第5話

文字数 10,659文字

 村岡の住んでいるアパートは隣町の郊外にあり、車で約二十分の距離にあった。
「ここか、一〇三号室」
 村岡が住んでいるアパートは、トタンの壁は色が薄れ、二階へと続く階段は所々に錆が目立っていた。相当古そうな建物だということは想像できた。村岡は一人暮らしをしていると言っていたが、それは嘘だということが分かっていた。同居人がいたのだ。
「はい」
 チャイムを押してしばらくすると、村岡にそっくりな顔立ちの母親が出てきた。彼女は村岡和子といい、五十代という年齢の割には頭の白髪の多さと顔の小じわの多さが目立っていた。母親は俺に向かって、息子の罪を、頭を下げて詫び始めた。
「このたびは、息子がご迷惑をおかけしまして、本当にすみませんでした。引ったくりをして、相手を死なせてしまったんですよね。それは、殺人罪になるんでしょうか?」
 弱々しく語りかけるその姿勢は、母親としての苦労がにじみ出ていると感じずにはいられなかった。
「いえ、事件性はなさそうなので、事故として処理されると思います、今のところ」
 『今のところ』と含みを持たせたことに母親は気に留めることはなかった。息子のせいで人が亡くなったことが気になっているようで、続けざまに俺に質問を投げかけてきた。
「亡くなった奥様は、鳥居病院のご婦人なんですよね?」
「鳥居病院をご存知ですか?」
「それは、もう。だってこの辺りじゃ、有名な病院ですから。心配なのは、慰謝料とか請求されないかなってことなんですけど……」
 母親は不安そうな顔つきで俺に尋ねた。どうやら、慰謝料を払わなければならないと思い込んでいるらしい。
「それは、被害者のご家族との話し合いで決めることです」
「ご遺族様は、お怒りですよね。大切な奥様を亡くされたんですもの」
 母親は、深いため息をついた。俺の脳裏には、冷めた視線を向ける鳥居益男の姿が思い出された。大目にみても、彼が悲しんでいる様子は全く感じられなかった。遺族が悲しんでいるとは思えないですけど、と言ってあげたかった。
「息子さんのことで、少し聞きたいことがあるんですが」
 ここで話題を変えるために、息子の話を切り出した。母親の顔の表情が、少しだけ引き締まったように感じた。
「えぇ、構いませんけど」
「息子さんは、今までどんな仕事をしてきたんですか?」
「すみません。お恥ずかしい話、詳しくはわからないんです」
 母親は、恐縮そうに言った。幾つかの職を転々としているようで、そのほとんどがアルバイトだったようだ。
「具体的にじゃなくてもいいんで。例えば、息子さんがどんな服装をしていたとか、覚えてませんか?」
「ごめんなさい。本当に分からないんです」
 母親は両手を合わせて、ごめんなさいと何度も謝った。母親も息子の素行には心配しているものの、息子が何をしたいのか理解できないようだ。村岡親子のように、お互いに歩み寄れない状態の家族は少なくない。一つ屋根の下に暮らしていても、コミュニケーションを取れないと子供は非行に走りやすくなる。小さな歪みが積み重なって、犯罪者へと向かわせてしまうのだろう。
「昔は、人様に迷惑をかけるような人間じゃなかったんです。どうして、こんなことになってしまったのか、私も理解できなくて……」
 母親は泣き入りそうな声でそう言った。化粧っ化のない顔に浮かび上がる虚ろな目が、物悲しさを感じさせた。自分の非力を心の底から憂いているように思えた。ここは、話の方向性を変えることにした。
「急で申し訳ないのですが、息子さんの部屋を見せて欲しいのですが」
 まずは、村岡の周囲を調べなければ先には進まない。彼の素性を知るには、この方法しかなかった。母親は少し戸惑った様子を見せたが、すんなりと俺を家の中に入れてくれた。
