ひとりぼっちの効能

文字数 3,223文字

皆さんは、次に挙げる主人公の共通点をすぐに答えることができるでしょうか? 

アン・シャーリー【赤毛のアン】
メアリ・レノックス【秘密の花園】
ハリー・ポッター【ハリー・ポッターシリーズ】
ジュディ・アボット【あしながおじさん】
ピッピ・ナガクツシタ【長くつ下のピッピ】

 読んだことがある方はもちろん、読んだことはないけれど、物語のタイトルだけは聞いたことがある。あるいは、物語のストーリーもなんとなく知っている。という名前ばかりではないでしょうか?これらの、あまりに有名な主人公たちの共通点はひとつ。全員が「孤児」であるということです。

 グリーン・ゲイブルズの老夫婦に引き取られるために、手違いでやってきた赤毛の女の子も、荒々しいムア~荒野~に立つ屋敷にインドからやって来た「感じのわるい女の子」も、数奇な運命を背負った、額に稲妻型の傷がある魔法使いの男の子も、顔も知らない慈善活動家にいそいそと手紙を書き続ける女の子も、左右色違いの長いくつしたをはき、ごたごた荘なんて名前の家に住む、肩におさるをのせた奇妙奇天烈な女の子も、みんな両親がいない。

 亡くなってしまっているか、もしくはどこか遠くへ行ったきり帰ってこないなんてご両親もいるようです。彼らが持つ「孤児」という共通点は、実は児童文学やファンタジー作品によくある設定で、何も昨日今日に出来上がったパターンではなく、児童文学が栄華を極めた19世紀半ばから現代にいたるまで、ずっとずっと飽きもせず、繰り返されてきたパターンなのです。


 一体なぜ?どうしてかわいそうな「孤児」を主人公にするの?それはきっと、こんな理由から。

 作者からすると、孤児は冒険をさせやすい。それに尽きるのではないでしょうか?例えば私だって、ぬくぬくとした家や両親に守られた生活から、暗くて寒い荒野に出ようなんて思いません。現状に困っていなければ、冒険に出て宝や聖地を見つける必要もなく、今が楽しければ、それ以上なんて望まないのが人間というもの。そりゃそうだ。こたつでミカンを頬張りながら、ヴォルデモートと戦うなんて到底できない芸当だもの・・・・・・。

 さらに、足かせがない分色々な目に合わせやすいとのもありますよね。親ならば我が子に辛い目や危険な目には、出来ればあって欲しくないし、だめだとわかっていながら手を差し伸べてしまうこともあるかもしれない。けれど、孤児にはストーリー上必要ならば、色んな目に合わせることができるのかも知れません。私も親なのでその気持ちわかります。主人公の向こう側に両親の顔が見えたなら、ドラゴンとは戦わせられませんよねぇ。

 それに保護がない分、自分で何でも決められるということもあります。誰と友だちになり、どこで遊ぶのか・・・・・・。「危ないから、そこに行っちゃだめ!」って言われていると、なかなか物語は始まりにくいものです。

さらには、冒頭から感情移入しやすいと言うことも。

 例えば

「主人公はネコアレルギーだけど、ネコが大好きでした」

 という冒頭よりも、

「主人公には両親がおらず、ひとりぼっちでした」

とはじまる方が、子どもが想像しやすいのです。ネコアレルギーでネコが大好な子どもの物語は、大人なら想像力を駆使して読めるでしょうが、半径3キロメートル範囲内で暮らしている子どもたちには、なかなか想像がつかない。それよりも「親がいないんだ。可愛そうな子だな・・・・・・」または、「うるさいことを言わない親がいないのか。ちょっとうらやましいな・・・・・・」と思えたほうが、物語の世界にスッと入り込みやすい。

 ちょっと【長くつ下のピッピ】の冒頭部分を覗いてみましょう。

 スウェーデンの、小さい、小さい町の町のはずれに、草ぼうぼうの古い庭がありました。その庭には一けんの古い家があって、この家に、ピッピ・ナガクツシタという女の子がすんでいました。この子は年は九つで、たったひとりでくらしていました。ピッピには、おとうさんもおかあさんもありませんでしたが、ほんとのところ、それもぐあいのいいことでした。

