄いですから。それはさておいて、さあ、いよいよこれから、この送信機のセッティングを始めます。そこにトレーニングウエアがあります。さっそく着替えてください」
一時間後、彼はトレーニングウエア姿で近くの野球場のマウンドにいた。
肩慣らしを終えた彼の傍らには、例のラジコン飛行機用のPCM1024ZA型送信機を持った男がいた。
もう一人、やや肥満体の、がっちりした男が、ホームベースのところでキャッチャーミットを構えていた。
男は言った。
「じゃ、これから投げてください。大丈夫。彼はもと社会人野球のキャッチャーですから。思い切り投げて構いませんよ」
で、ほどなく彼は本格的な投球に入った。
男は彼に言った。
「一応全部で七個のメモリーがあります。まず、七つのボールを決めてください」
「ボールを決める?」
「だから、球種とコースを決めてください。七種類ですよ」
彼は男に詳しい説明を受け、しばらく考えた後、次の七つのボールを選んだ。
すなわち、
1 内角低めのまっすぐ
2 外角低めのまっすぐ
3 つり球の胸元へのまっすぐ
4 内角低めに決まるカーブ
5 外角低めに逃げる、ボールになるカーブ
6 ショートバウンドになるフォーク
7 左打者の外角へ逃げるチェンジアップ
「それじゃ、『1』からいきましょう。何球か投げてください。あなたの投球動作は、あなたの小脳にある受信機が解析しているのです。納得できる投球ができたら教えてください。送信機に入力しますから」
男の持っている送信機の液晶パネルには、何やら訳の分からない、いろいろの文字やグラフが表示されていた。
男はピッピッピッと音をたてながら何やら入力をしているようだった。
やがて、彼の投げた球は内角低めのいいコースに決まった。
「OK! 今のまっすぐ、ばっちりです」
「わかりました。さっそく入力しておきます。じゃ次、『2』いきましょうか…」
それから彼らが「1」から「7」までの入力を終えたのはもう夕方近くだった。
彼はそれまでに百球程投げていた。
彼は心地よい疲労感を感じていた。
そして彼は、この「コントロールコントローラー」の代金として、大きな声では言えないようなお金を支払った。
コントロールが良くなるんだったら、彼にとってはそんな大金でも年棒なんてどんどん高くなる訳だし…
で、彼はこのコントロールコントローラーの使い方について、男から次のように説明されていた。
試合では送信機から発せられる電波の届く範囲の関係で、球場から三百メートル以内のところに男の乗ったワゴン車が待機する。
そのなかで試合中継をモニターで見ながら男がコントローラーの操作をするのだ。
例の「1」から「7」までのどの球を投げるかは、彼との間であらかじめサインを決めておく。
といってもサインで必要なのは球種のみだ。
コースはキャッチャーの構えで分かるからだ。
彼の場合、球種はまっすぐとカーブとフォークとチェンジアップなので、サインは四つだけで十分だった。
それに、かりにキャッチャーの構えと違うところへいったとしても、それ自体、少しもめずらしいことではない。
かえって怪しまれなくて済むくらいだ。
そして彼の登板するときは、もちろん男は球場の周囲の駐車場にいつもワゴン車を待機させていた。
試合中継をモニターで見ながら男はコントローラーを操作することになっていたわけだ。
その後、彼のコントロールは飛躍的に良くなった。
内外角にずばずばと速球や変化球が決まるようになったのだ。
ときどき違うコースに行ったりしたが、こんなとき彼は男の入力ミスだろう、くらいに考えていた。
まあ、時々こういう球があったほうが、かえって良かったりもした。
打者にコースを読まれることもあるからだ。
まあ「適度に荒れている」くらいが、彼らしくてちょうど良いとも言える。
一方、コントロールに自信が持てると、思い切って腕を振れるようになる。
そうすると今度は球速は増すし、しかも何とコントロールはさらに良くなった。
こうして彼にとっては全てが良いほうへ回って行ったのだ。
とにかく彼は絶好調だった。
