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 六本木の超高層マンションの最上階からは、この世の全てが見渡せるような気がした。生まれ育った目黒の一等地に戸建てを買うのも悪くはないが、やはりどうしても昔のことが甦ってきてしまう。ハダケンゴは遮るものがない窓の外の景色を見ながら、脳裏では、また別の光景を思い出していた。
 部屋の白壁には様々な絵画が掛けてある。アンディ・ウォーホルやジャン・ミシェルバスキア、村上隆などの現代アートが中心だが、マルク・シャガール、ゲルハルト・リヒター、サルバドル・ダリなどの抽象画と呼ばれる名画もある。名の知れた画家の絵であっても、必ずしも全てが高額という訳ではない。時と場合、出所によっては数百万円単位で手に入れることもできる。それもこれもハダケンゴが中古美術品の市場に鼻が効くからであり、金さへ払えば手に入るものではない。実はハダケンゴにはどうしても手に入れたい絵画があった。それは日本人画家タザキノボルだった。ハダケンゴの父が目黒で画商をしていた時、どうしても手に入れたくて、中国人画商から手に入れたのがタザキノボルであり、父は贋作を掴まされて自殺した。当時の金額で数億円だったと記憶している。その贋作事件が無ければ・・・・・・と思うこともある。父が自宅兼ギャラリーで首吊り自殺をして以来、ハダケンゴと母の生活は一変した。山の手のボンボンから一気に家賃三万円のボロアパート暮らしに転落した。自宅兼ギャラリーは借金の担保として差し押さえられ、父の残した美術品は何一つ残らなかった。それでも母は女手一つで働いて、ハダケンゴを一流の大学にまで入れてくれた。父には恨みもある。しかし、騙されたのも父である。父のようにはなりたくない一心で勉強し、ビジネスに打ち込んできた。だからこうしてビジネスの世界で成功し、高級マンションを手に入れ、アート作品を買い漁った。本物のタザキノボルを手に入れることは、自殺した父の夢でもあり、自分自身の目標でもあった。タザキノボルは一般的には流通していない。それほど作品点数が少ないということだ。今、現時点で所有していることがわかっているのは二人。一人は台湾マフィア白蓮幇の小老、孫小陽。そしてもう一人は日本人で、CステージというAVメーカーの代表で、今では不動産事業を展開するヤマザキカズオCEOの二人である。ハダケンゴが掴んだ情報では、ヤマザキカズオCEOが所有しているのが『月』(LUNA)で、孫小陽が所有しているのが『海』(SEA)ということだった。ハダケンゴは上海での闇オークションに、いつの日かタザキノボルが出品されると踏んでいた。二十数年前にフランス、パリでタザキノボル夫妻が中国人窃盗団に殺害され、絵画が奪われたのである。必ずや中国人絡みの闇オークションで、タザキノボルが取引されると考えていた。思い出したくもないが、ハダケンゴの父が掴まされた贋作は『月』だった。真っ紅な月が心臓を貫くような絵だった。本物の行方は未だにわかっていない。

 夕刻、ハダケンゴは六本木のマンションを出て、『クリスタルエレメント』という高級クラブに足を運んだ。以前、新宿歌舞伎町の『ライムスター』にいたニッタジュンコがいる店だった。CステージのヤマザキカズオCEOもこの店の常連客であり、ニッタジュンコを通して、ヤマザキがタザキノボルの絵画を所有していると知った。ニッタジュンコは大学を卒業後、大手都市銀行の内定を蹴り、ハダの薦めもあり、六本木の高級クラブ、クリスタルエレメントに移籍していた。ショウがライムスターで会った時、彼女は大学四年で二十二歳だった。あれから四年経っているので現在は二十六歳になっていた。
 ハダケンゴが店に入ると、店のママがすぐに挨拶に立った。そして、他の客についていたニッタジュンコもすぐにハダの隣に座った。ハダとジュンコは付き合い始めてすでに五年が経っていた。ジュンコが大学三年でアルバイトを始めて間もなく、客として店を訪れたハダと知り合った。当時ハダは三十五歳だった。まだ大学生だったジュンコにとっては、かなり歳の離れた兄のような客であったが、大学は違えど互いに高学歴同士で、それにハダは当時からはぶりが良く、ジュンコにとっては憧れのような存在だった。ただ、初めは恋愛対象として見ていたわけではなく、父親とまではいかないが、尊敬の念を持っていたに過ぎなかった。それにハダは自分の仕事について話さなかった。それがミステリアスで、自分の知らない世界を持っているような気がした。金持ちの客なら他にもいたが、皆、ジュンコの父親以上に歳の離れた既婚者か、成金のIT社長で、金の使い方を知らないような男ばかりだった。それに比べてハダの金の使い方は、どちらかと言えば質素だった。