第5話 訪問者④
文字数 1,626文字
「川瀬君は私を泣かせる天才だね」
止まったはずの涙が再びはらはらと零れてくる。
ポケットから取り出したハンカチは先程の涙でまだ湿っていて、今日はよく泣く日だなと深雪は思う。それもこれも、川瀬が嬉しい言葉ばかりを並べてくるせいだ。
「ちょっと憎らしい」
深雪はそう付け加えた。本当は「嬉しくてちょっと憎らしい」という意味なのだが、敢えて真意は伝えない。
「なんで!?」
当然の反応を見せる川瀬を、深雪は頬を濡らしたまま「さぁ、どうしてかな」と言ってゆるりと躱した。
そうしてまた二人は笑い合う。深雪は純粋に楽しくてたまらなかった。
あんなにも沈んでいた気持ちが、少し人と関わるだけでこんなにも簡単に引き上げられる。それは今この瞬間だけで、すぐにまた心は色を失うのかもしれない。それでも今は、少しでも色づいた時を楽しみたかった。
そのあとは学校生活に関係のない雑談で盛り上がった。話してみると川瀬とは共通点が多いことがわかり、好きな漫画や音楽の話題はより盛り上がりを見せた。食べ物の好みもわりと似ていて、まだこの辺りの地理に詳しくない深雪に美味しい店も教えてくれた。
「俺、もう一度保健室に行ってみるよ。先生戻ってきてるかもしれないし」
しばらくして川瀬が掛け時計を見た。彼が相談室に来てから、それなりに時間が経っている。
言われて、深雪も川瀬はもともと保健室に用があったのだと思い出した。
この時間も終わりを迎えようとしている。また独りに戻るのかと考えると、深雪の心はまた少し沈み始めた。
だからといって川瀬を引き止めるわけにはいかない。今の深雪と彼とでは、過ごしている世界が違うのだ。
「先生、いるといいね」
名残惜しい気持ちを抑えて深雪が言う。
「そうだね」
返事をして川瀬は椅子から立ち上がった。
川瀬はドアに向かって歩いていく。彼の着ているクラスTシャツの背部のデザインが、深雪のクラスメイトなのだとはっきり示している。
ドアノブに手をかけたところで、徐に川瀬が振り返った。
「藤野さんは、いつもここにいるの?」
訊かれて深雪は「うん」と頷いた。
「欠席でもしない限りはここにいるよ」
「じゃあ、また来てもいい?」
予想すらしていなかった言葉に、深雪は「え?」と目を瞬かせた。
「今日はじめて話したけどさ、俺、もっと藤野さんと話してみたいと思ったんだ。もちろん藤野さんがよければだけど」
言われて深雪は少しの間思案した。川瀬と話すのは楽しかったし、できればもっと話をしたい。そしてまた、ここに来てくれたら嬉しいと思っている。
しかし、彼がここに来ることを許してもいいのだろうか。本当は同じクラスの誰かを連れてきて、からかうのが目的なのではないか。こんなふうに話してくれるのは、今だけなのではないか。そんな考えが浮かんできて、深雪はまだ川瀬のことを信用しきれずにいた。
「私も、もっと川瀬君と話してみたいけど……」
躊躇ってから意を決して不安を口にしてみた。
すると川瀬は深雪の嫌がることは絶対にしないと約束してくれた。
「藤野さんのことは誰にも言わないし、ここに来る時は俺が一人で来る」
「本当に?」
「うん、約束する」
「わかった。ありがとう」
深雪はほっとして胸を撫で下ろした。
「それじゃあ、近いうちにまた来るから」
そう言い残して川瀬は相談室を出て行った。
室内が静まり返る。なんとなく深雪は辺りをぐるりと見回した。
部屋の奥にはシンプルなキャビネットに特定の使用者がいないデスク、その近くには来客用のローテーブルとソファーが置かれている。そして出入口付近には深雪が普段使用しているテーブルと椅子があり、いつも通りの見慣れた空間だ。
今し方までここに川瀬がいたなんて信じられなくて、夢でも見ていたのではないかと錯覚しそうになる。
しかし、いつもは陰鬱な心が今はほんのりと温かい。確かに嬉しかったと感じている。まるでまっさらな塗り絵に色が塗られ始めた、そんな感覚だった。
