第7話

文字数 25,329文字


 ヤツからの連絡が入ったのは、正午を少し過ぎた頃だった。パン屋にとっては一番商品が売れる時間帯だったので、少しイラッときた。この日はパートの女性と私の二人だけで、ひっきりなしに来る客の対応に追われてなければならなかったからだ。だから二回、彼の着信を拒否した。でも着信はしつこくて、さすがに三回目になると出ないわけにはいかなくなった。
「ちょっと、ごめん。任せていいかな」
 パートの女性にそう言うと、私は店の奥にある二畳ほどの事務室の中に入った。そこは、小さな机と椅子とその上にパソコンしか置いてない。一人部屋なので、パートの女性には休憩室として使用してもらっている。改めて携帯を右の耳元に当てると、小さな深呼吸をした。そして小声で話し始めた。
「もしもし」
『何だよ。いるんだったら早く出ろよ』
 電話の声はかなりイライラしていた。
「仕方ないでしょ、仕事中なのよ」
 忙しい時間帯を狙って電話をしてきたのか? と思わず言い返したくなる。こみ上げてくる怒りを懸命に抑えながら、話を続けた。
「申し訳ないけど、後にしてくれない? 今、すごく忙しいのよ」
 私の尖った言い方が相手の癇に障ったのか、強い口調で言い返された。
『なんだよ、その言い方。こっちはさ、自分の身を切って、あんたに協力してやったんだぜ』
「それは……それは、感謝してるわよ。でも」
 言い終わらないうちにすぐに早口で言い返された。
『俺、本当に頑張ったんだぜ。刑事に怒鳴られてもさ、あんたのことは、一言もいわなかった』
「当たり前でしょ。そういう契約なんだから」
 私は部屋の隅に行き、声のトーンを落として小声でしゃべり始めた。誰にも聞こえないと分かっていても、聞かれていることを想像してしまうのはやましいことをしている自覚があるからだ。
『もっと感謝されてもいいんじゃねーの? あんたのために、ここまでやる人間がいるか? 自分のじゃなくて、他人の復讐を手伝うヤツがいるのか?』
「一つ確認したいことがあるんだけど。私のことはバレてないわよね。こっちにも警察が来たのよ」
 ヤツの質問には答えず、質問を投げかけた。刑事が店にやって来たのは、想定外の出来事だった。万事休す。そう思った。こいつが全てを白状してしまったと、本気で思った。話を聞きに来ただけだと分かってからも、胸の動揺は止まらなかった。まさか、厨房にまで入ってくるなんて。警察が帰った後も、疑われるような話をしなかったかとか、再び警察が訪ねてきたらどうしようかと不安でたまらなかった。
『心配すんなよ。バレてねえから出られたんだからよ。まあ、年配の刑事にかなり突っ込まれてヤバかったけど』
「ヤバかったってなによ。冗談じゃないわよ、上手くやってって言ったじゃない」
 ヤツは、私に対して子供をなだめるような言い方をし始めた。
『大丈夫だってぇ。そこは信じてくれよぉ。どうして財布を取らなかったんだって言われたけど、すげー腹が減ってたんだって言い張ったら信用したよ。警察なんかさ、チョロいもんだぜ』
 ヤツはヘラヘラと笑った。やっぱり、そこを突っ込まれたか。でも、警察がこいつの主張を信じてくれたんだったら御の字だ。
『残りの金は、今日中に貰うからな』
ヤツは急に声のトーンを落とすと、私を威嚇するように言い放った。こいつの頭は、札束で出来てるのか。どうやら、お金のことしか頭にないらしい。
「分かってるわよ」
『今すぐじゃだめか? ちょっと出てこいよ。今、近くにいるんだ』
「えっ?」
 背筋が凍り付いた。釈放されたとはいえ、私の周りをウロウロして欲しくなかった。
『ちょ、ちょっと。近くに来ないでって言ったでしょ。あなたとの関係がバレたらどうすんのよ。店には来ないでよ。来たら金は渡せないわ』
チッと舌打ちする音が聞こえた。
「夕方じゃないと無理よ。今日は特売日の日だから、忙しいの」
『まあ、仕方ねえな。また電話するわ』
 ため息と共に、ヤツは通話を切った。腰から下の力が抜けていき、椅子に崩れるように腰を下ろした。何はともあれ、予定通りに事が進んでいることに、胸をなでおろした。と同時に、脱力感が私の全身を包み込んだ。
 ヤツが警察に自首してから十日が経とうとしていた。当初はもう少し早く出られるかと思っていたが、やはり人が死んでいることが事態を長引かせたのだろう。
 村岡には報酬の前金として、百万を既に現金で渡してある。残りの二百万は、警察に怪しまれずに出てこられたら手渡す契約だ。少しでもこっちが不利になるような状況になったら、無報酬となると何度も釘を刺した。
「多分、これっきりじゃないだろうなぁ」
 私はため息交じりの独り言を吐いた。恐らく、ヤツは何度もここにやって来るだろう。
『金がなくなった。金をくれなきゃ、お前のやったこと、バラすぞ』
 そう言って、私に金をせびりにやってくるのは、目に見えていた。今でさえ、金のことしか頭がないのだ。そうなる前に先手を打っておく必要があった。
「あんたの思い通りにはさせないから」
 私は、机の引き出しを開けた。中には、出刃包丁がパッケージに入ったまま入っている。これでヤツの胸を突き刺すイメージトレーニングを、先週から毎日している。ヤツが捕まった日からずっとしている。ヤツの胸を一突きすると、ドクドクと血が滴り落ちていく。ヤツは声すら出せず、頭から地面に崩れ落ちる……まさかその日が今日だとは、ヤツは想像すらしていないはずだ。
 ヤツをどこで殺すかもリサーチ済みだ。仕事が終わってから、ヤツを近くの吉幸公園に呼び出して車に乗せる。そのまま、郊外の人気のない場所に彼を連れて行き、包丁を胸に突き刺して殺害する。そして、ヤツの遺体を郊外の森林に廃棄するという殺人計画だ。既に車のトランクには、スコップとビニール袋を用意してある。
「あと、少しだ」
 私は自分に活を入れるために、大きく深呼吸した。ヤツを始末してしまえば、何事もなく仕事に打ち込める。そして日本一美味しいパンを作り続けることができる……はずだ。
「店長」
 扉の向こうからの声に、我に返った。包丁が入った引き出しを慌てて閉めると、携帯をポケットに突っ込んだ。
「どうしたの?」
 扉の向こうのパート従業員へ話しかけながら、ドアを開けた。そこから顔を出したのは、アルバイトの女性だった。
「一円玉がなくなってしまって。追加してほしいのですが」
「すぐ行くわ」
「お願いします」
 女性は安堵の表情を浮かべると、ドアを閉めた。まさか店長であるこの私が、これから人を殺すだろうとは微塵にも感じていないだろう。これでいい。これから先も本当の自分を隠し続けよう。誰にも私のこの気持ちなど理解してくれる人はいないのだから。
壁時計を見ると、午後一時になっていた。あと少しで終わる。全てが終わるのは、後もう少しだ。

 あっという間に時間は過ぎ、時刻は午後六時になろうとしていた。いつもなら最後の片付けは、パートの女性にも手伝ってもらうのだが、この日は違った。人を包丁で殺すのだ。人を殺めることへの集中力を高めるためには、一人になりたかった。
 そもそも、相手は男で私より力もある。村岡の胸に包丁を突き刺すことなんてできるのだろうか。もしかしたら失敗するかもしれないという不安がわき上がってくる。失敗すれば、私の命のほうが危ない。
 でも、それでもよかった。今の自分の気持ちとして、娘の敵が討てただけで満足だった。だから、たとえ死んでしまっても娘のそばに行けると思えばいいではないか。もう後には引けなかった。
 一人で食器類を洗っていると、水しぶきの音が工房内に響き渡った。その音を聞きながら、揺れる心を落ち着かせていく。私は間違っていない。全ては自らの欲を満たそうとするやつらがいけないのだ。亡くなった鳥居明美も自らの罪を認めなかったからだし、村岡だって自らの欲を満たそうとしたから罰を受けるのだ。そう、それはつまり自業自得ということなのだ。
