セリフ詳細


このアトリエでなく「和仁の詩」の部屋に置くべきとも思った()の記事、私たちの偉大なる卑弥呼に捧げます。



 くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏


上の句、大和歌(やまとうた)か?俳句か?狂句(きょうく)か?歌謡(かよう)か?あなたは如何お答えになるだろう?今は大和歌と受けとめているが、初めは狂句と思った私です。


詩は一人歩きすると私は理解していて、詠み手から放たれた詩は読み手の自由に読まれる。読み手は大和歌と理解して構わないし、俳句・狂句・歌謡ほか、読み手の自由に理解されていい。


歌謡と読むときは「くろがねのあきのふうりんなりにけり」とスキャット(Scat)風にすると耳ざわりが好いだろうな。スキャットは直前の記事に書いたギャランドゥと同じ、意味のない音節です。


事実、この句をネット検索して御覧なさい。「耳ざわりのいい句」とする評が目白(めじろ)押し。申し訳程度に季語に触れていても評の骨子(こっし)はスキャット賛嘆かと想わせられるモノが(ほと)んどですからね。


正岡子規が提唱した俳句は各地に広がりファン層も厚くなっていて、児童生徒たちが日本語教育の基礎を養う機会となっているから実に喜ばしい。これは芭蕉も悦んでいるのでないでしょうか。


文字の必要性を痛感しただろう卑弥呼は中国の文字を採りいれた。この文字を宮中の一部に留めておいて良いだろうか?己の秘宝として隠しておきたい思想をお持ちの人はいらっしゃるだろう。


卑弥呼が人々の魂を卑しいまま放っておく思想を微塵も寄せつけなかった事実は具体的で、私たちの指導者は大和歌を代々広めてきているし、江戸時代になると民間に広める役目を自覚した芭蕉がいる。


小学生に「てにをは」を教えるように、民間に高等な大和歌がいきなり理解される筈もなく、芭蕉は発句から入っている。詩の文化が発句で止まるも・さらに進化するも個々人の能力による。


今では「てにをは」抜きの文化を好む世代も増え、言葉の意味も要らない世代まで増えて、心地よいリズムに乗った意味のないCMソングが日本の若者を席巻している風潮さえ窺えるのでないか。


人と人が深く理解し合うには言葉の力を借りるのが確実で、それには表音文字と表意文字のどちらが効果は高いだろうか?酒の力で仲よくなれるのご存知ですね?ムードが高まると即刻ですよ。


勘違いしないでほしい。即刻の好さは何でしょうか?観光客など一元(いちげん)客が相手のバベルの都では即刻性を重視しなければ客は明日には居ない。それで固定客に育てて大事に付きあうには?それは卑弥呼の方式!


言葉に心を籠めて相手に手渡すと言えばいいだろうか!心が籠もった言葉・日本語(表意文字の文化)‥言霊(ことだま)は語る人が籠めますから、語る人と聞く人の心の距離は時間はかかるけれど近づきますよ。


時間を掛けて人と人が理解しあって本当に仲よくなれる。その文化を日本に(もたら)した卑弥呼にちがいない。見知らぬ人と打ち解けあうのはそのための一歩です。その意味で表音文字にも大事な役割りがある。


ムードが盛り上がる流行歌(しか)り。オリンピックの祭典も同じ意味で然り!但し課題はあって、盛りあがって終わりではいけない。今日の友が明日の憎き敵であってはならない。それだけは決して忘れまい。


今日10月3日のお昼前、長野県赤沼地区の「」が話題になっていて、それは私にグッドタイミングの応援歌でしたが、あなた!鐘の音に意味はあるだろうか?あなたは「意味などない」とは言わないと思う。


あの鐘の音にもが入っていました。好い音色だなあ‥とか、鐘の「物理的な反応」を言っているのでありません。鐘を()く人の想いが鐘の魂となって響く。この魂を過たずに受けとめる人を増やしたい卑弥呼の願い。


大和歌・大和言葉には卑弥呼の心が魂となって入っている。くろがねの句に詠み手のどんな思いが入っているか、それは分らないけど、卑弥呼の心を訪ねる想いで接するとき句の意味は自ずと顕われるように思う。


歳時記に風鈴は夏とある。秋に鳴るのは通常でなくて異常なのです。赤沼地区の鐘が鳴ったのは愉しみ用でなく異常を報せているのです。異常を異常と知り、通常を通常と知る常識を人々と共有したかった卑弥呼。


楽しめたらそれでいい、歳時記なんて関係ないと思われてる人はいらっしゃるけど、人と人が心を通わせるための「いろは」かもしれません。それを知らなければ自分の心を開いて語り合おうと思えないかも‥。


秋なのに風鈴が鳴っている、住人にナニかあったのかな?こう捉える切っ掛けを与えている。何も無くても好いじゃないか!?無事ならナニよりだ。人々が互いを気遣いあえる切っ掛けにはなっているけれど、、


蛇笏はもしかして、ナニかを訴えたいのじゃないか?ツイッターを見ても具体的に言えない人は多い。ふざけてるかも知れず、騙そうとしてるのかも知れず、それは分かるが、気づいたとき心を留めて確かめる日本の常識を捨てたくない!


今は卑しい私だが、心は卑しくない。この心をどこまでも・いつまでも届けていく。そうすることで、いつか卑弥呼の境涯へ近づいているに違いありません。卑弥呼の末裔であることを私は誇りに思う。

作品タイトル:ナンでもカンでも好いですか❢ (実在)

エピソード名:卑弥呼/伝承文化

作者名:阿龍門 稜  fudoki

2|社会・思想|完結|33話|57,900文字

正論・正義, 罪~罰, シリアス, 哲学~証言, 仏法~カリスマ, 社会常識, ノンフィクション, 現代群像劇, ファンタジー, 目覚め

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日常のデキゴト...つまりノンフィクションの事件に体当り! 事件といってもアナタ様には何の変哲もない日常の些細な出来ごと‥そうであっても私には重大な事件性が感じられることも多くて、ココを立ち上げております。

管理人に創作性やらあるとも思えず「練習がてらの慣れるため」であれば、先ずはそういったストーリーになれば好いか・・・です。

(ご注意)
文中登場の人物は「現実の人物」であれば別人格として登場します。少々無責任な発言も別人格であれば全て稜(たか)の責任です。ご理解をよろしくお願いします。なお、人物は「敬称略」になっております。

(更新日2021/10/15)