十二

文字数 2,470文字

 ショウとサヤカはその後も捜査を続けた。ハダケンゴについてたくさんの情報を得たが、調べれば調べるほどハダという男のことがわからなくなっていた。大手企業の専務でありながら自らの個人企業を所有し、リスクの高い麻薬の密輸を企てた。それでいて北陽会の盃は貰っていない。単独犯行と考えるべきだろうが、そこまでのリスクを犯す理由が見えてこなかった。何かがずれている。核心部分に近づいているようで、遠ざかっているようにも感じる。結局ハダが何のために何を目的に動いているのかわからなかった。末端価格にして三億円相当の麻薬の密輸を、アベヤスオのような素人同然の男に任せたのも気にかかる。あれではまるで警察に捕まるのを想定していたようにも思える。ハダケンゴという男は経歴も謎に包まれている部分が多かった。元々東京、目黒の生まれだが、大学に入ってから起業し、成功するまでの経緯を知る友人と呼べる存在も無く、ビジネス以外に深く関わった人間が殆んどいない。その希薄な人間関係で、よくそこまで登りつめたものだと思う。ショウが知っているハダの人生からは、決して今のハダケンゴは形成されないような気がしてならない。あのサングラスの中の鋭い眼光。あれだけの企業を作り上げた手腕。そして裏社会との繋がり。何か肝心なパズルのピースが抜け落ちている。奴のバックボーンが全く見えてこないのだ。新宿W書店のT社長が言うように、山手のボンボンで育っただけの男ではない。確かにハダは、まだ子供の頃に父親を亡くしている。自殺だった。しかし母親はそれ以来、ハダケンゴの人生に登場しない。母親はまだ健在なのだろうか? そして謎に包まれた父親の自殺の理由とその人生は? ハダケンゴには不明な点が多過ぎる。以前、ショウがオカダジロウの墓参りに訪れた時、偶然ハダケンゴに出くわした。なぜ奴は房総半島に来ていたのだろうか? あれはきっと父親の墓参りだったに違いない。しかし何故、東京、目黒で生まれ育ったハダの父親の墓が、東京から離れたあの場所にあるのだろうか? ショウはもう一度、千葉房総半島へ行ってみることにした。

 その頃、ハダケンゴは再び鵜原海岸の小高い丘の上に建つ、特別養護老人ホーム「秋桜の郷」を訪れていた。その施設から少し離れた場所に霊園があり、父が眠っている。秋桜の郷からも太平洋の大海原が一望できる。夏の浜辺は海水浴客で賑わい、年間を通して四季折々の花に目と心が癒される。この施設は心を病んだ者が多く入所していた。精神科も併設されている。ハダケンゴは月に一度、この施設を訪れていた。二階建ての建物の一階に受付があり、基本的に個室への面会は自由だった。いつもの光景ではあるが、ハダが訪れると一階の広間で歌われていた童謡が止み、所員によるオルガンの伴奏だけが耳に届く。車椅子に乗った女性の目が酷く怯えたような眼差しで、こちらを凝視している。すれ違う患者の多くが同じような目をしている。空洞のような眼差し。それは初めハダの夢の中まで追いかけてきた。しかし今では、患者の方は一向にハダの顔を覚えることはなかったが、自分は見られることに少し慣れたのかもしれない。フロアは一周できるように繋がっている。行き止まりが無い。夜中に一人で徘徊しても、疲れるまで歩き続けることができる。最初に訪れた時は、思わず同じ場所をぐるぐると回ってしまった。二階の廊下の東側。最も海がよく見える場所に、母の部屋があった。ハダはドアを静かに開けた。
「母さん、来たよ。調子はどうだい?」
 母がその言葉に答えることは無い。部屋に入ってきた瞬間から、またあの怯えたような眼差しを息子に向け続けている。ベッドの脇のプラスチック製の花瓶の花を交換しながら、話しかけた。
「母さん、さっき父さんの墓にも行って来たよ。色々と事情があって、しばらく来ることができなくなりそうなんだ。ここにもじきに俺を探しに誰か知らない人が訪ねて来ると思うけど、母さんには関係ないことだから心配しなくていいんだよ」
 ハダは部屋の窓から太平洋を眺めた。水平線が白い筋のように見える。この海を見ていると気持ちが晴れやかになる。東京湾とは大違いだ。砂浜の白さと岬の高台を埋め尽くす花々。父が自殺して、それでも母は女手一つで自分を育ててくれた。母がこうなってしまった今でも、感謝の気持ちを忘れたことはない。父と違って、母は自然や草花を見るのが好きな人だった。だから医師から認知症だと知らされた時、まだ周囲の景色が感じ取れるうちに、花と自然に包まれた温かな場所に住まわせてあげたかった。父のせいで母は本当に苦労させられた。自分の苦労なんて母の苦労に比べれば、どうってことはない。父の死と借金を同時に背負った母に比べれば。
「母さん、一体母さんの人生ってなんだったんだろうね。俺、今でもあの日のことを時々思い出すよ。母さんは結局教えてくれなかったけど、父さんに贋作を掴ませたのは一体誰だったんだい? あの頃よく画廊に来ていた人たちかい? それとも前々から付き合いのあった中国の画商なのかい?」
 ハダケンゴはあの日のことを忘れたことはない。ちょうど小学校から帰宅した時に目の前にあった家の電話が鳴ったのだ。何の気なしに受話器を取った。しばらく無言が続き、やがて聞き慣れない異国の言葉を残して切れた。
「父さんが買ったはずの本物の絵は今どこにあるんだろうね? 父さんが買った絵は、タザキノボルという日本人画家の絵で、『月』(runa)というんだ。真紅な月が描かれている珍しい絵だ。あの真紅の月が今でも瞼の裏に貼り付いて離れないよ。俺はその絵を必ず父さんと母さんの元に取り戻す。その絵を持っている奴がきっと本当の犯人を知ってる。だから母さん、俺はそいつを探しに行って来る」
 ハダが立ち上がった。もしかすると母の顔を見るのはこれが最期になるかもしれない。ハダは母が施設で余生を過ごすには充分過ぎる金を用意していた。施設にはくれぐれも母のことを頼んで外に出た。潮騒が微かに耳に届いた。
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