 そう自らに言い聞かせながら、手元を動かし続けた。洗い物を済ませると、封を切ったパン粉の袋の口を、ゴムで縛って冷蔵庫の中に入れようとした。だが、伸びきったゴムは、力を入れたとたんにはじけ飛ぶと、床に落ちた。そのゴムを取ろうと足を屈めた瞬間、頭の中に鈴奈の顔がふっと浮かんだ。
「鈴奈……」
 あの子の名前を声に出して呼んだのは、何年ぶりのことだろう。鈴奈は私が二十歳の時に産んだ子供だった。三歳になろうとしていた娘は好奇心が旺盛で、どんなことにも興味を示す活発な女の子だった。
 鈴奈は輪ゴムで遊ぶのが好きな女の子だった。親指と人差し指を上手に使って、壁に向かってゴムを投げ飛ばす遊びにハマっていた。至る所からゴムを見つけては、手に取って遠くに飛ばして一人でキャッ、キャッと笑っていた。でもある日のこと、ゴムが目の近くに飛んでしまったことがあった。眼球に当たれば後遺症が残る可能性だってある。それでもゴム遊びを止めない鈴奈を叱った。
「ちょっと、あぶないじゃない。もうやめなさい」
 私は彼女からゴムを取り上げた。その瞬間、鈴奈は大声で泣き出した。
「ウワワワァー」
 家の中には、かわいいぬいぐるみがたくさんあるのに、娘はなぜかゴムの投げ飛ばしに執着し続けた。この時、どんなことがあっても辞めさせるべきだったのだ。なのに私は鈴奈の笑顔が見たいがために、やめさせることが出来なかった。仕方なく髪を結わえるために使用する太いゴムを手渡した。これだったら、幅が一センチほどありゴムの周りを布が覆っているので、万が一当たったとしても大事には至らないだろうと思った。鈴奈は再びこのゴムで遊び始めた。そして再び楽しそうにゴムを飛ばし始めた。笑顔が戻った娘の顔を見つめながら、安心してしまった。今思えば、ゴムなど取り上げてもっと別の遊びを誘発してあげればよかった。そうすれば、鈴奈を失わずに済んだのに……。
 その日は今にも泣き出しそうな曇天で、降水確率百パーセントの予報が出ていた。私は、雨が降る前に外に干した洗濯物を取り込もうと、ベランダに出ていた。当時私が暮らしていたアパートからは、民家に咲く桜が鑑賞できた。この時ちょうど満開を迎えていて、夫のシャツ越しに風に吹かれた花びらが散っていた。鈴奈はこの桜が大好きで、昨日も抱いて見せてあげたばかりだ。恐らく満開の桜は今日の雨で散ってしまうだろうから、後で今年最後の花見を鈴奈と一緒にしようと決めていた。そんなことを考えながら、鈴奈の靴下を洗濯ばさみから外した。
 その時だった。ドンッという大きな音が、部屋の中から聞こえてきた。でも、私は特に慌てなかった。実は、隣の部屋に五歳になる双子の男の子兄弟が住んでいる。ヤンチャ盛りなので、チャンバラごっこをする時に大きな音を立てる。いつものことと焦ることはしなかった。残りの洗濯物を取り込んでから部屋の中に入ると、異様な光景を目の当たりにした。鈴奈は仰向けで泡を吹いて床に倒れていたのだ。
「鈴奈! 嫌だ、鈴奈しっかりして!」
 私の呼びかけに、鈴奈はピクリとも体を動かさなかった。死んでいるのかと思ったが、口元に手をやると、呼吸はしていた。
「きゅ、救急車、救急車呼ばなきゃ」
 私は急いで受話器をつかむと、震える手でボタンを押した。十分ほどで救急隊が到着すると、鈴奈は担架に乗せられた。
「鈴奈! しっかりして! 鈴奈!」
 救急車に向かう間も、私は目を閉じたまま動かない娘の名前を喉が嗄れるまで呼び続けた。病院に到着してすぐに救急治療が施された。その間ずっと、廊下の長椅子に座って鈴奈の回復を祈り続けた。
 夫が病院に到着したのは、それか六時間後のことだった。夫は、某電機メーカーの営業マンだった。夫はスーツ姿だったが、汗一つかいていない涼しい顔をしていた。特に急いで来たわけでもない姿を見て、他人のように思えたのを今でも覚えている。
「何があった?……鈴奈に、何があったんだよ!」
 彼の怒気を含んだ声に、私の体は硬直し拳に力が入った。
「……ごめんなさい。私が悪かったの」
 鈴奈は、ゴム飛ばしをしている最中にバランスを崩し、テーブルの角に頭をぶつけ意識を失ったのだった。
「どうしてそんなことさせてたんだよ! 普通は止めさせるだろ!」
 夫のその態度は、完全に私を責めていた。夫が怒るのも当然のことで、危ない遊びを止めさせられなかった私に全責任はある。でも、「何でも私のせいにしないでよ」と私の心は叫んでいた。夫は、休日は必ず娘を連れ出して遊んでくれる子煩悩な人だ。良き夫というのは間違いなかった。ただ、それは私に向けてではなく鈴奈だけの愛情なのだ。私たち夫婦は、鈴奈がつなぎ止めていると言っても過言ではない。だから、鈴奈がいなくなってしまえば、私たちの関係は破綻すると思う。
「神様、お願いします……どうか、どうか、鈴奈を助けてください」
 私はベッドサイドに寄り添い、鈴奈の右手を握りしめながら祈り続けた。当たり前だが、鈴奈には死んでほしくない。それは鈴奈のためなのか、それとも夫との関係が続くようにということなのか、何のための祈りなのだろうかと自分に問うている。もちろん鈴奈のために決まってる。でも一方で、夫と私の関係が終わらないようにと願う私もいる。夫と私を繋ぎとめるため、惰性で続けている結婚生活を終わらせないためには、鈴奈はどうしても必要だから。それもまた、事実なのだ。
 翌日も、鈴奈は目を閉じたまま、ピクリとも動くことはなかった。それでも私は鈴奈に寄り添い続けた。毎日のように病院に通い続け、鈴奈の手を握り続けた。そして祈り続けた。  
鈴奈が眠り続けて一か月が経った。私は毎日のように病院に通った。到着してすぐに、天気が急変し始め、雨風が激しくなりあっという間に台風並みになっていった。
「あーぁ。電車止まっちゃった」
 いつもは車で病院まで通っていたのだが、その日は車検に出していた。帰るすべを失ったため、この日は病院に泊まることにした。夫に電話したが繋がらず、メールで連絡をした。
「すごい風……窓ガラス、割れないかしら」
 窓に吹き付ける暴風雨が、激しく窓を叩き続けていた。予備のベッドを借りると、鈴奈のベットに沿うように設置して横になった。
 翌日、太陽の光で目が覚めた。窓の外を見ると、強風で吹き飛ばされた若葉が道路に散乱していた。予想していた通り、風の音で全く眠れなかった。睡眠時間は、三時間ぐらいだろうか。恐らく、電車はダイヤが乱れているはずだから、この日の午後に帰ろうと決めていた。そんな日にまさかの出来事が起きるとは。鈴奈の意識が戻ったのだ。

 その日は、いつものように鈴奈の手を握りしめながら祈りを捧げていた。
 前日の荒れ模様から一転、午前中から気温が上昇していった。病院内には、半そで姿の男性もいるぐらいだった。私は窓から降り注ぐ太陽光を背中にまともに受けていた。睡眠不足もあってか、いつの間にか私は眠りに落ちていた……。
どのくらい眠っていたのだろう。右手に何かがぶつかった感触がした。目を開けると、ぶつかったのではなく、鈴奈が私の手を握りしめていた。
「鈴奈、鈴奈! 私よ……お母さんよ、分かる?」
 私は、鈴奈の腕を揺さぶるようにして、語りかけた。すると鈴奈の目は、徐々に大きく開いていった。
「ママ……ママ……ここ、どこ……」
 力のこもらない声で鈴奈が言った。私は泣きながら、鈴奈の両手を握りしめた。
「病院よ。鈴奈、ずっと眠ってたのよ。お家で頭ぶつけたの、覚えてない?」
 鈴奈は、弱々しく首を振った。
「ごめんね。ママが、気を付けなかったから……本当にごめんね。痛かったでしょう」
