第2話 豚の皿 ~新釈サロメ~

文字数 2,584文字

 追放したはずだった、この土地から。
 だが、男はよみがえるようにこの土地に戻ってきた。
 ネモフィラが咲き乱れる夜中の国立公園。
その花畑の真ん中で、男は自分を追放した女に、会釈をした。
「元気そうでなによりだ」
 男は女に言う。
 顔をゆがめて、女は吐き捨てるように返す。
「なんで帰ってきたの? なんで帰ってくることが出来たの?」
 男は片方の唇をあげて、にやりと笑んだ。
「君に会いにきた。……って理由じゃ、ダメかい?」
 眉間にしわを寄せる女。
「不愉快だわ。またお父様に言いつけなくちゃ。今度こそ、あなたが再起不能になるように、仕向けなくちゃ」
「走ってきたんだぜ? セリヌンティウス」
 男はおどけるような口ぶりで女に言った。
「なによ、メロス。って、あはは。ばっかみたい。長距離走の競技のつもり?」
 釣られて笑った風に応じる女は、しかし、表面上だけの乾いた笑いを浮かべるだけだ。
 二人はネモフィラ畑の中で、照明に照らされている。
 まわりには他に誰もいない。
 一陣の風が吹いた。
 スポットライトのなか、ネモフィラが揺れる。
 暗闇のなかのネモフィラもまた、一斉に揺れている。
 照明で照らせないほどのネモフィラが、ここには植わっているのだ。
 男はどっしりと構えて、自分をこの土地から追放した彼女に余裕そうに向かい合う。
「今夜は祭りだよ。競技のお祭り。長距離を駆け抜けてきた」
 長距離走。
 でも、誰との競う競技だっていうのか。
 女はしばらく口を閉ざした。
 それから、男に挑むように、質問した。
「それがなんのための祭りだって言うの?」
「僕が死んで、生き返って、また死ぬ。そんな祭りだよ。神に捧げる競技だったのさ」
 鼻で笑う女。
 この男はどこかおかしい、とでもいう風に。
「あなたは、この土地が好き? 追放された者が戻る土地じゃないわ」

 女は、男を政治的に、経済的に追い詰めて追放した。
 そこにはスポーツマンシップなんてない。
 実際。
 女自身、この土地が嫌いだった。
 この土地に縛られる自分自身が嫌いだった。

「あなたは、奇跡を信じるかしら」
 男は考えるそぶりも見せずに、さも当然であるかのように答える。
「信じるね。この世には不思議な力が溢れている。僕がここまで走って戻ってこれたことが、もう奇跡の範疇だ」
 男の言葉を遮るように、女は若干、早口になる。
「奇跡は、わたしに味方をする。いつだってする」
 男は顔を自分の手で覆って、笑った。
「あはは。じゃあ、再び出会えたのも、奇跡が君の味方をしたからさ」
「バカ言わないで! あなたはそうやっていつも、わたしをこけにする。気に入らないわ。お父様に早く電話をしなくちゃ!」
 携帯電話を持ったその手首を、男は掴む。
「離して! その手を離して! いや! あなたはいらない人間だわ! この土地にはいらない人間で、わたしにもいらない人間なのだわ! 離して!」
「離さない」
 ぎゅっと手首を掴む。
女の手から、携帯電話が花畑に落ちた。
 携帯電話はネモフィラの中に埋もれた。
「祭りだ、って言っただろう?」
 男は女を抱きしめる。
 男の手の中で、女は泣く。
「帰ってこないで、って言ったのに。帰ってこないように、追放したのに」
 男は、
「君が現代のサロメである必要はないのさ」
 と、言った。
「サロメ?」
 一瞬、言葉の意味がわからなかった。
 だが、その神話を、女も知っていた。
 男は説明をする。
「自分が殺してからも復活した聖人の首を所望した女性の名前が、サロメだ。知らないとは言わせない」
 男は抱きしめている女のくちびるを奪う。
 女は首を振って、抵抗する。
 が、抵抗する気も失せて、口腔内に舌が這うに任せた。
 しばらく、くちびるを重ねていた二人だったが、女は男を振りほどくと、男を睨み付けた。
「皿の上に、あなたの生首をのせてさらし者にしたいわ。わたしが殺した男。わたしだけがあなたを殺せる、それを確認するために」
 サロメの伝説を思い出した女は、西洋絵画のモチーフになったサロメを頭の中で浮かべながら、男に吐き捨てる。
「僕は君を奪えない。くちびるくらいだよ、奪えるのは」
 男はまっすぐ女を向いたまま、後ろ足に、後退して距離を取る。
「奪えないなら、なぜ、あなたはここへ来たの」
「ピストル。そのハンドバッグのなかに入っているのだろう?」
「安物のマカロフだけどね。入っているわ」
 男はなぜピストルをハンドバッグに忍ばしてきたのを知っているのだろう、といぶかしむ。
 だが、考える時間を与えずに、男は言う。
「撃てよ。僕を」
 女はマカロフを取り出すと、それを震えながら構えた。
「本当に撃つわよ」
 声が震える。
「撃てよ。皿の上に僕の生首を乗せるんだろう?」
「最後まで、あなたはバカな男ね」
 と、女。
 あなたは本当にバカな男だわ、ともう一度繰り返した。
「言われなくとも」
 男はクスッと微笑む。
 悲しい目をしている。
 その悲しい目を見据えてから、女は息をのみ。
 銃のロックを解除する。
 それからマカロフの引き金を引いた。
 発砲音。
 バン、バン、バン。
 男の胴に三発、ピストルの弾丸を撃ち込んだ。
 女は撃った反動で転ばないように、足にしっかり力を入れて、耐えた。
 撃たれた男が倒れる。
 血が吹き出る代わりに、それはネモフィラの花びらとなって散った。
 夜空に舞うネモフィラ。
 倒れた男の身体も、ネモフィラに変わり、風に吹かれて消えていく。

 すべてがまぼろしのようだった。
 その男は、まるで最初から存在しなかったかのように、かき消えた。
「バカ。なにが競技よ。なにが長距離走よ。祭り? 嘘ばかり。あなたはいつだって、そうだった。バカで、くずで、傲慢で、わたしにいつも楯突いて……」
 その場に崩れ落ちる女。
「好きだった。でも、あなたはもう、ここにはいない」
 マカロフを自分のこめかみにあてる。
女の顔は、泣きじゃくってメイクもなにもあったものじゃなくなっていた。
「ここはあなたのいない世界。奇跡はいつだってわたしの味方だった。この土地に縛り付けられることと、あなたとの距離を遠ざけられたこと以外では。さよなら。これが祭り……ね。鎮魂のための。あなたと、……そしてわたしのための」
 マカロフをあてたこめかみから、汗のしずくが落ちる。
 女は目を閉じた。

 発砲音が、揺れる一面のネモフィラ畑に、吸い込まれていった。





〈了〉
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