第8話

文字数 4,527文字

 日曜日の駅周辺はいつものように混雑していた。歩道に立っていると、目の前に止まった黒いセダンの窓が開いた。
「待たせたな」
 運転席に座っている主任は、紺色のスーツを着ていた。
「すみません、急に呼び出して」
「お前が俺を呼び出すときは、必ず新しい証拠が見つかった時だからな。断る理由なんてないだろ」
 主任は笑顔を浮かべてそう言った。確かに、現役時代も同じように主任を呼び出すことは度々あった。どっちが上司か分かんないなと、冗談交じりに言われたことを思い出す。
「話は中で聞こう。さあ、乗って」
 ドアを開けて助手席に乗り込んだ。後部座席には、平野刑事が座っていた。私は彼に向かって小さな会釈をすると、彼も同じように会釈を返してくれた。
「鳥居明美は、アナフィラキシーショックで死んだというのは本当か?」
「はい。そうだと思います」
 昨晩、主任から鳥居明美の胃の中から、ピーナッツの成分が検出されたと聞いた。
「ピーナッツには、強いアレルギーを引き起こす物質が含まれているんです。重度のアレルギーだと、処置が遅ければ死に至ることもあるそうです」
「お前、一晩でそこまで調べたのか」
「インターネットに詳しく載っていたので、徹夜で調べました」
 進に気づかれないように、睡眠時間を削ってインターネットで情報を集め続けた。最終的に行き着いたのは、アナフィラキシーショックという単語だった。アナフィラキシーショックとは、アレルギー成分が体内に入ると拒否反応を起こしてしまう症状のことだ。アレルギー反応の主な症状は、呼吸困難や嘔吐、じんましんなどがある。遺体の首筋が赤く被れていたのは、喉元当たりに発疹症状が起きたからだ。
「じゃあお前の言う通り、アレルギーによるものだとしよう。でも、彼女が食べたのは少量のパンだぞ。そんなんで死ぬかね」 
 主任は、半信半疑だと言わんばかりの表情を浮かべていた。人によってアレルギーの度合いも、引き起こす症状も違うから、想像しにくい部分は否めない。昨日調べた中で分かっている情報では、アレルギーの中でも最も危険なのはピーナッツで、極少量でも症状を発症しやすいらしい。このアレルギーを持っている人物は、日々の生活の中で摂取しないように気を付けなければならないらしい。   
 今まで黙って聞いていた平野が、口を挟んできた。
「アレルギーで亡くなるのって、子供だけだと思ってました。これは僕の勝手な思い込みですけど」
「そうでもないらしいです」
 私は大きく首を横に振って否定した。
「大人になってから急にアレルギー症状を引き起こすことは珍しくないそうです。花粉症もアレルギーの一種ですけど、大人になって急に発症したりしますし。それに、今回彼女が死に至った一番の原因は、急激な運動をしたことだと思われます」
「急激な運動?」
「彼女は、店を出てすぐに引ったくりに遭ってますよね。そして、その犯人を追うために走って追いかけてます。ピーナッツを摂取してすぐに激しい運動をしたために、体に循環するまでが早かったんだと思います。この記事を見てください」
 鞄の中から、四つ折りの紙を取り出し主任に差し出した。これは昨日、インターネットで調べた記事を印刷したものだ。
「アメリカの高校で、実際に起こった出来事です。彼女が亡くなった理由だと思われます」
「理由ねぇ」
 訝しそうな表情で、私の手から紙を取って読み始めた。
記事の内容は、アメリカのある女子高生の死を伝えていた。死因は、ピーナッツバターが塗られたサンドイッチを食べたことによる呼吸困難だった。重度のピーナッツアレルギーだった女子高生は、百メートル走の練習中だった。
「鳥居明美は、重度のアレルギーでした。ピーナッツを摂取してすぐにアナフィラキシーショック症状になり、呼吸困難に陥ったのだと思います。彼女のように重度だと、すぐに処置をしないと死に至る事故は珍しくないようです」
 アナフィラキシーショック症状は人によって様々だが、呼吸困難や頭痛、めまいや嘔吐などに襲われ、最悪のケースは死に至る。日本での年間の死亡数は高くはないが、海外に目を向けるとピーナッツアレルギーの処置が遅れて命を落とす死亡例は決して低くはない。
アメリカでは、アレルギーでの事故死は頻繁に起こっていて社会問題にもなっているという。特に、ピーナッツの場合、重篤な症状になりやすいという。
「つまりだな、お前が言いたいのは、鳥居明美は村岡によってアレルギーを起こされて死んだってことか?」
 私は頷いた。
「そうだと思います。急激な運動した後、呼吸困難に陥ったのだと思います」
 主任は再びうーんとうなった。さっきから腑に落ちない様子で、何度も腕を組み考え込んでいた。アレルギーで亡くなったことが信じられないようだ。
「じゃあ、村岡は鳥居明美を走らせるために、引ったくりをしたってことか?」
「そうなりますね」
 村岡が買い物袋を引ったくった理由は、鳥居明美に急激な運動をさせることが一番の目的だったのだ。
「でも、そんなこと可能なんですか? 引ったくりをして、発作を起こさせたってことでしょ。そんなの、上手くいくのかな」 
 平野刑事も、合点がいかないようだった。でも、アレルギーのことを調べまくった私には理解できる。たかがアレルギーだろうと高をくくっていると、とんでもないしっぺ返しを食らう。アレルギーは、それほど怖い物なのだ。
「やっぱり俺は信じられないな、そんなの」
 平野刑事は腕を組みながら、ずっとブツブツと独り言をつぶやき続けている。今は、信じることのできない人間を説得する時間はない。話を前に進めるためには、無理やり納得してもらうしかなかった。彼の表情を横目で見つめながらも、私は話を続けた。