 私は、鈴奈の頭をそっと撫でた。すると、鈴奈は優しそうに微笑んだ。
「ママ……ママ……こわいよ……」
「大丈夫よ。ママがずっとそばにいるから……ごめんね。本当に……ごめん……」
 私は鈴奈の手を握りしめながら、鈴奈に謝り続けた。こんな目に遭わせたママを許して欲しい。鈴奈のためなら、何でもする。改めて、そう心に誓った。すると、鈴奈が突然、私に向かって左手を伸ばしてきた。起き上がろうとしているらしい。
「ちょっと、待って。無理しないで」
 鈴奈の左腕には、点滴の針が付けられている。今起き上がると、チューブを引っ張ってしまうかもしれない。私は鈴奈の左手を握ると、その手を私の頬に当てた。
「よく頑張ったねぇ、鈴奈……本当に……本当に、よかった……」
 目から涙があふれ出し、みるみるうちに鈴奈の姿がぼやけてきた。鈴奈は、もしかしたらこのまま眠り続けてしまうかもしれない。寝たきりになってしまうかもしれない。そんな不安がよぎり続けた一か月だった。そして、自らを責め続けてきた機関でもあった。
「ママ……かえろうよ」
「まだだめよ。先生に診てもらわないと、帰れないわ」
「エー、かえりたいよー。かえろうよぉ」
 鈴奈は私の手を小さく小刻みに動かし、駄々をこね始めた。その姿に思わず笑みがこぼれた。いつも通りの駄々のこね方だったからだ。私だって帰してやりたい。鈴奈は人見知りが激しいからだ。だが、このまま帰るわけにはいかない。ナースコールを押して、看護師を呼んだ。しばらくすると、女性の看護師が病室に入ってきた。彼女は、起き上がっている鈴奈を見て驚いたようだった。
「鈴奈ちゃん、元気になられましたね。よかった」
「ありがとうございます。みなさんのおかげです。本当に、ありがとうございました。鈴奈もお礼言って」
「……ありがとう」
 私に促されると、鈴奈は恥ずかしそうに俯き加減で言った。看護師は、鈴奈の顔を見て頭を撫でた。ニッコリと笑った看護師の笑顔は、まるで貴婦人を思わせるかのような妖艶なものだった。看護師でなくても、銀座辺りのホステスにでもいそうな色気があった。
「あの……鈴奈は、どのくらいで退院できるんでしょうか?」
「それは、先生に聞いてみないと分からないですね」
 看護師はそう言うと、鈴奈の顔を覗き込んだ。
「思ったよりも顔色もいいし、体の方も動けるみたいですね。そうですね……早くても明日か明後日には退院できるんじゃないでしょうか」
 看護師はそう言い切った。顔色だけで患者の様子を判断できるなんて、なんてすごい看護師なんだろう。見た目は若いが、きっと有能な看護師なんだ。皆から慕われている人なんだろうと、勝手に想像を膨らませてしまった。そのことを、後に後悔することも知らずに。
「よかった。ありがとうございます」
 頭を下げると同時に、胸につっかえたものがパラパラと落ちていった。やっと鈴奈を家に戻してあげられる。夫との会話も取り戻すことが出来る。鈴奈が入院してから、夫とはほとんど会話らしい言葉を交わしていない。というか、会話が続かないのだ。
「ご飯は?」
「食べてきた」
「お風呂は?」
「入る」
 毎日の会話は、片言だった。それだけで、夫婦生活は成り立っている。それで幸せなの?ふと、そんな問いかけが脳の片隅から聞こえてくる。幸せって何? そう問いかけると、鈴奈との時間だとハッキリと答えられる。鈴奈が私の生きがい。鈴奈がいなくなったら、私はどう生活するんだろう。きっと、発狂するに違いない。
「生憎、先生は今、手術中なので、終わり次第お呼びしますね」
「ありがとうございます」
 小さく頭を下げた時、看護師の胸元に視線が合った。名札に「白石」と書かれていた。白石看護師を見るのは、この病院に来て初めてのことだった。彼女だったら、鈴奈をちゃんと見てくれそうだ。ホッとしたとたん、軽いめまいを感じた。私の体は精神的にも肉体的にも限界に近づいていた。
「あの、私、一度家に帰ろうと思うんですが、大丈夫でしょうか?」
「いいですよ。これから、もう一度点滴を打つ予定ですので、その間に戻ってください」
 白石さんは再び笑顔を見せると、病室から出て行った。点滴は、短くても五時間はかかる。この間に自宅に帰る時間は十分にあった。
 この三日間、一睡もしてないのに加えてお風呂にも入っていなかった。やはり気になるのは体臭のことだ。白石さんが近くに来た時、私の体が臭っていないか気が気ではなかった。
「ねぇーぇ。まだ、おうちにかえれないの?」
「鈴奈、もう少し我慢して。先生に診てもらってから、お家に帰れるから」
「えー、かえりたいよーぉ」
「これから点滴するみたいだから、もう一度お寝んねして」
「えー……はーい」
 鈴奈は口をへの字に曲げ、渋々ベットに横になった。横になると睡魔が襲ってきたのか、鈴奈は大きく口を開けてあくびをした。
「お母さんね、一度お家に帰るから。すぐに戻ってくるからね」
「うん……わかった」
 目をつむりながら答える娘の頬を、そっと撫でた。大事に至らなくて本当によかった。今鈴奈を失ったら、私はこの先どうやって生活したらいいのだろう。再び、自問自答をする。鈴奈だけが支えなのだ。なんとか、守らなければ。
 鈴奈の両手を布団の中にいれたとたん、私の口から大きなあくびが口をついて出た。
「お疲れのようですね」
 そこへ白石看護師が点滴を持って入ってきた。
「やだ、すみません。変なところ見られちゃった」
「鈴奈ちゃんがちゃんと休むまでここにいるので、どうぞお家に帰られてください」
 彼女はそう言うと、再びあのマダムのような笑顔を見せた。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
 私は頭を下げると、病室を後にした。鈴奈と永遠の別れになろうとも知らずに。

 自宅に戻ると、すぐにシャワーを浴びた。温かいお湯に打たれていると、この数日間の疲れが癒やされていった。でも浴室を出ると、すぐに現実に引き戻された。着替えを済ませ台所に立つと、シンクの中にはコンビニの弁当殻が山積みにされていた。ダイニングテーブルを見ると、ペットボルトの中身が残った状態で置かれているし、コンビニ袋が無造作に置かれていた。自宅に帰らなかった私への当てつけだろうか。そう感じた瞬間に怒りがこみ上げてきた。でも、それと同時にため息が口を出た。結局、夫は仕事の忙しさを理由に一度だけしか病院に来なかった。彼にとって鈴奈はどんな存在なのか。心配ならば、足を運ぶのが父親ではないだろうか。弁当殻を手に取ると、流しの蛇口をひねった。
「はー……疲れた」
 時計を見ると午後三時になっていた。今は色んな感情を捨て去って眠りたい。寝室から目覚まし時計を持ってきた。一時間後に鳴るようにセットして、ソファに横になった。
 とりあえず、鈴奈が目を覚ましてくれてよかった。元気に足を動かしていたところをみると、明日には退院できるだろうか……。
 鈴奈が退院したら、何か美味しいものでも食べさせてあげよう。オムライスか、それともカレーライスか。でもきっと、パンが食べたいと言い出すだろう。なぜなら鈴奈はパンが大好きだからだ。パン屋を通り過ぎるたび、必ずガラス越しにプレートに並べられたパンを見つめる。「パン屋さんになりたいの?」と聞くと、笑顔で頷く鈴奈の表情はいつも笑顔だった。パン屋になるという意味をハッキリとは理解していないとは言え、一度も食べたことのないパン屋になるとは。正直、想像はしていなかった。