「どうぞ、こちらです」
 母親は、奥にある襖の扉を開けた。村岡の部屋は六畳ほどで、ベットと机がある普通の部屋だ。壁にはカールルイスが陸上トラックを走っているポスターが飾られていて、その隣には表彰状が飾られていた。
「陸上の選手だったんですか? 息子さん」
 俺の言葉に反応したかのように、母親の顔はほころんでいった。
「はい、そうなんです」
 母親はにこやかな表情でアルバムを手に取ると、ページをパラパラとめくり始めた。すると、ランニングウェアに身を包んだ村岡が、他の生徒たちとピースをしている写真が出てきた。彼の胸のゼッケンには、慶王高校と書かれていた。
「慶王って、陸上でかなり有名な高校ですよね」
 慶王といったら、陸上だけでなくラグビーや野球なども強豪チームが存在する。スポーツだけでなく、学力でも優秀な生徒が多い、文武両道の学校だ。
「よくご存じで。そうなんですよ。息子は、短距離の選手だったんです」
 母親の顔は、みるみるうちに柔和な表情へと変化していった。その表情だけを切り取ると、村岡はランナーの素質があったのだろう。そう思わせるほど、母親の笑顔は輝いて見えた。その証拠に写真の村岡は、ピースをしているのと同時に金色のトロフィーを左手で掴んでいた。何かの大会で優勝した時の写真らしい。写真の中の村岡も、今の母親と同じような笑顔に包まれていた。
「これは、全国大会の短距離部門で優勝した時のですよ。あの子、高校に入学早々に選手として抜擢されて、いきなり優勝したんです」
「一年生で? それは凄いですね」
 名門高校でいきなり優勝するというのは、将来有望な人間なはずだ。村岡の学生時代は、充実していたに違いない。
「まあ、その時だけでしたけどね……いい時というのは、続かないものですね」
 母親は、ポツリとつぶやいた。その寂しそうな物言いに、その先が想像出来てしまった。だが母親は、聞いて欲しいと言わんばかりに話を続けた。
「その後、世界大会にも出場が決まってたんですけど、運悪く足を怪我してしまって……それからは思うように記録が伸びなくて、辞めてしまったんです、陸上」
 母親の話す声は、みるみるうちにか細くなっていった。オリンピック選手を目指していた村岡のモチベーションは、その日を境に一気に下降していったという。
「学校も中退するし、仕事に就いてもすぐに止めてしまって長続きしませんでしたし。挙げ句の果てには、無職になるし……お金に困った息子は、窃盗をするまでに落ちぶれてしまったんです……でも、全て私の責任なんです。私がもっと息子に目をかければよかったんです。仕事が忙しくて、あまり構ってあげられなかったから」
 母親は、涙に濡れた頬を両手の平で拭いた。非行少年や少女に振り回される親の姿を、俺は幾度となく目撃してきた。だから特に感情移入することなく、達観して見る癖がついてしまった。親が本気で悲しんでいる家庭の子供は、いつかはその涙の意味に気づいて更生していくはずだ。そう願わずにはいられなかった。
「あの子、また悪いことをしようとしてるんでしょうか」
 母親は涙を手で拭きながら、不安そうな顔で俺に尋ねた。
「あの子警察に捕まってからは反省して、別人のように真面目に働くようになったんです。本当なんですよ」
 母親の言っていることが真実なら、最近の村岡は心を入れ替えて真面目に働いていたことになる。そんな人間が、たった数百円のパンを盗むなど軽率なことをするだろうか? 母親の悲しむ姿を見せまいと更生している男が、引ったくりという罪を犯すだろうか? 最近の若者は何を考えているか分からない。むしゃくしゃして殺人を犯したりする時代だ。魔が差しただけなのだろうか……。