ー長くつ下のピッピ 
リンドグレーン 作
大塚勇三 訳    
岩波書店ー

 いかかですか?この子の生活にワクワクしませんか?一緒に覗いてみたくなるでしょう?「え?九つでひとり暮らしだって?タダモノじゃーないわね!」と思うってなものです。

次に、ハリー・ポッターが登場するシーンがこちらです。

 ダーズリー夫妻が目を覚まし、戸口の石段に赤ん坊があるのを見つけてから、十年近くがたった。プリベット通りは少しも変わっていない。
【中略】
 居間はまったく変わっていなかった。ただ暖炉の上の写真だけが、長い時間が経ったことを知らせている。十年前は、ぽんぽん飾りのついた色とりどりの帽子をかぶり、ピンクのビーチボールのような顔をした赤ん坊の写真がたくさんあった・・・・・・ダドリー・ダーズリーはもう赤ん坊ではない。写真には金髪の大きな男の子が写っている。初めて自転車に乗った姿、お祭りの回転木馬の上、パパとコンピューターゲーム、ママに抱きしめられてキスされる姿。この部屋のどこにも、少年がもう一人この家に住んでいる気配はない。
 しかし、ハリー・ポッターはそこにいた。

ーハリー・ポッター賢者の石
JK・ローリング 作
松岡 佑子 訳   
静山社―

 この章で初めて、ハリーは意思の持った少年として登場します。この前はただの赤ん坊で、運命に翻弄され、ダンブルドアの命令でダーズリー一家の玄関に置き去りにされたことしか書かれていません。この章では、ダドリーという名のいとこよりはるかにかわいそうな様子のハリーが描かれています。前述のピッピよりも、もう少し上の子どもたちに向けて書かれているためか、かわいそう具合も半端なく、読んだ子どもたち(大人も)は、みんながみんなハリーの味方になるに決まっています。

 そう、ここにも「孤児」つまり「ひとりぼっち」でいることの物語的効能が、しっかりと描かれているのです。

 けれど、注意深く、心を入れてこの「孤児」たちの物語を 読んでみてください。あることに気づくはずです。

 それは、彼らは「孤独」ではあるが「孤立」してはいないのです。

 「孤児」の物語には、本当の両親ではありませんが、必ず「保護者」の姿が描かれています。
【赤毛のアン】のアンにはもちろんマシュウとマリラ。
【秘密の花園】のメアリには、マーサ、庭師のベン、そしてディコンのお母さんが。
【ハリー・ポッターシリーズ】のハリーには、ダンブルドア、ウィーズリー夫妻、シリウス、ハグリット。
【長くつ下のピッピ】ピッピには、天使のおかあさんと王様のおとうさん。
【あしながおじさん】には、あしながおじさんが。

 それぞれほとんど無償の愛で保護しようとしてくれるのです。

 それらの人物は、孤独だった彼らに「愛しさ」を教える初めての人でもあります。人を、友達を、恋人を、心から愛しいと思える心を、身をもって教えてくれる人たち。もちろん彼らは愛しさを教えようなんて思っちゃいません。主人公たちに愛を持って接するから、主人公たちが「愛されている」と感じるのです。それは、彼らが「孤独」を知っているが故、その愛で、人生を切り開いてゆくことができるのです。

 これが、「孤立」であればそこから生まれるのは恨みかもしれません。「孤独」と「孤立」の違いは、関心者がいない事でしょう。関心を持ってもらえない者は、愛しさを感じることが難しい。反対に、ひとりぼっちでいても、関心を持ってくれる人がいれば、寂しくはないのです。

 そう、児童文学という文学はその文章のどこにも「愛しい」と書いていなくても、どの子もみんな「愛される存在」だと教えてくれている文学でもあるのだと思います。
 
 その愛されていることを知るために、孤児の物語はずっとずっと生き続けるのだと思えてなりません。          



 
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