そしてしばらくすると彼は、先発ローテーションの柱として活躍するようになっていたのだった。
そんなある日。
彼はいつものようにマウンドで投げていた。
彼は堂々たる姿をしていた。
いまや彼には風格さえ漂っているではないか。
で、球場の近くには、いつものように男のワゴン車が駐車していた。
実は彼は試合当日、球場に入る前には必ず男のワゴン車を訪れ、男と二言三言ことばを交わすことにしていた。
この日もこんな会話が交わされていた。
「今日はワイルドキャッツ戦ですね。調子はどうですか」
「もちろん、ばっちりですよ。肩の調子も最高」
「じゃ、清山なんか三球三振ですね」
「そうだといいですね。まあ、見ててくださいよ。頑張りますよ。ところで、そちらの機械の調子はどうですか」
「もちろんばっちりです。いつでも準備OKですよ。じゃ、今日もがんばってくださいね」
まあ、こんな感じの、たわいのない会話を交わしてから、彼は球場入りするのだ。
さてさて、その日の試合もすでに九回表。
対戦相手のワイルドキャッツは、最後の攻撃となっていた。
この日も彼のピッチングは冴えわたり、完封目前だったのだ。
彼は最後のバッターを迎え、キャッチャーとのサインの交換。
彼は入念に球種を選び、コースを決めていた。
同時に彼はモニターを見ているであろう男に向かって極秘の球種サインを送る。
完封目前。
最も緊迫した場面だ!
ところで読者のみなさんは、このころワゴン車の中で何が行なわれているか、見たくありませんか?
男は目を皿のようにしてワゴン車の中のモニターに集中する。
彼からの極秘のサインと、キャッチャーのミットの位置を確認。
そして、その球種とコースを素早く送信機に入力。
そして彼の小脳の中の小型受信機に向かって信号を送る…
見ているだけで息づまるシーン!
では、実際に見てみましょう。
で、ワゴン車のモニターに映っていたのはなんと、ラジコン飛行機だった。
青空を背景に、甲高い音をたてながら気持ち良さそうに飛んでいた。
いわゆるラジコンのフライトシミュレーターだった。
男の声もしていた。
「三回半スナップロール!」
「ほう、おぬしやるな。よしよしちょっと送信機を貸してくだされ。それじゃわしはフラットスピンの切り返しじゃ!」
「おお、すげえ! 先生、やるじゃないですか」
男といっしょにいたのは例の脳外科医だった。
この大切な時に、よりによって彼らはラジコンのフライトシミュレーターで遊んでいたのだ。
何のことはない。
彼らはラジコン仲間だったのだ。
「ところで先生、彼の後頭部にくっつけてある、あの二センチくらいのひもは、簡単には外れないでしょうねえ」
「大丈夫。しっかりと頭皮に縫いつけてあるからね。しかしまあ、本当に脳を開ける手術をやっていれば、三日で歩けるようになるわけないわな」
「だから彼には、三日で歩けるのは、先生が凄腕の脳外科医だからだって言っておきましたよ」
「それはどうも。しかしまあ、あなたもすることがあくどい。あれであの値段ですか。まさに濡れ手に粟ですな。わっはっは」
「そうですなぁ。ひひひひひ」
「でもまあ、実際彼はこれのおかげで好投するようになったんだから。彼も二、三年後には一億円プレーヤーでしょうよ」
「それにしてもピッチャーのコントロールがこれほど心理的な影響を受けるとはねえ」
脳外科医は信じられないという表情で男に話した。
するとその男はゲームを中断し送信機を置くと、そんな脳外科医の方を振り返り、にやりと笑って言った。
「いいですか、だいたいコントロールなんてえのは、ボールがそこへ行くと信じて投げると、大体その辺に行くものです。それを、いらんことごちゃごちゃ考えて投げるから、ロボットみたいなぎくしゃくしたフォームになって、とんでもないところにボールがいくのです。まあ、とにかく! 自信を持って、思い切りよく投げることですよ。彼みたいにね。えへへへへへ」
コントロールコントローラー 完
(つまりコントロールって、案外そういうもんなんですよね。これは草野球で「ノーコン投手」で鳴らした私の経験でもあります)