⑹宵の明星

文字数 5,582文字

 その建物は、まるで墓場のようだった。
 解体途中の廃ビルなのだろう。放置された三角コーンや器具は、捨てられた粗大ゴミみたいに草臥(くたび)れている。
 照明の類は無かった。その廃ビルは、闇に包まれている。

 怖くはなかった。
 例え此処が死に場所になっても構わないと思った。
 感情が振り切れてしまったかのように、精神状態は凪いでいた。

 割れた窓から差し込む月明かりが頼りだった。
 其処此処に転がるコンクリート片を避けながら、翔は廃ビルの中を彷徨(さまよ)った。この建物の何処かに立花がいる。銃を持っていると知っていたが、彼が奇襲して来ないことも分かっていた。

 狙撃に最適な位置を考えると、自ずと立花の居場所は限られた。団地群が見渡せる方向の最上階、もしくは逃走経路を確保し易い場所。
 廃ビルに商業用ビルが隣接している。いざという時、自分なら其処から飛び移る。

 最上階はフロア全体に壁が無く、所々にコンクリートの柱が立っていた。大きな窓がある。窓硝子は無く、月明かりがきらきらと降り注いでいた。

 窓の横、壁に(もた)れるようにして立花が待っていた。
 闇の中で金色の双眸が光っていた。一瞬でも気を抜けば(のど)に食らい付いて来そうな獰猛(どうもう)な気配がした。サバンナの闇に生きる肉食獣は、きっとこんな空気をしている。

 立花は眼帯を外していた。
 右目の下に何か模様が見えた。それが何かの鳥だと気付いた時、立花が言った。



「ミナは?」



 立花は腕を組み、高圧的に言った。
 凄まじい威圧感に冷や汗がどっと噴き出す。翔は腹に力を込めて答えた。



「置いて来た。俺しかいねぇ」
「ふうん」



 立花は退屈そうに相槌(あいづち)を打った。
 そして、携帯電話を取り出して此方に向けた。ブルーライトがフロアを照らす。小さなスピーカーから、サイレンと、人の声がする。

 ミナの声だった。
 それに、幸村。録音じゃない。何を言っているのかは聞き取れないが、リアルタイムの声だった。

 盗聴器だ。
 翔は直感した。多分、仕掛けられたのはミナじゃない。幸村か、上杉か、心音か。



「初めて会った時」



 立花が言った。



「あのガキは、地獄にも花が咲くことを知ってると言ったんだ」



 面白ぇだろ、と立花が笑った。
 翔はその言葉に、彼等の間にある何かを覗いた気がした。

 翔は周囲へ視線を巡らせた。この場で戦闘になった時、どうやって立ち回れば、立花に勝てるだろう。向こうは銃を持ってる。此方は丸腰だ。手加減をする男じゃない。

 けれど、立花はその場から動かなかった。



「あいつがどんな花を咲かせるのか、見てみたいと思った。……その結果が、この裏切りだ」



 自嘲するように、立花が(のど)を鳴らした。

 裏切ったのか?
 分からない。裏切ったも何も、ミナは初めから反対していたじゃないか。

 翔は黙っていた。立花が答えや反論を求めているようには見えなかったからだ。



「……ミナを殺すのか?」
「いや、傷一つ付けるなって言われてるからな。だが、落とし前は付けてもらう」



 どうやって。
 翔はこれから待ち受けるだろう残酷な未来を想像した。何としてでも、この場で立花を止めなければならない。

 どうする。
 距離を詰めなければならない。直線的な移動は的になる。だが、立花は跳弾さえも自由自在に操る。
 銃の知識が無い。初弾を避ければ隙を突けるのだろうか。装弾数は幾つだ。ミナは避けた。遠距離で方向を予測していたのだろう。近距離で銃口が見えている自分に出来ないとは思わない。

 ただ、立花が動く気配すらないことが不気味だった。その余裕の態度が、自分と立花の実力差をそのまま表しているようだった。

 やれるかどうかは考えたって仕方がない。
 やるしかない。翔が足に力を入れた時、立花が目を見開いた。
 そのまま飛び掛かるべきだったのかも知れない。だが、その時、後ろから声がした。



「――どうなってるの!」



 甲高(かんだか)い、耳障(みみざわ)りな女の声だった。
 コンクリートと(ほこり)の臭いに、あの香水の匂いが漂う。携帯電話のブルーライトを頼りに、一人の女が歩いて来る。

 白滝奈緒子。
 依頼人が、どうしてこんなところに。
 翔は立花を見遣ったが、彼も面食らったように動かなかった。フロア全体に滲む殺気と緊張感に気付きもせず、白滝はヒステリックに(わめ)いていた。