 鈴奈は重度の小麦粉アレルギーを持っている。小麦粉を人差し指で舐めただけでも、過呼吸や湿疹、喘息などのアレルギー反応が出てしまう。子供のアレルギーは、大人になるにつれて完治してしまうという。鈴奈もきっと治るはずだと期待してはいる。最近では、治療法も確立されているようで、一度治療してもいいかもしれないと思い始めた。アレルギーが治ったら、必ず鈴奈とパンを作ろうと心に決めていた。でもまさか、パン屋になる夢を私自身で叶えるとは。思ってもいなかった。

 再び目が覚めたのは目覚ましの音ではなく、耳鳴りのような電話の音だった。目の前は真っ暗で、満月の光がテーブルを照らしていた。重い体を起こし電気をつけると、あくびを噛み殺しながら電話に出た。
「……もしもし……」
 時計に目をやると午後七時になっていた。えっ、嘘でしょ、と心の中でギョッとしながらも、耳元で女性の声に集中しようとした。寝起きで頭がボーッとしていたせいで、電話口の声がハッキリと聞き取れなかった。
「すみません、もう一度お願いします……」
「鈴奈ちゃんの容体が急変したんです。すぐに病院に来てください!」
「えっ、ちょっと、急変ってどういうことですか?」
 私の声は掠れていた。というより、震えていた。意識を取り戻した時、元気そうだったではないか。急変って意味が分からない。
「もう少し詳しく説明してください。鈴奈に何があったんですか?」
「それは……とにかく病院に来てください!」
 それ以上しゃべりたくないと言わんばかりに、相手は一方的に電話を切った。突然のことで頭が真っ白になり、体が固まってすぐにはその場を動くことが出来なかった。鈴奈が、急変した? 人違いよ、絶対に。だって鈴奈は私に向かって微笑んでくれたし、私の手を力強く掴んでくれた。その感覚で、鈴奈はもう大丈夫だと確信したのに。何かの冗談に決まってる。あの看護師……、そう、白石さん。白石看護師が、大丈夫だって言っていたじゃないか。だから、大丈夫。鈴奈は死なない。絶対に。

 病院に到着してすぐに鈴奈の病室へ向かうと、廊下を小走りで通り過ぎる看護師たちが目に入った。病室に入ると、思わず息をのんだ。白衣を着た医師と看護師が鈴奈の周りを囲っていたからだ。
「鈴奈!」
 鈴奈の元へ駆け寄ると、年輩の医師が鈴奈の体に馬乗りになっていた。鈴奈の上半身のパジャマは脱がされ、医師の手には電気ショックの機械が握られていた。別の医師が機械のボタンを押すと、鈴奈の体が上にポンッと浮き上がった。鈴奈は目を閉じたまま、自らの意思で動こうとはしなかった。
「お、お嬢さんの容態は急変したんです……とても……大変、危険な状態です」
 私の隣で説明を始めた医師の胸元を見ると、「鳥居」と書かれていた。どうやらこの医師たちの中で、一番の責任者のようだ。私は震える声で鳥居医師に尋ねた。
「……な、何、言ってるんですか?……意味が分からないんですけど……」
 震える声を何とか口から絞り出した。駄々をこねる子供を諫めるように、私の両肩を掴むと私の目を見据えながら話始めた。
「いいですか、お母さん。もう一度言います。娘さんの容態は、急変したんです。お嬢さんは、助からない可能性があります。覚悟しておいてください」
 頭の中が真っ白になり、言葉がすぐに出てこなかった。何言ってるんだ、このやぶ医者は。そんなことあるわけないじゃないか。
「そんなこと……そんなことあるわけないじゃないですか! だって!……だって、さっき鈴奈と話をしたんですよ。元気そうに私に笑いかけてくれたんです。看護師さんだってそう言って……」
 部屋の隅っこで、背中を丸めて立っている女性を見つけた。その看護師こそ、鈴奈に点滴をした白石だった。白石は白い壁に溶け込むように、息を殺して立っていた。私は彼女の元に駆け寄ると、顔を覗き込んだ。
「あなた言いましたよね? 明日になれば退院できるって。確かに、言いましたよね?」
 白石は目をつむると、私の問いかけには一切答えず聞こえないふりをしていた。私は関係ないといった態度に、私の怒りは頂点に達した。白石の両肩を掴むと、思いっきり前後に揺さぶった。
「い、痛い! そんなに強く引っ張らないでよ!」
 私の肩を掴む力に耐えられなくなったのか、私の手を掴んで離そうとした。でも、素早くその手を振り払うと、更に力を込めて彼女の肩を掴んだ。
「あなた、私に言いましたよね? 娘は大丈夫そうだからって。すぐに退院できそうだって、言いましたよね?」
「……」
「何とか、言いなさいよ!」
 私の叫び声は、一瞬でその場の空気を凍らせた。白石は顔を上げると、私の方へと視線を向けた。いや、正確に言うと私の後ろにいた鳥居医師に向けていた。そこからの白石は、別人になった。私の両手を振り払うと、真っすぐに私の顔を見据えた。
「いえ。私はそんなこと言った覚えはありません。私が点滴を交換しに病室を訪れた時には、お嬢さんは既に昏睡状態でした」
「ちょっと、何で嘘つくのよ!」
「いえ、嘘はついてません」
「ふざけないでよ。言ったじゃないのよ!」
 ドンという音が室内に響き渡った。怒りを抑えきれなくなった私は、白石の胸を突き飛ばしていた。彼女は、壁に背中を打ち付けると、その場にうずくまった。
「ちょっと、何すんのよ!」
 白石は、目をつり上げて私をにらみ返してきた。どうしてこんなに簡単に嘘がつけるのか。よかったですね、と笑顔で私に言ってくれたではないか。それが全て嘘だったというのか。態度が豹変した白石に対して、怒りと悔しさで涙が頬を伝った。
「大丈夫か!」
 鳥居医師は白石に駆け寄ると、上半身を支えた。白石は腕を強く打ったのか、苦悶に満ちた表情を浮かべていた。そして声を震わせながら、私に向かって反論し続けた。
「申し訳ないですけど、言ってないものは言ってないんです。奥様の勘違いじゃないですか。夢でも見たんじゃないですかね。しばらく寝てないみたいですし」
 百八十度違う主張を繰り返す白石を、私はただ睨み返すことしかできなかった。彼女の胸元に視線を移すと、名札は付けてなかった。
「先生……」
 心臓マッサージをしていた医師が、鳥居医師に同意を求めて近づいてきた。鈴奈の方へ顔を向けると、心電図の数値はゼロになっていた。
 鳥居医師は、鈴奈の両目にペンライトを当てて確認した。そして私の方へと頭を下げながら静かに言った。
「残念ですが、お亡くなりになりました」
「噓でしょ……鈴奈! 鈴奈!」
 私は鈴奈に駆け寄り、泣き崩れた。鈴奈の手をギュッと握っても、指が棒のように冷たくなっていた。まさか、鈴奈が死ぬなんて。私よりこんなに早く旅立つなんて、誰が想像しただろう。
「これで、失礼します」
 鈴奈に心臓マッサージをしてくれた医師が私に声をかけた。看護師たちは機材の片付けをして、病室を離れようとしていた。この病室にいる全ての人間が、私から視線を反らしていた。まるで何かを隠すかのように、雲隠れしようとしているように感じた。
「ちょっと、待ちなさいよ」
 どさくさに紛れて白石が出ていこうとしていた。私は彼女の腕を素早く掴んだ。部屋には私と白石看護師、そして鳥居医師だけが残っていた。
「まだ、話は終わってないわ。あなた、あの子に何したのよ」
 私が自宅に帰る前に白石は点滴を打つと言っていた。そこから鈴奈は意識を失ったのだ。鈴奈の死が、白石と無関係とはどうしても思えなかった。遺体を解剖してでも、真実を確かめたかった。
「これって医療ミスじゃないんですか?」
「……」
「それがあなたの答えなんですね?……分かりました。私、あなたのこと訴えますから」
「訴える」という言葉に反応した白石は、困惑気味な表情を浮かべながら鳥居医師を見つめた。
「奥さん、まずは彼女から手を離しましょう。僕たちは、逃げも隠れもしませんよ」
「そんなの信じられるわけないでしょ! だって、この人、嘘ついてるんですよ」
「まあ、そんな興奮なさらずに。話ならじっくり聞きますから」