金持ちであることは身なりや言動を見ればすぐにわかる。ハダの金の使い方はスマートでさり気なかった。時々、ジュンコにプレゼントを買ってきてくれるが、それも高価過ぎず安過ぎず、ジュンコが気を遣わずに、しかもがっかりしないようなものを選んでくる。見た目も三十五歳とは思えないほど若々しい。二十代後半と言われれば、そのまま信じてしまうだろう。それはハダが未婚であったからかもしれない。所帯染みたところが無く、専攻していたフランス文学の読書の趣味もぴったりだった。まるで同級生と話しているような気持ちだった。ハダは努力して慶應義塾大学の法学部を卒業していた。東京大学の学生だったジュンコに負けず劣らず博識で、常識も有り、唯一背が低かったけれども、そんなこと気にならないくらい、いつの間にかハダケンゴのことが好きになっていた。
 ハダにとってもニッタジュンコは、キャバクラで働かせておくには惜しいくらいの頭脳を持ち、見た目も好みだった。ただ、年齢が十三歳も離れていたし、自分は闇の世界の住人だった。初めはジュンコの将来を考えると、自分は本気になってはならないのだと思っていた。けれども理性を、次第に心情が上回るようになり、気がつくと新宿歌舞伎町のジュンコの店に顔を出していた。W書店のT社長のところにしばしば寄っていたのは、実はジュンコの店に行くための口実作りであり、時間潰しであった。店に通うようになって半年が経った頃、ジュンコを食事に誘った。銀座の高級鮨店で食事をした後、ハダのベンツで横浜の夜景を見に行った。酒は一滴も飲まなかった。普段から酒飲み客を相手にしているジュンコへの気遣いだった。それにハダは自分が運転する車でジュンコに夜景を見せたかった。しかし、まだハダには迷いがあった。ジュンコが十以上も歳の離れた男と付き合うのは、自分が金持ちであるからではないのか? と心のどこかで思っていた。夜景を見て成り行きでホテルに入り、抱かれてしまうような女なら、それきりだ。けれどもジュンコは横浜の街の夜景を見て、何だか少しつまらなそうにしていた。
「夜景は嫌いですか?」
「いいえ、そうじゃないんですけど、この光景って、遠くから見ればこんなに綺麗なのに、近寄って手に触れた瞬間に、消えてしまうものなんですよね。何だか少し虚しくて」
 ハダは黙って聞いていた。世の中の華やかなものに心奪われる人間は多いが、ジュンコの目には異なるものが映っている。自分の育った環境、裏の世界、それを理解してほしいとは思わないが、真実は華やかなものの中には無いのだと、理解しあえるような気がした。
「ここの夜景はつまらない。もし良かったら、別の場所に行きませんか? 実は、取って置きの夜景があるんです」
 ジュンコが頷いた。
「工場のライトアップされた夜景を見るのが好きなんです」
 すると、ジュンコがクスッとした。
「私も工場の夜景、好きですよ。工場って機械的で、地に足がついていて、カッコつけてなくて、胸がスッとするわ」
 それを聞いて、胸が熱くなった。
「今から工場地帯の夜景ツアーと行きますか」
「ええ、喜んで」
 ジュンコの瞳に街灯の明かりが反射して、潤んでいるように見えた。思わず抱きすくめてしまいたくなる。ハダも本当はありきたりな街の夜景など見たかったわけではなかった。単に大学生くらいの若い女性なら喜ぶのではないかと思ったに過ぎなかった。でも、ジュンコは違った。上辺だけの平凡なものではなく、もっと踏み込んだ人間の本質的なものを欲していると感じた。抱き寄せてキスをした。ジュンコは拒まなかった。二人はそれから深夜まで東京湾岸を照らす無機質な明かりを探してまわった。元々、秋葉原のオタク文化が好きだったハダも心の底から楽しいと感じた。ジュンコに何かを与えているという感覚ではなく、まるで同級生と宝探しでもしているかのように心が躍った。やがて二人は付き合い始めた。ハダは自分が裏社会の人間であることも、包み隠さずに話した。それを聞いてジュンコは押し黙っていたが、やがて吹っ切れたように口を開いた。
「私、もう同級生だとか、平凡なサラリーマンなんかじゃ満足できないの」
 指で鼻の頭を掻いた。
「年甲斐もなく、本気になってもいいかな」
「いいよ」
 ジュンコが目を瞑った。それからハダはジュンコのために六本木ヒルズの最上階に部屋を買い、ライムスターからクリスタルエレメントという高級クラブに移籍させた。ハダはジュンコを水商売から抜けさせたかったが、ジュンコの方が強く望んだ。刺激の無い、飼い猫のような人生なんてまっぴらだという理由だった。ハダは苦笑しながらも、そんなジュンコが愛おしくて堪らなかった。
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