「心音を取り逃がしたんですって?! 何の為に大金を払ったと思ってるの! こんなことなら、殺し屋なんて信用するんじゃなかった!」



 ハイヒールが欠けたコンクリートを砕く。
 罵詈雑言(ばりぞうごん)()き散らす白滝に、立花は一人納得したみたいな顔で溜息を吐いた。



「なあ、アンタ。俺に嘘を吐いたな?」
「嘘? 何のこと?」
「俺は復讐の依頼は受けねぇ。最初に、言ったはずだ」



 猛禽類の瞳が、槍のように白滝を貫いた。
 周囲の温度が急激に下がったようにさえ感じられた。殺し屋の殺気というものを肌で感じ、翔は鳥肌が止まらなかった。



「アンタの娘の病気は治っている。俺に依頼する動機がない」
「……でも、契約書に!」
「ちゃんと読まなかったのか? 口座への入金を確認後、依頼開始とする。――ただし、顧客に重大な虚偽があった場合を除く、と」



 立花が契約書を暗記していたことに驚いた。面倒なことはミナに任せきりだと思っていたのだ。



「アンタの依頼は復讐――、いや、腹癒(はらい)せだな。離婚で親権を奪われたことが、余程悔しかったんだな」
「デタラメよ! 私は何も知らなかったのよ!」
「だが、サインはされている。うちの事務員は優秀だ。不備はねぇ」



 立花は白滝に銃口を向けた。
 息を飲むような短い悲鳴が聞こえる。立花が言った。



「お前は嘘を吐いた。――裏切り者には、死の制裁を」



 白滝は何かを言おうとした。けれど、それが言葉になる前に、彼女の眉間には二つの穴が空いていた。

 白滝が後方へ倒れ込むと、頭蓋骨がコンクリートに打ち付ける乾いた音がした。
 床に墨汁のような血液が広がって、フロアは血液と硝煙の臭いに包まれた。

 立花は白滝の落とした携帯電話を拾った。
 ディスプレイを見た立花がおかしそうに鼻を鳴らした。



「見ろよ」



 いきなり投げて寄越され、翔は慌ててそれを捕まえた。ディスプレイに映っていたのは一通のメールだった。送信者には名前が無く、アドレスはランダムに並んだアルファベットだった。
 件名も無い。だが、その内容を見て、翔は理解した。

 NDAについて補足事項があります。
 場所は――。

 立花がこのビルから狙撃することを知って、白滝を此処へ誘き寄せた者がいる。それが誰なのか、翔にも分かる。

 立花はおかしくて堪らないみたいに、(ひたい)を押さえて笑っていた。廃ビルに女の銃殺死体、硝煙の昇る拳銃を片手にしながら、立花は(すで)に殺気がなかった。



「こっち来いよ、翔」



 立花に呼ばれ、翔は歩み寄った。
 硝子の無い窓から、団地群が見渡せる。遮蔽物もない。狙撃には最適な場所だった。
 襲撃されると分かっていなければ、避けられなかっただろう。ミナが、立花の行動を読み切ったのだ。



「狙撃地点の候補は幾つかあったんだ。近隣住民の帰宅時間、警官のパトロール、逃走経路、(あら)ゆる情報の中から、俺がこの場所を選んだつもりだった。だが、実際はどうだ? 俺はこの場所を

んだ」



 立花は笑っていた。
 殺し屋とは思えない、悪戯(いたずら)っ子みたいな笑顔だった。



「俺をこの場所に誘導して、ミナは死角に身を隠した。狙撃の角度やタイミングも読んでいたんだろう。この場所は見通しが良い。跳弾を使おうとすら考えなかったし、それに使える場所も無い」



 それだけじゃない。
 立花が言った。



「この場所に依頼人を誘き寄せたのも、ミナだ。契約違反であることを知って、俺に片付けさせる為に」



 全ては、ミナの(てのひら)の上だった。

 でも、ミナは誰にも死んでほしくないと言っていた。嘘じゃなかったと思うし、そのエゴの為に命を懸ける覚悟があった。それなのに、彼は白滝を切り捨てた。何故か。――依頼人が嘘を吐いていると分かったからだ。



「ミナはどうして、依頼人の嘘が分かったんだ?」



 翔にはそれが疑問だった。
 あの時、ミナは自分の推理が間違っていないことを確信していた。冤罪の可能性すら考えていないようだった。それはまるで、依頼人が嘘を吐いていることが、分かっていたみたいだった。