 鳥居はそう言うと、私の右肩にそっと手を置いた。彼の手は大きくてそして生暖かかった。その温もりは、久しぶりに感じた癒しだった。力の緩んだ一瞬のスキをついて、白石は素早く病室の外へと出て行ってしまった。
「ちょっと、待ちなさいよ! 逃げるんじゃないわよ!」
 白石のことを追いかけようとすると、今度は私が鳥居に右腕を取られ、その場に引き留められた。
「奥さん、落ち着いてください。少しだけお話をしましょう。まあ、座ってください」
 私の両肩を掴むと、パイプ椅子に押し込めるように座らせた。鳥居医師は私の目の前に立つと、腕組みをして私の話を聞き続けた。
「先生、これは医療ミスですよ。彼女が鈴奈に間違った治療をしたんです。そうに決まってます」
 私は乗り出すようにして、鳥居へ訴え続けた。ここで止めてしまっては、うやむやにされてしまいそうで怖かった。鈴奈のためにも、ここは意地でも食い下がるしかなかった。
「彼女が交換した点滴に、何か問題があったはずです」
 白石は私が病室を出て行く前、確かに鈴奈に点滴をすると話していた。そこから鈴奈の容態は急変したのだ。彼女の処置に何らかの落ち度があったと考えるのが懸命だろう。鳥居医師は必死に訴える私とは対照的に、顔色一つ変えずに淡々と話を続けた。
「当病院では、点滴などのチェックを厳しく行ってます。医療ミスが起こる確率はゼロに等しい。あり得ない話です」
「だから、ちゃんと調べて欲しいって……」
「では、お聞きしますが、看護師がその点滴をつけたところをあなたは目撃したんですか?」
「いえ、それは……」
 実のところを言うと、実際にその現場は見ていない。白石が点滴を打つ前に私は病室を離れたのは事実だ。
「見てない? それじゃあ、話になりませんねぇ。証拠がなきゃ、警察だって相手にしないでしょうねぇ」
 鳥居は足を組むと、貧乏ゆすりをし始めた。明らかに私への態度が横柄になってきた証だった。
「証拠がない以上、医療ミスと言われても困りますねぇ……あなた、先ほどから急変するのがおかしいとおっしゃってますけど、そんな病人はいくらでもいるんですよ。疑うようでしたら、他所の病院で聞いてもらってもいいですよ」
 鳥居医師は、ニコリとほほ笑んだ。形勢逆転。鳥居医師は強気に出たと思った。そのネチネチとしたいい方は、より一層私を不安にさせた。
「じゃあ、鈴奈を解剖して調べてください。そうすればはっきりしますよね」
「解剖ですか。それは、つまり娘さんの体にメスを入れろと? ほー……お母さん、あなたホントにそれでいいんですか?」
「構いません。それで真実が分かるのでしたら」
「そうなると、警察が関わらざる負えない。それが何を意味するか。お母さん、分かってますか?」
「えっ……それは、その……」
「もし、解剖して異常が見つからなかった場合、私があなたを訴えます。その場合、多額の慰謝料を払わなければならなくなるかもしれません。こっちは医療ミスだと訴えられたんですから。それぐらいのことをしないと、割に合わないんですよ」
「そんな……」
 どうして、ひるんでしまったのだろう。数年が経った今でも、この時間にタイムワープできないかと思ってしまう。不敵な笑みを浮かべる鳥居に心を乱されても、解剖をしておけばよかった。それよりも、誰か信頼できる人間に相談するべきだった。私は当時、二十三歳になったばかり。世間知らずな私は、完全にその場の空気に呑まれてしまっていた。
「そうか。僕はあなたを訴えることができるんだった」
「えっ?」
 鳥居は、相変わらず笑みを浮かべたままだ。
「あなた、さっきの看護師を突き飛ばしたでしょ。これは傷害罪に当たりますね」
「そんな。嘘でしょ」
 完全にテンパってしまった。上手く反論できずに相手の思う壺にハマってしまったというべきだろう。パニック状態に陥った私の様子を見て勝ち目があると感じたんだろう。鳥居は、畳み掛けるようにこう続けた。
「奥さんも疲れているでしょう。この3日間は大変でしたからね。お辛い気持ちは十分わかります。この件に関しては、こちらでもう一度調査します。今度は、旦那様を交えて話をしましょう」
 そういうと、鳥居は今日一番の笑みを浮かべながら話を続けた。
「今、奥様は大変興奮されておられる。こういった話は、落ち着いて話した方が上手くいくんです。うちの病院では、患者様に対して誠意をもって対応することを約束します。だから今日のところは、どうかお帰り願えますか?」
 院長はこういうと、深々とお辞儀をした。確かに、この時の私は疲れ切っていた。鈴奈が亡くなったことを受け入れられず、その怒りのエネルギーを発散し続けた今、精も根も尽き果てていた。
「お母さん、そうしましょう」
 どうしてだろう。疲れた私に向かって話される落ち着いた院長の声は、高ぶる私の気持ちを少しずつ静めていった。今思うと、これが罠だった。私は鳥居の戦術に、まんまと引っかかってしまったのだ。
「……じゃあ、後できちんと私たちに説明してくれるんですね?」
「お約束します」
 鳥居は力強く頷いた。その言葉を信じた私は、自然と頷いていた。
「分かりました……では、夫と一緒に、またお伺いします」
「そうですか。よかった」
 ホッとした表情を浮かべていた鳥居を、怪しいと思えばよかった。私はもう、鳥居とは二度と会うことはなかった。実際に鳥居と会ったのは、夫の方だった。
「どうして私に黙ってたのよ!」
 私は夫を問い詰めた。夫は私に内緒で鳥居と会っていた。
「どうしてってさ……鈴奈は死んだんだ。仕方ないだろ」
「仕方ないってどういうこと?」
「だから、向こうだってわざとじゃなかったんだし……さ」
「えっ? わざとじゃないってどういうこと?」
「あっ、いや、それは、その……」
 夫は、慌てて口をつぐんだ。病院側から口止めされたという。それはつまり、病院側の落ち度を認めたってことだ。その証拠に、夫は鳥居から口止め料をもらっていた。金額は五百万円。
夫は私の知らないところで多額の借金をしていた。そして全ての金を、ギャンブルの支払いに費やした。ギャンブル依存症になっていたことに、私は全く気付かなかった。
 私はもう一度鳥居と話をしようと、病院にコンタクトを取った。でも、電話も繋いでもらえず、病院の受付にさえ相手にしてもらえなかった。
 なすすべを失った私は、弁護士に相談した。そこでも、病院を訴えることはできないと言われた。証拠がないうえに、金銭を受け取ったのだから、諦めるしかないとキッパリと断られた。私は諦めきれず、いくつかの弁護士に相談した。でも、全て同じ答えだった。納得できるわけがなかった。二十代前半の女の話をまともに聞いてもらえる場所は、この世にはなかった。だから、泣き寝入りするしかなかった。
 鈴奈の葬儀が終わった後、私たちは離婚した。
 一人になり、生きるためには働かなければならなかった。私は、仕事をしたことがない。高校を出てすぐに結婚をしたこともそうだが、本気で陸上選手を目指していたからだ。高校時代、私は砲丸投げの選手としてオリンピックを目指していた。肩を壊してその夢は潰えてしまったが。
資格も経験もない私にまともな仕事は見つかるはずもなく、レストランのウェイトレスやスーパーのレジやティッシュ配りなどの十以上の職種を経験した。一日に三つの仕事を掛け持ちしても生活費が足りない時は、食事を満足に食べられないこともあった。
 精神的にも肉体的にも苦しい日々が続いた。それでも必死に耐えられたのは、鈴奈との約束を果たすためだった。鈴奈が夢に描いていたパン屋を開店することを目標にした。食費さえも削って、貯金し続けた。パン屋を開業するには、まず調理師免許を取るため、学校に通い始めた。夜間学校で、昼間は生活費を稼ぐために働いた。卒業後、ある有名なパン屋に武者修行し、一年後に独立した。そしてついに念願のパン屋を開業した。名前は「高岡ベーカリー」。