「この間、私に嬉しいこと言ってくれてたのに。一生懸命働いて、そしてでっかい家を建ててやるからなって……」
 母親は我慢できなくなり、両手に顔をうずめて嗚咽し始めた。俺はその姿を横目で見ながら、何か手掛かりになるものはないかと机の引き出しの中を調べ始めた。母親に同情する時間はない。しばらくの間周囲を物色していると、泣いていた母親が突然顔を上げた。
「そう言えば……そう言えば、あの子、変なこと言ってました」
「変なこと? 何ですか、それは」
 俺は手を止めると、母親を凝視した。
「あの子は否定してたんですけど……実は、あの子が突然ここから引っ越すって言いだしたんです。私は冗談だと思って『そんなお金ないでしょ』って言い返したんです。そしたら、その時にポロっと言った言葉なんですけどね……私には『大金が入るから』って聞こえたんです」
「大金、ですか?」
 母親は頷くと話を続けた。
「すぐに『えっ、大金?』って聞き返したんですけど、息子は苦笑いしてそのまま別の話をしだしたんです。私も単なる言い間違えなのかなと思って、それ以上その話を掘り返さなかったんです」
 大金というのが効き間違いだとしても、村岡が話をうやむやにしたというのは気になるところだ。
「この中もいいですか?」
 俺は木製のタンスを指さした。扉を開けると、コートやシャツなどがハンガーにかかっていた。黒のダウンジャケットのポケットに手を突っ込むと、カサッという音と共に何か固い物が手に触れた。
「何だ、これは」
 取り出した物は、くの時に折曲がった茶封筒だった。中を見ると、一万円札の束が出てきた。ザっと見たところ、百万はあるだろうか。
「こんな大金……どこからこれを」
 母親は、万札の束を見て言葉も出ないようだった。
「これは、こちらで一旦預からせてもらっていいでしょうか?」
 札束に付着した指紋を調べたいと思った。何か手掛かりが見つかるかもしれない。
「はい、もちろんです」
 その茶封筒をビニール袋に入れると、上着の内ポケットにしまった。
「ご協力ありがとうございました」
 俺は母親に頭を下げてアパートを後にした。母親は何度も頭を下げて俺を見送っていた。
「くそっ! あいつ、嘘つきやがて」
 帰りの道を歩きながら、俺の腹の中は煮えくりかえっていた。あの野郎、警察を完全に舐めてやがる。村岡の警察に対する態度に怒りを感じずにはいられなかった。腕時計を見ると、時刻は午後二時をさしていた。携帯を取り出すと、平野に電話をかけた。
「今からそっちに行く。村岡を取り調べるから用意しておいてくれ」
「突然、何なんですか? 取り調べならもう終わったでしょ。ていうか、先輩、今どこにいるんすか?」
 平野はキレた俺の態度にカチンときたのか、ムキになって言い返してきた。
「ヤツが言ったことはデタラメだ。あいつは、一人暮らしじゃないし、食べ物に困っていたわけじゃない。だから、もう一度調べる必要があるんだよ」
「だから、それがなん何ですか? ひったくりと何の関係もないでしょ。ていうか、俺の質問に答えてくださいよ」
 平野の興味のなさそうな言い方が、俺をイラつかせた。
「あいつは、嘘をついてるんだよ! そんなのも分かんねーのか!」
 俺のどなり声は、前を歩いていた老夫婦を振り向かせた。今の俺は、自分が思っていたより興奮していた。
「やっぱりそうか。先輩、現場にいるんすね? 今日は休みのはずでしょ」
 平野の冷淡な言い方は、俺の煮えたぎった怒りをさらに加速させた。
「俺の休日をどう使おうが、お前に関係ないだろ。いいか、もう一度村岡を取り調べるんだ」
「えっ、またですか?」
「それとな、ヤツの過去の勤務先を洗い出してくれ」
「どうして勤務先なんか……」