 立花は小さく笑った。



「あいつには、他人の嘘が分かるんだ」
「分かる?」
「本人は観察と統計データによる推論だと言っているが、その精度は機械より高い」



 あいつはただの子供じゃねぇ。
 そう言って笑った立花は、一杯食わされたとは思えないくらい晴れやかに笑っていた。



「やるじゃねぇか」



 怒ってはいない。それどころか、まるで面白い玩具(おもちゃ)を見付けた子供みたいな顔だった。



「……しゃあねぇ。今回は、ミナの働きに免じて手打ちにしてやる」
「それって」
「罰は、無しだ。さっさとあのガキ連れて帰るぞ」



 ポケットから取り出した眼帯を装着し、立花が歩き出す。片方の金色の瞳は月のように静かに(きら)めいている。

 翔には、もう一つ訊きたいことがあった。
 事務所でミナが怒鳴った時、立花に向かってハヤブサと呼んだ。それは一体、どういう意味なのか。



「ハヤブサって、何なんだ?」



 立ち止まった立花が、振り返る。薄く笑ったその面に、底知れぬ何かを感じ取り、翔の足は知らず後退していた。



「情報が欲しけりゃ、対価を寄越せ」



 いつもの台詞を吐き捨てて、立花は笑っていた。














 4.小さな掌
 ⑹宵の明星












 離婚の理由は、母親による娘の慢性的な虐待だった。
 心臓病の娘を真冬にベランダへ出したり、些細(ささい)なことで手を上げたり、――首を()めたりしたらしい。

 裁判所に残された記録では、母親は自らの罪を認めながらも、父親の育児不参加を理由に親権の保留を嘆願(たんがん)した。だが、それは受理され、親権は剥奪(はくだつ)された。結果、娘は父親に引き取られ、母親には接近禁止令が出された。

 実の母親に接触禁止令が出る程に、状況は緊急を要しており、心音の生命は危険に(さら)されていた。裁判で提出された書類は、白滝奈緒子の娘に対する激しい暴力の記録だった。

 だが、裁判での敗北は彼女にとって許されない汚点だった。立花の事務所にやって来たのは、そんな頃だった。

 白滝奈緒子は底抜けのクズで、生かす価値もない人間だったのかも知れない。自己承認欲求に踊らされた憐れな女だったのかも知れない。翔には、分からない。

 立花が依頼を受けた時、ミナがいれば何か変わったのだろうか。自分が(いさ)めていれば、立花が断っていれば、何か。そんな無意味なことばかりを考える。

 あの家族は崩壊していた。
 白滝奈緒子が事務所にやって来た時点で、再生することは不可能だった。

 善人が殺されても、悪人が死んでも、後味の悪さばかりが(つの)る。立花はとうに割り切ったのだろう。では、ミナは。

 事務所に戻ってから、ずっとパソコンに向き合っていた。警察を()(くぐ)って帰宅する間も無言だった。
 これはミナが選んだ答えだ。自分が口を出すことじゃない。



「ミナ」



 定位置に座っていた立花が、呼んだ。
 ミナは振り返らなかった。



「背中が重いだろう」
「Nothing」



 突き放すような冷たい口調だった。立花は笑って、立ち上がった。足音も気配もなく、まるで幽霊みたいにミナの元へ行くと、その子供を見下ろした。



「依頼人とターゲットの命を天秤に掛けて、お前はあのガキを選んだ。お前は俺と同じ、人殺しだ」



 あの時、ミナは心音を助ける為の策を講じた。それは依頼人、白滝を殺すことと同義だった。

 ミナは眉一つ動かなさかった。
 透き通る眼差しは宝石のように輝いて、惑星のような凄まじい引力で視線を惹き付ける。強烈な存在感を発揮しながら、ミナは叩き斬るような容赦のない声で言った。



「俺が選んだ道だ」



 翔は目を伏せた。

 そうだ。分かっている。
 心音が可哀想とか、白滝を罰したいとか、立花の(ほこ)りを守りたいとか、そんなことは初めから関係がなかったのだ。

 ミナは自分のエゴを貫いた。
 自分が自分である為に。それが正しいことだったのかなんて答え合わせは誰にも出来ない。

 立花は少しだけ笑った。



「お前の貫こうとするエゴが何を救い、何を変えるのかは分からない。……だが」



 立花は栗色(くりいろ)の頭をさらりと撫で、金色の瞳で覗き込んだ。



「母親に捨てられた子供に手を差し伸べて、この世の終わりじゃないと言ったお前は、ヒーローに見えたよ」



 ヒーローとは行動の結果による相対評価。
 助けるべき弱者がいなければヒーローは存在しない。

 心音に手を伸ばしたあの時、ミナは確かにヒーローだった。

 ミナが振り払う間もなく、立花は身を(ひるがえ)して背伸びをした。



「今日のメシは俺が作る」
「珍しいね」
「お前の作るメシは大味で、飽きるんだ」



 酷いな、とミナが苦笑した。
 事務所を出て行く寸前、振り返った立花が言った。



「よくやったな、翔」



 扉が閉じる。翔は何を言われたのか分からず(しば)し呆然とした。だが、理解すると同時に口元が(ゆる)むのを押さえ切れなかった。

 何のことだと問い掛けるミナの頭を撫でる。
 パソコンのディスプレイには、翔には理解不能の細かな英文がびっしりと浮かび上がり、作物に群がるアブラムシのようだった。それだけで、この子が普通の子供ではないことを痛感させるには十分だった。



「次は相談しろ」



 翔が言うと、ミナはばつが悪そうに目を伏せた。
 相談しなかったミナの落ち度か、それに値しなかった自分の無力か。そんなことはどうでもいいことだ。



「俺はお前の味方だ」



 本心だった。
 ミナが顔を上げる。濃褐色の瞳は満天の星みたいに輝いていた。小さな掌が拳を握り、そっと伸ばされる。翔は意図を察し、同じようにしてぶつけた。



「I believe you」



 子供の口約束みたいなものだ。
 だけど、ミナが天使のように笑うから、翔はそれでいいかと思った。
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