第12談 「ともにわかちあえないしあわせ」とは?
文字数 3,778文字
すごい愛し合っていて隠し事もなく、信頼し合っているとアミーンは思っていましたが、そんな夫婦ある? と違和感がありました。
シヘムが書いた手紙の「ともにわかちあえないしあわせなど無意味」(75頁)とは、どんな意味があるのでしょうか?
ともにわかちあえないしあわせなど無意味です。私の喜びも、あなたが同じように喜んでくれないのなら、色褪せてしまいます。あなたは子どもが欲しいと言った。私は子を持つにあたいする人間になりたいと思った。祖国を持たない子が安らかに生きていくことはありえません。どうか私をうらまないで……。(ヤスミナ・カドラ『テロル』75頁、シヘムの手紙)
アミーンは妻を「この上なく幸せな女」(102頁)だと語っていましたが、実はそれは思いこみで、お互いの「しあわせ」の定義が違っていたと言えますね。
むしろ「ともにわかちあえるしあわせ」なんてないよ。夫婦はわかちあえない。
すごくメロドラマ的な手紙だと思ったわ。
自分も結婚していますが、 夫婦で分かり合えないことはあるものです。
夫婦であっても分かり合えない、深いところに宗教が根ざしているのだと思います。
「人々を自由で幸福に生かすためだと、誰かを死地に送りこんでおいて、その死を立派だと褒め称える。それのどこが立派なんだ」(中略)
「アミーン、わけのわからんことを言うな。太古の昔から、物事のことわりは変わっちゃいねえ。人は他人の救済のために死ぬ。おめえは自分以外の人の救済を信じないのか」
「ああ、その救済が私に犠牲を強いるというならな。見るがいい、あんたたちは私の人生をめちゃくちゃにした。屋敷は壊され、キャリアも台無しだ」
(129-130頁、アミーンとヤセルの対話)
アミーンは表向きイスラム教徒ですが、内心では死後の救済など信じていなくて、とことん現世主義です。
「人は他人の救済のために死ぬ」というヤセルの考え方は、ヤセルの息子アデルにも共通しています。
シヘムはあんたの女であるよりもまず、人間なんだ。彼女は他人のために死んだんだ……(241頁、アデルの言葉)
「ともにわかちあえないしあわせ」の「ともに」は、夫婦間だけでなく、もっと広い範囲を指している可能性もありますね。
あんたとシヘムは同じ屋根の下で暮らし、いい暮らしを謳歌していたが、見ているものは同じではなかった。(中略)焦土と化した場所でバーベキューをするみたいなものだ。あんたはバーベキューしか見えていなくて、彼女はそれ以外のところを見ていた。(242頁、アデルの言葉)
シヘムは自分だけが「いい暮らしを謳歌」することに違和感を持ち始め、故郷の人々とともにわかちあえないことに後ろめたさや苦痛を感じるようになったのかもしれません。
妻が抵抗運動に共鳴し、自爆テロの実行犯となるまで、アミーンが全く気付かずにいたことや犯行の動機がよくわからないまま結末を迎えることに、読者としては無力感や虚無感が残りますね。
夫婦でありながら奥さんの変化に気づかなかったなんて、あるのでしょうか?
「夢を見すぎる人は、生きている者のことを忘れてしまう」(195頁)という母親の言葉を思い出し、アミーンが自分に当てはまると気づく場面があります。
彼は妻を理想化して見ていたから、変化に気づかなかったと言えます。
シヘムが惜しみなく与えてくれたさまざまな喜び以外は私の目に入らず、彼女にも悩みや弱さがあるかもしれないとは思い至らなかった……。私は彼女を本当に生きた人間として見ていなかった――さもなければ、あれほどまでに彼女のことを理想化し、孤立させることはしなかったはずだ。今こうして思うと、いったい私はどうすればよかったのか。シヘムのことで”夢を見すぎる人”でありつづけた私が、どうしていれば彼女を生きた人間として見ることができただろう。(195-196頁)
シヘムはイスラム教徒でしたが、スカーフで髪を隠そうともせず、旅行に行ったり、泳いだりするのを楽しんでいました。(166頁)
彼女が夫の前で宗教にとらわれない進歩的な女性を演じていたため、妻が日々の生活を喜んでいるとアミーンは誤解してしまったのでしょう。
いや、シヘムは演技していたのではなく、最初は本心から楽しんでいたのでしょう。それが、ふとしたきっかけで心変わりしたのだと思います。
高級住宅街の邸宅に引っ越した時の喜びの場面(73頁)があったので、小さなアパートで倹約して暮らしていた時は、夫婦で同じ「しあわせ」を夢見ていたのかも……
アデルとの対話で語られていた「ほんのちょっとしたことで爆発する」という台詞が本質をついている気がします。