「村岡は働く場所を転々としている。そこから何か分かるかもしれないだろ」
「でも、部長に許可とってないじゃないですか」
「いいんだよ! つべこべ言わず探すんだ、分かったな!」
 口答えをする平野に怒鳴り声を浴びせながら、電話を切った。俺はコートをめくり、内ポケットの茶封筒を見つめた。母親によれば村岡は、この一年ほどは仕事を転々としていたらしい。正社員ではなく、アルバイトをしながら母親との生活を支えていた。先ほどアパートの中に入ったが、彼らの生活は裕福そうには見えなかった。日々の生活で精一杯だというのが伝わってきたのだ。だとすると、村岡はどのようにしてこの大金を手に入れたのか……。真っ先に思い浮かぶのは、この金額に見合うだけの仕事をしたから……。俺の脳裏には、ソファにふんぞり返った鳥居益男の姿がよみがえっていた。彼なら百万という金額を払うのは簡単だ。仮に鳥居益男が村岡に百万円を払ったとしよう。その理由は一つしかない。鳥居明美を事故に見せかけて殺害することを依頼したということだ。でもこれは、村岡と鳥居益男が繋がっているという明確な証拠がないと成立しない。
「あいつの言う通りだったかもな……」
 布谷は初めから今回の件に疑念を抱いていた。あいつの推理力は伊達じゃないということだ。俺は、一瞬でも布谷の推理を疑ったことを恥じた。 

 警視庁に戻ると、刑事課の連中にバレないように小走りで廊下を通り過ぎた。そして、奥にある階段を上がっていった。特に今から行く場所は、誰にも知られたくはなかった。というより、絶対に知られてはいけない場所だ。鑑識課のドアを開けると、立て付けの悪い音が廊下に響いた。
「桜井、いるか?」
 俺は中に入ると声をかけた。
「おう、須永。どうした?」
 パソコンから顔を上げたのは、桜井和夫だった。彼は、俺と同期の鑑識官だ。頻繁にではないが、帰りの時間帯が合ったりすると飲みに行く仲でもある。俺は中に入ると、桜井の隣の椅子に座った。運がよかったというべきだろう、桜井以外の人間は全て出払っていた。
「鳥居明美の遺体って、こっちにあるだろ?」
「鳥居明美?……あったかな」
 彼は首を傾げると、再びパソコンの画面をのぞき込んだ。書類を作成しているようで、両手を頻りに動かしている。
「鳥居病院の奥さんの遺体だよ」
「ダメだ。断る」
 彼は頭を上げもせずに、即答で断ってきた。
「おい、まだ何も言ってないぞ」
「そんなの聞かなくたって分かるさ。どうせ許可がないのに解剖しろ、とか言うんだろ」
「何で分かるんだよ」
「お前がわざわざここに来るなんてさ、周りに知られたくないからだろ。知り合って何年だと思ってんだ」
「それじゃあ、話は早いな」
俺は、手短に今回の件の詳細を話した。
「……というわけなんだよ。死因が断定できれば重要な証拠になる。犯人が捕まるかもしれないんだ」
「ダメ、ダメ、ダメ、そんなの。俺の首が飛ぶ」
 桜井は頭と左手首を同時に振って、露骨に嫌な顔をした。桜井が嫌がるのも無理はなかった。もし無断で解剖したことが上司にバレれば、桜井も始末書を書かなければならないからだ。無理を言っているのは承知のうえだった。許可が下りないと分かっている以上、内密にするしかない。
「今回の件、ただの病死じゃないんだよ。それには、どうしても死因を特定する必要があるんだ」
「嫌だ。断る」
「つれないこと言うなよ。俺とお前の仲だろ」
 桜井は、フーっとため息をつくと、反論をするのを止めた。そしてデスクの上のマグカップを手に取ると、おもむろに立ち上がった。
「……前もこんなやり取りがあったな……確か」
 桜井はマグカップの中にインスタントコーヒーを入れ、お湯を注ぎながらそう言った。
「名前なんだっけ。確か、お前とコンビだった女子だったよな?」