 独立はそんなに簡単なものではないと自覚はしていた。地域の人々に、私が作るパンの味を認めてもらうまで二、三年はかかると思っていた。でも、予想に反して開店初日から売り上げは悪くなかった。三年目で例のピーナッツパンを考案した。瞬く間に、行列ができるほどの人気パンとなった。
 鈴奈のおかげ。そう感じずにはいられなかった。鈴奈がどこかで私を見守ってくれている。そう思うと、心の底から幸せを感じずにはいられなかった。
 もっと多くの人に、私のパンを味わってもらいたい。一つの願望が叶うと、更に別の願望が湧いてきた。そして二号店を開店することを決意した。資金を集めるため経費を抑えることが必要で、まずは人件費を減らした。本来なら二人以上で行うパンの仕込みも、一人で行った。大変だったが、このとき役立ったのは学生時代砲丸投げで鍛えた腕力だった。パン生地をこねる力は、学生時代に培ったと言えるほど衰えることはなかった。その甲斐あって、二号店の資金を貯めることができた。
 でもその軍資金が、まさか鳥居明美を殺害するために使われるとは思うはずもなかった。

 白石との再会は偶然だった。その頃私は、休む暇がないほど忙しい日々を送っていた。二号店の場所も決まりかけていて、あとは書類を作成すればいいだけになっていた。
 白石はブランドの服に身を包み、派手な衣装で店に現れた。私は彼女の顔を見た瞬間、すぐにあの白石看護師だと分かった。白石は鳥居医師と結婚し、院長夫人となっていた。鳥居医師は同病院の医院長になっていた。鈴奈を失ってから七年。それでも病院での出来事は、昨日のことのように全て思い出せる。病院のベッドで眠る鈴奈の顔やアンモニア臭が漂う病室、そして白衣姿の白石と鳥居の姿……。全てがワンセットで、記憶が蘇ってくる。鈴奈がこん睡状態から目覚めてから見せた笑顔は、今でも脳裏から消えることはない。その娘の命を奪った相手が目の前にいる。私の胸は自然と高鳴り始め、白石から目が離せなくなった。
 私はレジに回ると、目の前の人物が本物の白石かどうか確かめた。目の皺やシミを厚化粧で隠していて年齢を重ねたのは否めないが、確かに彼女だった。白石は何度か私と目が合った。でもすぐに、視線をそらせてパンを選び続けた。私のことを気付いている素振りもなかった。なんとも言えない喪失感が、私の胸の中で湧きあがってきた。
 再び、白石と目が合った。今度は、私の方へツカツカハイヒールを鳴らしながら近づいてきた。
「えーっと、どこかで会ったことがあったかしら?」
 白石は不思議そうな顔で私を見つめると、しばらく考え込んだ。私は思案している白石を見て、ここで鈴奈のことを伝えるべきか迷った。鈴奈のことを思い出したら、白石は懺悔するだろうか。私の心臓はドクンと大きく脈を打った。
「えっと……やっぱり、初対面ですよね?」
 そう言われた瞬間、拍子抜けした。でも、白石が私を覚えているわけがない。七年。それが長いか短いかは、人それぞれの時間の使い方による。元看護師から院長夫人と上りつめ、何不自由ない生活を送っている人間には、過ちを犯したことなどすぐに忘れるだろう。目の前の幸せが、忘れたい記憶を消し去ってくれるからだ。患者だった人間の顔など、覚えていないだろう。でも、娘を亡くした苦しみと毎日の食事もままならなかった日々を送ってきた者にとって、過去の記憶が薄れることなど絶対にない。
「いえ、こちらこそガン見してしまって、すみません。昔、会ったことのある人に似てたものですから。でも、人違いでした。それに」
「それに?」
「あなたのような品のいい方が店に来るのは珍しので、見惚れてしまいました」
 思いついたお世辞を言うと、白石は嬉しそうにパンを乗せたトレーをレジに置いた。
「そう、それはどうもありがとう。この店のパン、本当に美味しいわ」
 試食用のパンを食べながら、満面の笑みを浮かべて言った。どうやら、うちのパンがいたく気に入ったらしい。
「千三百円になります」
 金額を告げると、白石はバッグからプラダの財布を取り出した。肩にぶら下げているバッグも、グッチと英語で書かれていた。
「また、来るわね」
 白石は満面の笑みを浮かべながらそう言うと、店を後にした。
「ハァ」
 予想以上に緊張していたらしく、両手が小刻みに震えていた。香水の残り香が鼻を突いてきた。あいつの匂いだ。最後に見せたあの笑みは、高貴な貴婦人を思わせた。どこが貴婦人だ。あいつは、殺人者だ。私の娘を殺した殺人者だ。あいつがまた来たら、今度こそ真実を話そうか。喉まで出かかった真実を言葉にしたら、あいつは動揺するだろうか。彼女の顔色が変わる瞬間を見てみたかった。
「……それは、ないか」
 セレブ生活を満喫している女に、そこまで期待するのがバカだ。それよりも、あいつは二度と店には顔を出さないだろう。平気で嘘をつく女だ。また来るというのは、社交辞令に違いない。そうに違いないと、思っていた。でも、嘘ではなく、ヤツは三日後に再び店にやってきた。
「娘がアレルギー持ちだから、口に入れるものに気を付けてるの。ここのパンは美味しいから食べたいって。娘がそう言って聞かないのよ」
 この日、彼女に娘がいることを知った。娘はアトピー持ちで、白石は娘の食べるものに相当気を使っていた。有機栽培の小麦粉を使用しているうちのパンを、親子で気に入ったらしい。白石は、週に三回以上顔を見せるようになっていた。
「今度、アレルギーにいい食材を教えてあげましょうか? 私、結構詳しいんですよ」
「えーそうなの。じゃあ、お願いしようかしら」
 何度も顔を合わせていくうち、私は白石の娘の相談に乗るようになっていた。と同時に、鈴奈を失った時の感情が蘇ってくる。鈴奈が生きていれば、小学校に通っているはずだ。白石の娘の話を聞けば聞くほど、鈴奈に会いたくなった。
 仕事が終わり自宅に帰ると、押し入れから埃まみれのアルバムを取り出した。
「懐かしいな」
 ページをめくるのは、約七年ぶりだった。アルバムの最初のページには、一才の頃の鈴奈が収められていた。お風呂に入れようとして裸にしたとたん泣き出した写真や、よちよち歩きの鈴奈を私が抱き留めている写真があった。次の写真も、アイスクリームを口の周りにつけて笑っている写真や、おもちゃの積み木を真顔で並べている写真などなど……。
 ページをめくるたび、鈴奈は成長していた。鈴奈の笑顔は、アルバムの中で輝いていた。その笑顔を小学生になっても、大学生になっても、社会人になってもずっと見られると思っていた。でもそれは幻想だった。それは、プツリと終わったページで実感する。生きていれば、今は十一歳になっているはず。まさか写真がここで終わるとは、誰が想像できただろうか。
 気が付くと涙がとめどなく流れ落ち、アルバムの写真を濡らしていた。鈴奈の死を受け入れることなど、できるはずがなかった。だからずっと、昔を振り返ることをずっと拒否していた。でもなぜだろう。今はそのことに抵抗がない。それは過去の呪縛から解き放たれた、解放感に似た感情のように感じる。自分でも過去に蓋をしてはいけないと思ってはいた。苦しくても、いつか暗闇から抜け出さなければ、私の未来はないと思っていた。でもついに、ついにその時が来たのだ。そう思った。
 白石と距離を縮める必要がある。それは心の底から湧き上がる欲望だった。といよりも、そうしなければならないと思った。それは時間が経つほど、強くなり止められなかった。娘の命を奪った女が何を考えて生きているのか、私には知る権利があった。でもその感情が、復讐へと変化していくのはそう時間がかからなかった。
