追われる
文字数 1,863文字
悲痛な女性の呼び声に、ばらばらと人が集まり出す。
マリアはその間からのぞいた。
車はレンガ壁に衝突し、前部が大破していた。運転席側のドアは開いていて、ドライバーの姿は見えない。
「うちの子が——」
車体の下から、小さな子どもの両足が出ていた。体の一部がタイヤの下敷きになり、ひどく出血して、地面が赤く染まり出していた。
誰かがぽつりと言う。
「救急車を呼ばないと」
別の誰かが携帯をとり出し、911のオペレーターと思われる相手に事故の場所と状況を説明する。それからため息をついて通話を切った。
「いつ来るかわからないってさ。事故ばかりで、救急車は全部出払ってるって」
「子どもを車の下から引き出せないか。そうすればなんとか病院まで運べるだろう」
「完全にタイヤの下だし、出血がひどい。下手に動かしちゃまずいんじゃないか」
「何人かで一気に車体を持ち上げたらどうだ」
「そんなこと、できるわけないだろう」
「やってみてはいいが、失敗したらどうするんだ」
人々は互いに思っていることを口にしたが、誰も動こうとしない。
母親は車体のそばに座り込み、子どもの足に手を触れて泣いている。
マリアは立っている人たちの間を抜けて、車のそばに近づいた。
車体の下縁に手をかける。
自分は
ゆっくりと持ち上げる。男の子と母親のいる場所から離すように車体を向こう側に押しやり、それからそっと地面に降ろした。
それまで口々に話をしていた人々が口をつぐむ。あたりがしんと静まる。
どこか遠くの方からサイレンが聞こえ始めた。
救急車……? よかった……早く手配がついたのだ。
女性がふらふらと立とうとし、マリアは手を差し伸べて支えた。女性がマリアの顔を見つめる。肩をつかんで引き寄せ、かすれる声でささやいた。
「逃げて」
「……」
「早く 警備局が来ないうちに……誰かが呼ばないうちに」
マリアははっと我に返った。
人々はマリアから離れるように後ずさる。その場を離れるのを止める人間は誰もいなかった。
大勢の人の見ている前で、自分はテレキネシスを使った。
変異種の能力を見たことのない人でも、自分がやったことが普通ではないと気がついただろう。
後ろをふり向くと、子どもがタンカに乗せられ救急車に運び込まれるところだった。
よかった……あの子はきっと助かる……。
駅の方に向かって早足で歩く。
このままメトロに乗ってしまえば大丈夫だろうか。
とにかくベースに戻って……ううん ベースに戻っちゃいけないんじゃないかしら——
後ろから複数の足音が近づいてくる。
ちらりと見ると、制服姿が横目に映った。シティ・ポリスではない、ベースの警備局員——
マリアは紙袋をしっかりと抱えて走り出した。
「そこの女性! 止まれ!」
拡声器で呼びながら追ってくる。
「目撃者の証言で、君が変異種であることはわかっている。我々は君を保護するために来た。抵抗せずに一緒に来なさい——」
走りながら角を曲がる時、抱えていた紙袋が腕からすべり落ちた。
ガラスの割れる音。
(ああ せっかくスティーヴのために見つけたのに……)
そう考えかけ、今、自分が直面している現実がまるで夢のように感じられた。
自分は大勢の人の前でテレキネシスを使って車を持ち上げ、顔も見られている。
あの女性が言ったように、誰かが警備局を呼んだのかもしれない。その人はきっと「変異種が一般市民の中にいるのは、変異種本人にも、まわりの人間にも危険であり好ましくない」という機構の説明を信じているのだろう。
でも あの子を見捨てることはできなかった……。
夢中で走り続けたが、もう息が切れている。
このままでは逃げ切れない。
捕まったら——?
どんなことがあっても、スティーヴや仲間たちのことは知られちゃだめ。自分と結婚していたと知られたらスティーヴも疑われる。
すべてがだめになってしまう……仲間たちの未来が……私ひとりのために——
走りながらバッグの中のプラスチックの身分証明書をとり出し、テレキネシスを使って散り散りに裂く。それから携帯電話を破壊し、粉々になったパーツが地面に舞い落ちるままにした。
1人で町に来てしまったことの後悔が頭をかすめる。
(私は考えが足りなくて――そして こんなにも無力——)
角を曲がって細い路地を抜けようとしたところで、警備局の車が道をふさいでいた。追っては後ろからも迫ってくる——
(ごめんなさい スティーヴ——)
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