「それに、村岡は首謀者ではありません。彼は、雇われただけです」
「どうしてそう言い切れるんですか? 根拠でもあるんですか?」
 私の発言に平野は再び食いついてきた。彼の体も、いつの間にか前のめりになっていた。
「百万の札束です。主犯は高岡奈美です」
「どうして、そう言い切れる?」
 主任も、前のめりになって聞いてくる。
「ピーナッツを摂取した場所が、高岡ベーカリーだったからです」
 故意にピーナッツを摂取させられたのなら、二人はグルだ。
「じゃあ、もう一度店主に話を聞きに行くか」
「それなんですけど、もう調べはついてます」
「えっ、どういう意味だ?」
 主任は口を半開きにさせ、驚きを隠せないようだった。まさか、私に先を越させるとは思ってもいなかったようだ。
「実は、私、高岡ベーカリーのパート従業員の女性に話を聞いたんです」
「ホントか? よくそんな時間あったな。親御さんに子供を預けて聞き込みしたのか?」
 私が頷くと、主任の顔はニヤけ始めた。私に出し抜かれた時、よく主任は苦笑いをしていた。ずっと変わらない主任の癖だ。
「仕事終わりの彼女を捕まえて、話を聞きました」
 高岡奈美には知られたくなかったので、場所を駅から数メートル離れた喫茶店に移して話を聞いた。従業員の女性は私に呼び止められて戸惑っていたが、素直に話をしてくれた。
「確かに。その時の店長は、いつもと違ってました」
 鳥居明美が店に来た時のことを、従業員は鮮明に覚えていた。
「派手な服装だったんで、よく覚えています。その女性が店に来た時、わざわざ厨房から出てきたんです。そんなこと、今まで一度もありませんでした。それに」
「それに? 何ですか」
「私見たんです。店長がポケットから小さなタッパを出すところ」
「タッパ、ですか? 中には何が入ってたんですか」
「パンです。一口大に切られていて、爪楊枝も刺さっていました。その派手な女性に食べてもらうために用意したと、すぐに分かりました」
 やはり、そうだったか。従業員の話は、私が思い描いていた答えを後押しするものだった。鳥居明美がピーナッツを摂取した場所は、高岡ベーカリーだったのだ。
私の告白に、主任はすぐに反応した。
「じゃあ、高岡奈美が用意したパンに、今回の原因になったピーナッツが混入されていたってことか?」
「はい、そうとしか考えられません」
「ちょっと、待ってください」
 平野が再び口を挟んだ。
「鳥居明美は、自分がピーナッツアレルギーだってことは分かっていたんですよね? だとしたら、ピーナッツの匂いがするパンを口にしますかね」
「まぁ、そうか。匂いで分かるもんな。拒否するのが自然だよな」
 主任も、平野刑事の意見に同調した。
「いえ、それができるんですよ」
 私はそう断言した。そして、鞄の中から小瓶を取り出した。
「これはピーナッツの香料です。香りも味もピーナッツそっくりなんですが、香料なので口に入れてもアレルギー反応を起こしません。実は、これ、高岡ベーカリーに置いてあったものと同じのなんです」
 主任と高岡ベーカリーに聞き込みに行ったとき、同じものが棚に置かれていた。
「お前、一瞬で記憶したのか。厨房に入ったのって、五分もいなかったぞ。その間に、棚にあったものを記憶してたのか。ホント、すげーな」
 主任は苦笑いを浮かべながらそう言った。
「つまり、偽のパンを彼女に食べさせたってことか」
「はい、食べることを誘導させられたんだと思います」
「いつからだ? いつからパン屋の店主を疑い始めたんだ?」
「主任に高岡ベーカリーに連れて行ってもらって、話を聞いたときですね」
「そんな前かよ」
 主任と私が店に現れた時、彼女の驚き方がずっと気になっていた。あの時の彼女の驚き方は、来るはずのない警察が来たことに驚いていた。だから、怪しいというか何となく気になっていた。
 主任は、苦笑いを浮かべるとからかうような口調で言った。
「すげーな。お前が、刑事に見えるよ」
 意表を突く主任の言葉に、何も言い返せなかった。確かに、現役の刑事だった頃の口調に戻っているなと自分でも思う。
「そうか、高岡奈美に話を聞きに行かないとな。村岡もだ」
 主任は時計を見ながら、平野刑事に問いかけた。
「そうですね。高跳びされても困りますからね」
 村岡は今朝、釈放されたという。でもどうしてだろう。安堵ではなく、不安感が増していくのだ。
「何か……嫌な予感がします」
 独り言のようにポツリと言った。
「えっ? どういう意味だ?」
 主任は不思議そうに私を見つめた。
「上手く説明できないんですけど、そう思うんです」
「なるほど、そうか。じゃあ、急ごう」
 主任は車のエンジンをかけた。どうやら私も現場に連れて行くらしい。でも、これ以上主任と一緒にいてはいけないと思った瞬間、咄嗟に言葉が口を突いて出た。
「私、降ります」
「えっ? 一緒に行かないのか」
 主任は意表を突かれたのか、慌ててエンジンを止めた。
「私、部外者なので。これ以上の捜査に加わることはできません」
 一瞬の静寂が社内を包み込んだ。私の出る幕はここまでだ。この先に足を踏み込むことは、今の私には許されていない。
 主任は何か言いたそうに口を開けたが、静かにこう続けた。
「……そうか、わかったよ」 
「お疲れさまでした」
 私は頭を下げて、車の外に出た。車は名残惜しそうに、ゆっくりと前へと発進していった。
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