 それから一か月後のこと。私は白石から食事に誘われた。白石の行きつけのフランス料理店で、案内されたのは個室だった。さすが、セレブらしくメニュー表を見るとゼロが一桁違った。私のような庶民が普段なら絶対に入らない店だった。彼女は慣れた手つきでウェイターを呼び、赤ワインを頼んだ。
「奈美さん、お酒は大丈夫?」
「えぇ、少しだけなら……でも、よかったのかしら? こんな高いお店に誘ってもらっちゃって」
「いいのよ気にしないで。普段、来られないだろうと思って誘ったのよ」
 さらりとそう言いのけると、メニューを手に取った。要するに、庶民じゃこんな高い店は無理だろうから恵んでやるということらしい。人を下に見る態度は、昔から変わっていなかった。
「奈美さん、結婚は?」
 前菜のテリーヌを食べながら、白石は私に質問してきた。
「いえ、まだご縁がなくて」
「えー、もったいないわ、綺麗なのに、あなた」
 白石は、ステーキの肉を切りながらそう言った。この女の言葉には、心が籠もってないように感じてしまうのはどうしてだろう。私の方を向かずに答えているのは、自分の方が美しいと思っているからだろう。
「でも、分かるわぁ。いい男っていないものねぇ」
 白石の大きなため息が部屋中に響いた。赤ワインを勢いよく飲み干すと、彼女は饒舌になっていった。
「えっ、だって、素晴らしい旦那さんがいるじゃないですか」
 私はすかさず突っ込みをいれた。こうやっておだてておけば、白石はいい気になってどんどん話を続けていく。
「素晴らしいですって? 笑っちゃうわ」
 白石は鼻で笑うと、焼きたてのステーキをナイフで切り始めた。
「まあ、うちの夫は仕事はそこそこ出来るけど、女にだらしないのよねぇ。まいっちゃうわ」
 鳥居益男は、独身の時から女に苦労したことはないほどのプレイボーイだという。結婚後も何度か浮気を繰り返され離婚も考えたが、子供の将来を一番に思い踏みとどまっているという。
「今は誰と付き合ってると思う? 家政婦よ、うちの」
 家政婦との不倫関係を知ったのは、半年以上も前のことらしい。そう言って薄ら笑いを浮かべながら話し続ける白石に、私は違和感を覚えた。何だか夫の浮気を歓迎しているように思えたからだ。
「いいの、それで?」
「いいって、何が?」
「だって、二人は自宅で密会してるってことでしょ」
「そうよ。密会現場は、自宅よ」
 薄ら笑いを浮かべる白石を横目に見ながら感じたことがあった。彼女の生きる目的は金と名誉だけなのだということだった。とっくの昔に愛情は冷めているのだけど、そんなことよりも、質の高い生活をしたいだけなのだ。有名病院の院長夫人という肩書きに、懸命にしがみついているようにしか思えなかった。
「もうさ、勝手にやってくれって感じよ。だから、仕返しにこっちも浮気してやろうと思ってるの」
 そうハッキリ言うと、白井はナイフを思いっきりステーキに突き刺した。カン、という音が部屋中に響いた。幸せじゃない。この女は今、幸せではない。金持ちが幸せだという幻想に取り憑かれているだけだ。
「でも、今はいないのよねぇ。先月までいたんだけど」
 あっけらかんと告白する白石に、唖然としてしまった。何も言えないでいると、白石はステーキを口に運びながら話を続けた。
「ねえ、いい男とかいないの。いたら紹介してよ」
「えっ、そんなの私の周りにはいないわ」
「ホントに? バイトの子とか、仕入れ先にいい男がいそうじゃない。紹介してくれたら、すぐにでも付き合うのになぁ」
 あっけらかんとした態度に、唖然とするしかなかった。男のことしか頭にない可哀そうな女。人生を男にしか注げられないつまらない女。私にはそう思えた。こんな女に鈴奈は殺されたなんて、何て理不尽なんだろう。世の中の不条理を呪った。
 白石が現れて以来、私は鈴奈の夢を見るようになった。夢の中の鈴奈は笑顔で私の元に駆け寄ってくる。でも、なぜか目の前で消えてしまう。それは思っていたよりも私を悲しくさせた。朝になり目を開けると、涙で枕が濡れる日々が続いた。
 どうしてこんなにも苦しまなければならないのだろう。私も鈴奈も、被害者だというのに。全ての根源は、白石がこの世に存在しているからだ。こんな下品な女と一緒の空気を吸っていると思うだけで腹が立つ。もう終わりにしたい。それには白石をこの世からなくすしかない。鈴奈のような清らかな心を白石のようなふしだらな女こそ、世の中からいなくなるべきなのだ。そんなことをぼんやりと考えていたら、実現できる方法を思いついてしまった。それは、彼女の持病でもあるピーナッツアレルギーを利用した殺害計画だった。アレルギーで亡くなる人は、年間数人程度だが発生する。その数人の中に白石を混ぜるのだ。つまり、不慮の事故を装うのだ。成功する確率は五十パーセントほどだろう。いや、それ以下かもしれない。一か八かだった。それでもいい。失敗したとしても、白石は苦しい思いをするはずだ。白石が苦しめばそれで心が晴れる。だからやろうと決めた。
 そう決断したのは、村岡との出会いが大きかった。もし、彼に出会っていなかったら、計画の実行は難しかっただろう。村岡との出会いも運命的だった。
村岡が私の店にパンを買いに来たのは、今から半年以上前のことだった。店に来た彼は、見た目にも決して裕福とは言えない生活をしていた。顎鬚は伸び放題で髪は寝癖だらけだし、着ているTシャツもところどころに穴が開いていた。財布にお金がないらしく、いつも九十九円で買えるミニあんパンを一つだけ購入していた。
「いらっしゃいませ……」
 村岡の顔を見た瞬間、彼が誰かすぐに分かった。七歳以上離れていて、お互い面識は全くなかったが、私はヤツの存在を知っていた。なぜならヤツは、陸上競技者の間では、かなり有名な人物だったからだ。
 村岡は私が通っていた高校の陸上の短距離選手だった。全国陸上競技大会で、百メートル走で九秒台をたたき出し、一躍有名になった。村岡が十七歳の時のことだった。もしや、オリンピックで金メダルか? としばらくはマスコミがその話題をネタにし続けたほどだ。でも、それも一年後には水の泡と消えてしまった。村岡は交通事故に遭い、右足首を損傷してしまったからだ。その後、奴は陸上界から姿を消した。
 なぜこんなに陸上競技に詳しいかというと、私が高校生でやり投げの選手だったからだ。インターハイにも何度も出場し、全国優勝を何度もしたことがあった。やり投げ界ではちょっとした有名人だったが、競技人口が少ないため、メディアなどで取り上げられたことはほとんどなかった。
 高校を卒業してからは陸上からは離れたが、ローカルテレビで母校が出ている試合を見たり、母校の陸上同人誌を購入していた。ちょうどその頃、村岡が世間で騒がれていた。だから、村岡を見た瞬間すぐにピンときた。
 華々しい頃とあまりにも容姿が変化していたことが、私の好奇心を駆り立てた。彼に一体何があったのか、過去を知る者としては探りたい衝動に駆られた。声をかけて話をしたい。でも、その勇気がどうしても持てず、しばらくは声をかけるのをためらっていた。
「あの、村岡さん、ですよね」
 彼が四度目に来店した時、私は思いきって彼に話しかけてみた。
「……なんだ、あんた」
 なぜ知っているのだと、挑発的な態度で私を睨みつけてきた。警戒心をむき出しにする村岡の姿は、人間不信の塊にしか思えなかった。でも、敵意むき出しの村岡のことを、嫌いにはなれなかった。むしろ気になって仕方がなかった。それは、私たちは似た者同だからだ。  