小さなきっかけで彼女のなかに眠っていた獣が鎌首をもたげた。どの瞬間にそのきっかけがあったのだろうか。そのことは訊かなかった、とアデル。おそらくシヘム自身もわかっていなかっただろう。テレビで人々が不当に扱われている場面を一つ余計に見たか、街角で見聞きしたことか、意味もなく浴びせられた罵声か。そういう些細なことが、後戻りできないスイッチを押してしまう。きっかけとはそういうものだ。(244頁、アミーンとアデルの対話)
イスラエル社会に溶け込んで暮らす同化アラブ人はたくさんいるので、ありえる話です。
警察官僚ナビードも、テロの動機は「ちょっとしたことがきっかけ」だと言っていましたね。
おそらく最古参のテロリストでさえ、自分たちの身に何が起きたかなんてわかっていないよ。そしてこれは誰の身に起きてもおかしくないことなんだ。潜在意識のどこかでスイッチが入ると、それですべてが動きだす。動機の温度差もまちまちだが、大抵はちょっとしたことがきっかけだ。(100-101頁、警察官僚ナビードの言葉)
普通の日常の中に「テロル」があるということです。
最近、日立市役所に車がわざと突っ込んだ事件も「テロ」と言えます。
いつどこで起きるかわかりません。
作者が日常生活を書き、思想も描いているのはそういう理由だと思います。
シヘムにとっては、パレスチナ国家樹立が目的だと思います。
1988年に独立宣言が出されて、パレスチナ国家はすでに成立しています。イスラエルをはじめ、日本もアメリカも国家承認していませんが……
そもそもイギリスに支配される以前のパレスチナって独立国家だったの?
この地域はさまざまな帝国の支配下に置かれてきました。歴史的経緯から見ると、ひとつの民族の解放が、別の民族の抑圧をもたらす結果となったわけですね。
ユダヤ人虐殺の生き証人である老イェフダーは、まさにユダヤ人の被害者性を象徴するキャラクターだと思います。
「かつては自分が受けた苦痛を昇華させるためだけに、人生の多くの時間を費やしてきた」と老イェフダーが語る。「私には、黙祷と追悼がなにより価値あるものに思えた。自分がショアを生き延びたのは、あのときの記憶を伝えていくという目的のためだけだと、確信していたんだ」(84頁、老イェフダーの言葉)
この紛争をとくに難しいものにしているのは、イスラエルとパレスチナ、イスラエルとアラブがそもそも、双方ともに被害者だということ、そしてこの二つの被害者集団どうしが争っているということです。(アモス・オズ『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』より)
ユダヤ人が被害者であることは事実ですが、パレスチナ人にとっては加害者でもあります。
ジャニンの場面では、イスラエルの国家としての加害者性が描かれています。
廃墟となった街並みに、人影の消えたかつての路地を見てとることができた。公然と破壊された建物の外壁や、亀裂よりも辛辣な無数の落書きが残っている。瓦礫、戦車で押しつぶされた車の残骸、砲弾で穴のあいた塀、苦しみにあえぐ中庭、どこに目を向けても、恐怖が無限に繰り返される感覚があった。(中略)二台の救急車は取り乱した亡霊たちであふれた宿営地に出た。
「難民さ」ジャミルが説明した。「破壊された家があっただろう。あそこに住んでいたんだ。今はここで縮こまって暮らしている」
私は何も言えなかった。恐ろしかった。(216-217頁)
パレスチナ人の思想家エドワード・サイードもこう言っています。
それに補足しておきたいのは、いま僕たちが問題にしている民は、アフリカの白人移民などとは異なり、自らが抑圧と迫害の典型的な犠牲者であるという点です。その民がパレスチナにやってきて別の犠牲者をつくり出したのです。犠牲者の犠牲者であるという点が、僕らの立場を非常に特異なものにしています。(エドワード・サイード『ペンと剣』77頁)
シヘムは子供が安らかに生きていける社会がほしかったのよね。
イスラエルに対するテロが独立国家パレスチナを建国できる方法になり得るかは、疑問ですね。そのあたりの作者の立場も不明です。
引用:ヤスミナ・カドラ『テロル』(藤本優子訳、早川書房)より
参考:
アモス・オズ『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』(村田靖子訳、大月書店)
エドワード・サイード『ペンと剣』(中野真紀子訳、ちくま学芸文庫)
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