止まったはずの涙が再びはらはらと零れてくる。
ポケットから取り出したハンカチは先程の涙でまだ湿っていて、今日はよく泣く日だなと深雪は思う。それもこれも、川瀬が嬉しい言葉ばかりを並べてくるせいだ。
「ちょっと憎らしい」
深雪はそう付け加えた。本当は「嬉しくてちょっと憎らしい」という意味なのだが、敢えて真意は伝えない。
「なんで!?」
当然の反応を見せる川瀬を、深雪は頬を濡らしたまま「さぁ、どうしてかな」と言ってゆるりと躱した。
そうしてまた二人は笑い合う。深雪は純粋に楽しくてたまらなかった。
あんなにも沈んでいた気持ちが、少し人と関わるだけでこんなにも簡単に引き上げられる。それは今この瞬間だけで、すぐにまた心は色を失うのかもしれない。それでも今は、少しでも色づいた時を楽しみたかった。
そのあとは学校生活に関係のない雑談で盛り上がった。話してみると川瀬とは共通点が多いことがわかり、好きな漫画や音楽の話題はより盛り上がりを見せた。食べ物の好みもわりと似ていて、まだこの辺りの地理に詳しくない深雪に美味しい店も教えてくれた。
「俺、もう一度保健室に行ってみるよ。先生戻ってきてるかもしれないし」
しばらくして川瀬が掛け時計を見た。彼が相談室に来てから、それなりに時間が経っている。
言われて、深雪も川瀬はもともと保健室に用があったのだと思い出した。
この時間も終わりを迎えようとしている。また独りに戻るのかと考えると、深雪の心はまた少し沈み始めた。
だからといって川瀬を引き止めるわけにはいかない。今の深雪と彼とでは、過ごしている世界が違うのだ。
「先生、いるといいね」
名残惜しい気持ちを抑えて深雪が言う。
「そうだね」
返事をして川瀬は椅子から立ち上がった。
川瀬はドアに向かって歩いていく。彼の着ているクラスTシャツの背部のデザインが、深雪のクラスメイトなのだとはっきり示している。
ドアノブに手をかけたところで、徐に川瀬が振り返った。
「藤野さんは、いつもここにいるの?」
訊かれて深雪は「うん」と頷いた。
「欠席でもしない限りはここにいるよ」
「じゃあ、また来てもいい?」
予想すらしていなかった言葉に、深雪は「え?」と目を瞬かせた。
「今日はじめて話したけどさ、俺、もっと藤野さんと話してみたいと思ったんだ。もちろん藤野さんがよければだけど」
言われて深雪は少しの間思案した。川瀬と話すのは楽しかったし、できればもっと話をしたい。そしてまた、ここに来てくれたら嬉しいと思っている。
しかし、彼がここに来ることを許してもいいのだろうか。本当は同じクラスの誰かを連れてきて、からかうのが目的なのではないか。こんなふうに話してくれるのは、今だけなのではないか。そんな考えが浮かんできて、深雪はまだ川瀬のことを信用しきれずにいた。
「私も、もっと川瀬君と話してみたいけど……」
躊躇ってから意を決して不安を口にしてみた。
すると川瀬は深雪の嫌がることは絶対にしないと約束してくれた。
「藤野さんのことは誰にも言わないし、ここに来る時は俺が一人で来る」
「本当に?」
「うん、約束する」
「わかった。ありがとう」
深雪はほっとして胸を撫で下ろした。
「それじゃあ、近いうちにまた来るから」
そう言い残して川瀬は相談室を出て行った。
室内が静まり返る。なんとなく深雪は辺りをぐるりと見回した。
部屋の奥にはシンプルなキャビネットに特定の使用者がいないデスク、その近くには来客用のローテーブルとソファーが置かれている。そして出入口付近には深雪が普段使用しているテーブルと椅子があり、いつも通りの見慣れた空間だ。
今し方までここに川瀬がいたなんて信じられなくて、夢でも見ていたのではないかと錯覚しそうになる。
しかし、いつもは陰鬱な心が今はほんのりと温かい。確かに嬉しかったと感じている。まるでまっさらな塗り絵に色が塗られ始めた、そんな感覚だった。