「布谷のことか」
 やはり、彼も覚えていたか。それくらい、布谷の印象はインパクトがあったということだ。
「そうそう、布谷って子だ。彼女って、確か、警視総監の娘だったよな?」
「よく、覚えてるな」
「そりゃそうさ。あんなしつこい新人、初めてだったし。でもまさか、結婚して退職するとは思ってなかったよ。てっきり、父親と同じ地位に上り詰めるのかと思ってたな……今も元気なのか」
「あぁ、元気だよ」
 俺は、布谷と偶然再会した話をした。
「へー、そんな偶然もあるもんだな。ということは、彼女に感化されてここに来たのか?」
「は? 違うよ、違う。それは違うよ。感化じゃねーよ」
 さすがは鑑識官だ。鋭いところを突いてくる。布谷の意見に左右されてはいるが、彼女はもう刑事ではない。警察とは関係ない人間に、感化されたと思われたくなかった。
「でも、しつこかったなぁ、あの子。凄い剣幕でさ、『調べてくれるまで、ここを動きません!』なんて言われてさ。ホント、あの時は参ったよ」
 布谷に言われた発言を懐かしそうに話しながら、俺の前に缶コーヒーを差し出した。俺はそれを受け取ると、一口飲んだ。そう言えば、村岡のアパートを出てから何も口にしていなかった。乾いた喉にコーヒーの苦みが潤うのを感じながら、一息ついて話を続けた。
「そんな昔の話、よく覚えてるな」 
「そりゃ忘れないさ。あの子、相当インパクトあったからな」
 現職時代の布谷は、今の俺以上に桜井を困惑させていた。大声で怒鳴りあうということはなかったが、桜井が困った様子で俺の元へと訪ねてきたのはよく覚えている。
「まあ、今は、上司に刃向かうヤツなんていないから、平和なもんだ」
 苦笑いを浮かべながら、桜井はコーヒーを啜った。ゆとり教育のせいなのか、若者が自らの意見を主張しないのは肌で感じている、上司にとっては歯向かう者がいないから、仕事がスムーズに進んで好都合かもしれない。でも、それは裏を返せばとても怖いことに思えるのは俺だけだろうか。間違ったことを指摘できないと、初動捜査から間違う可能性がある。それが一番の原因と断定はできないが、現に誤認逮捕や捜査ミスは毎年のように起きている。
「じゃあ、俺を布谷だと思って、その時を思い出してさ、引き受けてくれないか」
 俺は冗談っぽい口調でそう言った。わざとらしい物言いに対して、桜井はそっけない態度で言い返してくると想像していた。だが、予想に反して桜井は笑顔をまったく見せず、静かな口調でこう話を続けた。
「お前、責任取れるのか?」
 桜井は、俺を試すかのように、真剣な眼差しを向けた。
「あぁ。俺を信じてくれ」
 ここで迷ってはいけない。ここで引き下がっては、全てが終わってしまう。上司にバレてしまってもかまわない。始末書を書けと言われれば書いてやろう。刑事としてのプライドを持ってしても、鳥居明美の解剖をしてもらわなければならない。
「お前の力が必要なんだ。頼む」
 桜井は腕を組み、しばらく考え込むと、深いため息を一つついた。
「……分かったよ、分かった。じゃあ、この分の残業代は、晩飯代として処理させてもらうからな」
「よかった。助かるよ」
 俺は、ホッと胸を撫で下ろした。これで一歩、前進する。
「そうだな……やれるとしたら、早朝だな。人目があるとできないからな」
 桜井は壁の時計を見ながら言った。時刻は午後六時半を指していた。
「よろしく頼むな。あっ、それと、これなんだが」
 俺はポケットから百万円が入った茶封筒を取り出した。もちろんビニール袋に包まれている。
「これの指紋を調べて欲しいんだ」
 もし仮に、この紙幣に村岡以外の指紋が鳥居益男の指紋が付着しているとしたら、事件として扱うための証拠になり得るはずだ。