 人生に絶望した日々に終止符を打とうと、自らの命を絶とうしたことがあった。でも、上手くいかなかった。自分は死ぬことさえできない臆病者なのだと、自分を責めた。それから半年以上もの間、世間との交流を絶った。他人としゃべることを拒絶した。その時の私は、正に今の村岡そのものだった。人生に失望した者同士。だから、どうしても村岡を放っておくことができなかった。
 その日から村岡とは奇妙な付き合いが始まった。売れ残ったパンが入った袋を村岡に渡したり、時には生活費を工面したりもした。仕事を紹介することもした。村岡の生活の援助をすることにしたが、村岡に特別な感情は一切なかった。村岡も同じだった。私の支援を断ることもせず、ただ淡々と受け入れているだけだった。だからこそ私たちの関係は、公に知られることはなかった。村岡の母親にも隠すように進言した。これが功を奏したというべきなのか、村岡に殺人計画を持ちかけやすくなったのは言うまでもない。
 村岡に鳥居明美の件を持ちかけた時も、村岡は断らなかった。村岡自身、逮捕される危険が伴うから、断られるだろうと思っていた。断られたら、この計画は実行していなかった。村岡なしでは、実行は難しい体。でも、彼はすんなりと承諾した。なぜなら、前金として百万円を手渡し、計画が成功したら二百万を手渡すと約束したからだ。合計三百万は、全て二号店を開店する資金だった。あれだけ店を出したいと願っていたのに、どうしてだろう一ミリも後悔はしていなかった。それだけ、私の心の中で鳥居明美への復讐心が募っていたからだ。

 犯行の前日、私は白石に店まで来てほしいと頼んだ。
「明日? 明日か……ちょっと気が乗らないわ」
 白石は私の誘いを断った。でもこれは想定内だった。その時の気分で物事を決める。自分を女王様だと思っているからだ。
「そう。それは残念ね。紹介したいと思ってたのに」
「紹介って、誰?」
「男よ。紹介して欲しいって言ってたじゃない」
 そう言ったとたん、白石の声のトーンが一オクターブ上がった。
「えっ、そうなの。じゃあ、行こうかしら」
 やはり狙い通り、こっちの罠にかかってくれた。「男」というワードを出せば、一発でなびいてくれるのは計算通りだった。自分の運命が、危険になるとも知らずに。

 翌日、彼女はいつものように店にやって来た。白石は、相変わらず派手な服装を着て現れた。赤いバラのプリントをあしらったスカートと白いブラウス、そして真っ赤なマニキュアをしていた。彼女をここに呼んだのは、この場所でなければ犯行が成立しないからだ。店内はお昼前なので混んでいたが、午前中よりはかなり空いていた。
「ごめんなさいね、店まで来てもらって」
 まずは、彼女に店に来てもらったことを詫びた。もしかすると、私の呼び出しに機嫌を損ねてしまうかもしれない。とにかく、気まぐれな彼女の気分を阻害することだけは避けなければならない。でも、その不安は杞憂に終わった。
「いいのよぉ。気にしないで。ねぇ、それより、例の件って本当なのよね?」
 そう答える白石の顔は、終始ニヤけ続けていた。私はポケットから写真を取り出すと、彼女に一枚の写真を見せた。
「はい、これ」
「へー、カッコいい男ね。体育会系って感じ」
 それはスーツ姿の村岡の写真だった。見栄えのいい映りにするために、薄めの化粧をしたし、散髪もした。カッコよくないわけがなかった。
「彼ね、学生の頃ずっと陸上をしてたの。短距離の選手だったのよ。年齢は二十三歳。彼にあなたの話をしたら会ってみたいって言ってきたの。彼、年上の女性が好みなのよ」
「へーぇ、そうなんだ。ふぅん」
 白石は嬉しそうにほほ笑んだ。その笑顔は、心の底から嬉しいのだと感じた。その笑顔を見つめながら、携帯番号が書かれたメモ用紙を手渡さずに彼女に見せた。
「ここに電話してみて。いい男だから、信用して」
 白石は、メモをしばらく見つめていた。完全に私の話を信じ切っている顔だった。
「嬉しいわ。ありがと」
「それと、これ、食べてみて。新作が出来たのよ」
 私はメモをカウンターに置くと、爪楊枝に刺した一口大に切ったパンを彼女に差し出した。この日のために作った白石のためのピーナッツパンだ。
「えっ、これって、ピーナッツじゃないの? 私、食べられないって言ったわよね」
 白石は、少し眉根を寄せながら私に言った。
「そうよ、知ってるわ。でも、このパンは、アレルギーを発症しないピーナッツなの。アレルギーは絶対に起きないから安心して。ほら、これよ」
 ポケットから小瓶を出して見せた。
「えー、でも……なんだか、怖いわ」
 それでも白石は躊躇した。やはり、日ごろからアレルギーに気を付けているだけあって、口にするのが怖いようだ。でも、このパンを口に入れてくれないと、復讐計画は頓挫してしまう。何が何でも白石にはこのパンを食べてもらわなければならない。
「ピーナッツパンが食べてみたいって言ってたでしょ? だから、わざわざアメリカからピーナッツを取り寄せたのよ」
「……そう、なんだ」
「あなたの願いを叶えたいと思って作ったパンだから、食べてほしいのよ。絶対に心配ないから、私を信じて食べてみて」
 お願い、食べて。私は眼力で、白石に訴えた。彼女が食べてくれないと、全てが失敗に終わる。ここまで来たら、失敗はしたくない。
「そう……じゃあ、食べてみるわ」
 白石は恐る恐るパンを手に取った。顔に近づけると、まずは匂いを嗅いだ。
「美味しそう。いい匂いだわ」
 白石は満足そうな笑みを浮かべながら、それを口の中に入れた。やった! これで第一関門は突破だった。次は第二関門。白石をいますぐこの場所から追い出さなければならない。
「とっても美味しいわ」
 彼女は二口、三口と、次々にパンを口に入れた。店の外に視線を移すと、真向かいの店の前で立っている村岡を見つけた。真向かいのラーメン屋は、うちとは対照的に昼でも客が少ない。村岡はサングラスをしているので表情まではわからないが、白石が店を出てから予定通りに行動を起こすはずだ。
「じゃあ、家でも食べてみて。じゃあ、この中に入れておくわね」
「ありがとう」
 私は、パンと一緒に村岡の写真と電話番号が書かれたメモ用紙を袋に入れると、白石に手渡した。どうか彼女が、このメモ用紙を袋から取り出さないようにと心の中で祈った。袋を追いかけなければ意味がないからだ。
「それじゃあ、どうもありがとう」
 私の願いが通じたのか、白石は満面の笑みを浮かべながら、そのまま店を出て行った。そして、店を出た白石の後ろ姿を追う村岡の姿も同時に確認した。それから数分もしないうちに、店の前が騒がしくなった。
 私の願いは叶えられた。ついに鈴奈の無念を晴らすことができたのだ。
 村岡が自首したのも、計画のうちだった。引ったくり犯として自首すれば、軽い罪にしか罪には問われないとわかっていた。反省しているという態度をこっちが示せば、警察だって深く追及することはないはずだ。
 予定通り、警察は村岡を引ったくり犯として逮捕したが、すぐに釈放した。全てが私の計画通りに進んでいた。あとは、村岡さえ始末すれば、全てが終わる。
 エプロンを外し時計を見ると、午後六時になろうとしていた。決行の時だ。身支度を調えて、店の外に出た。肩にかけた茶色いバッグの柄を握りしめた。この中には包丁が入っている。それと、返り血をあびた後に着替える服と遺体を包み込むためのシート。全て用意万端だ。空を見上げると夕日が赤く染まり、目の前の道路沿いには買い物袋を手にした主婦や制服姿の学生が右往左往しながら家路を急いでいる。誰も私のことなど気にする人はいない。そして、ゆっくりとした足取りだった私の足取りも、道行く人たちに急かされるように徐々に早くなっていった。
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