桜井は手袋を嵌めてから、封筒の中身を確認しだした。
「ほー、これは大金だな。これだけ枚数が多いと、時間かかるぞ」
「わかってる。それじゃあ、頼むな」
 俺は、桜井に全てを託し鑑識課を出た。何はともあれ、これでスタートに立てた。ホッとした一方、どうか上司にはバレないで欲しい。祈る気持ちでいっぱいになった。上司に歯向かった代償は大きい。きっと始末書どころの話ではなくなるだろう。近年の警察は、職務怠慢の責任追及が厳しくなっている。主任以上になると、謹慎は避けられないだろう。
「あいつと同じだな」
 布谷もこんな風に真実を突き止めようとしていたのだろうか。たとえ周囲からの批判があろうとも、逆風に立ち向かう努力を続けていたはずだ。事件に対して真摯な態度で向き合っていたからこそ、上司に歯向かうような態度を取らざる負えなかったのだ。今のこの緊張感は、過去の布谷の緊張感そのものだった。
 俺が刑事課に戻ると、部長もいなく他の刑事たちも出払っていた。その静まり返った空間の中に、ポツリと平野の姿があった。彼は机に座り、パソコンの画面を凝視していた。
「おい、何か分かったか?」
「あっ、先輩」
 俺の姿に気づいた平野は、おもむろに立ち上がると、真剣な面持ちで俺の方へと近づいてきた。
「どうしてわかったんですか?」
「は? 何がだよ」
「村岡のことですよ。ヤツは、鳥居病院で働いてたんですよ」
「マジかよ」
 ぼんやりと思い描いていた疑惑が確信へと変わろうとしていた。やはり、村岡がこの件に絡んでいたとは。点と点がつながった気がした、歯車が噛み合ってきたというべきだろうか。
「村岡は、鳥居病院の清掃員を約半年間してたんですよ」
「清掃員だって?」
 清掃員と聞いて、意気消沈した。鳥居病院は、吉川町周辺の病院の中で一番大きな病院だ。従業員は、百人以上はいるだろう。清掃員となると、アルバイトかパートといった立場になるはずだ。村岡が週に何日働いていたか分からないが、医師と清掃員が知り合う確率は否定できないが高いとは思えない。院長である鳥居益男と清掃員の村岡の接点。鳥居夫婦と関係があったと決めつけるのは早計かもしれない。
「それにしても、働き始めてから半年で辞めたっていうのは、いくら何でも短くないか。辞めた理由はなんなんだ?」
「分かりません。村岡は、一方的に辞めたみたいです。トラブルがあったというわけじゃなさそうです。それと、話は変わりますが、鳥居益男には数年前から愛人がいるそうです」
「愛人だって?」
 本当に話が飛躍しすぎだ。
「相手は誰だ?」
「鳥居家に勤める家政婦です。数年前から関係があるそうです」
 なるほど、そうか。鳥居益男の家政婦への態度が、普通の関係ではないように思えたのは気のせいではなかったのだ。一番の違和感は、鳥居益男が部屋に入ってくるなり俺に家政婦と何を話していたかを尋ねてきたことだ。その時の鳥居は、完全に『男』だった。『自分の女』と何を話していた? と言いたげだった。
「主任……主任は、家政婦がこの件に関係してると考えてるんですか?」
「さぁな、どうだろうな」
 鳥居益男が家政婦と一緒になりたくて、妻を殺害した。そんな筋書きは容易に想像できる。でも、それは三人の関係がこじれているとか憎しみ合っているとか、殺したい衝動に駆られていないと無理がある。
「話を戻しますけど。村岡は、鳥居益男に頼まれて引ったくりをしたんでしょうか?」
 平野は、眉間に皺を寄せながら右手に人差し指を唇に当てた。困惑気味なのは伝わってきた。俺もそうだ。形の似ているパズルのピースを、違う、違うと言いながら何度も探し当てている。
「でも、どうやって引ったくりで人が殺せるんでしょうか? そこがどうしても繋がらないですよね」
 引ったくりで人は死ぬのか。平野の言う通り、結局はそこに話が戻ってしまう。
「富岡に鳥居明美の解剖を頼んだんだ」
「えっ、大丈夫なんですか、部長に許可取らなくて」
 平野は、目をまん丸にして驚いていた。
「こうでもしなきゃ、先に進まないだろ」
「そりゃそうですけど……バレたら大変じゃないですか?」
「大丈夫だ。今回みたいなことは初めてじゃないし」
 俺がサラリとそう言うと、平野は間髪入れずに言葉を発した。
「初めてじゃないって……まあ、何となく分かりますけど。あの人、布谷さんが昔、同じようなことをしてたんですよね?」
「お前、勘が良くなってきたな」
「そりゃ、あれだけ武勇伝を聞かされたら、誰でも想像できますよ」
 平野は、布谷のことを認めたわけじゃないだろう。でも、ほっこりした何とも言えない気持ちになった。自然と緩んだ俺の顔とは対照的に、平野の方が真剣な面持ちで俺を直視し始めた。
「何だよ、そんな真面目な顔してさ」
「あの……すみませんでした!」
 平野は突然、俺の目の前で頭を下げて謝り始めた。
「何だよ。気持ちわりーな。頭上げろよ」
「だって、その、先輩に生意気なことばかり言ってしまって……結局は、先輩の言う通りだったし……」
 へー、こいつも反省することがあるのかと、何とも言えない気分になった。
「何だよ、らしくねーな。そんなこと、気にすんじゃねーよ。いいから、頭上げろ」
 俺は平野の頭を、右手で軽く小突いた。平野は頭を上げると、安堵の表情を浮かべた。
「さぁ。何か腹減ったな。出前でも頼むか」
俺の腹は、さっきから何度も鳴っていた。捜査に夢中になりすぎて、朝から何も食べていなかった。
「先輩、奢りますよ」
後輩に奢られるなんて正直気持ち悪かったが、今は気分がいいので承諾した。俺は自分の机に着くと、パソコンを目の前にして顔がニヤつき始めた。生意気な若造の鼻をへし折ったことへの優越感ではなかった。俺の誠意が彼のような年の離れた若造に伝わったことが、単純にうれしかったのだ。
 これに似た感覚を以前にも味わったことがあった。布谷が刑事だった頃、俺はあいつの存在が好きではなかった。父親の庇護の下で育ち、苦労も知らないお嬢様育ちの女性。その偏見に囚われすぎていた。事件が解決したにもかかわらず、文句をつけてくる姿勢がうっとうしくてたまらなかった。俺たちの仕事を邪魔しているようにしか思えなかったからだ。
 そんな布谷への偏見が関心へと変わっていったのは、事件に対する真摯な姿勢を目の当たりにしたことだった。ひたむきに努力する姿勢に心を打たれた。彼女の主張はいつも的確だったし、狂いがなかった。女性初の警視総監も夢ではないと、密かに想像を膨らましたりもした。でも俺の期待は彼女が警察を辞めることで、あっさりとくじかれた。彼女の唯一の弱点が、精神的に脆いということに気付けなかったことを今でも後悔していた。
 そもそも部下の悩みに気づけなかったのは、俺が人の気持ちに鈍感すぎたからだと反省した。部下の意見を無下にはしないと、心に決めた。俺の行動は周囲から見ると、後輩に舐められているように思われることも多いらしく、他部署の上司から意見を言われたこともある。部下とコミュニケーションをとることで、彼らが自らの殻に籠もらないようにする配慮だと説明しても納得はされなかった。それでも俺は、部下との意思疎通を大事にするスタンスは変えるつもりはない。布谷の二の舞は起こしたくないと心に決めたからだ。
「先輩、飯、来ましたよ」
「おう、分かった」
 俺の腹は、グゥーッと大きく鳴った。
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