「梨木香歩の庭」を散歩する

文字数 5,412文字

児童文学とそうではない文学の境界線って、どこにあるのでしょうか?

子どもが主人公であっても、それが、イコール児童文学か?と聞かれたら、それは違うと思っています。

児童文学や小説やその他のジャンル分けは、本屋さんが並べやすいように考えられているもので、作家本人はあまり考えていないことが多いというのが本当のところ。

では、児童文学の境界線はどこだろう?と考える時、個人的にはこのことをひとつの指標にして分けています。それは、

「死」を丁寧に扱っているか?

「死」は実はいつも身近にあるものです。子どもを怖がらせてはいけないから語らない。

それは違います。

どの生命体も、生きとし生けるものの最後は「死」なのです。

だからこそ子どもに伝える時は、丁寧に伝えなければいけない。

「死」とは、ゲームのリセットとはまるで別のものなのです。

「死」をこれ以上丁寧に扱った作品があるでしょうか?それは、梨木香歩著「西の魔女が死んだ」。読むたびに、きちんと響いてくれる。宝物のような作品です。

「死」を扱いながらも美しく、色彩豊かに紡がれるストーリー。読むたびに、こんな言葉を思い出します。

―全ての少女は心の中に「庭」を持っている―

これは、心理学者、故・河合隼雄氏の言葉。

静かでいながら、私たちの心の奥の柔らかい場所をぎゅっと掴んで離さない梨木香歩の作品たち。実はそんな梨木香歩の紡ぐ物語の中には、「庭」やたくさんの植物が顔を出します。

その「庭」と植物に焦点を当てて、梨木作品を紐解いてみましょう。


「わたしはもう学校へは行かない。あそこは私に苦痛を与える場でしかないの」

そう言って、主人公まいは田舎のイギリス人のおばあちゃんの家に居候をすることになります。現在で言う不登校のまいを、責めることなく、叱ることもなく、あるがままを受け入れてくれる「おばあちゃん」こと西の魔女。

畑で野菜を収穫し、家のにわとりが生む卵を食べ、身体を使って洗濯をし、シーツをラベンダーの畑に干す。そんなおばあちゃんとの暮らしの様々なことが楽しくなってきたまいは、いつしかこんな風に思うようになります。私もおばあちゃんのような魔女になりたい。

―「おばあちゃん、わたしもがんばったら、その、超能力が持てるようになるかしら」
 おばあちゃんが、思いがけない言葉を聞いたように、まじまじとまいを見つめたので、まいは何だか自分がひどく軽薄なことを言ったような気がして思わず赤くなった。
「そうね、まいは生まれつきそういう力があるわけではないので、相当努力しなければなりませんよ」
おばあちゃんは何か考えながら、ゆっくりと言葉を選んで言った。
「わたし、がんばる」
まいは、破れかぶれのひたむきさで応じた―

 そんな前のめりなまいに、おばあちゃんは、何よりも基礎トレーニングが必要だと諭します。てっきり、座禅や瞑想などの、それらしい訓練がはじまると思い込んだまいは、はげしく気落ちしてしまいました。早寝早起きや規則的に運動することは、まいが一番苦手とすることだったのです。

そんなまいの日常が、おばあちゃんの修行である一定のリズムを刻み始め、心地よささえ感じるように。そんなおばちゃんとの暮らしの中、ときには寄り添うように、ときにははっきりと意思を持って登場するのが雑草とも言えるような草花たちです。

まいが、おばあちゃんの家にやってきてすぐに発見する胡瓜草と呼ばれる野の草。その花言葉は「愛しい人への真実の愛」。

その胡瓜草を見つけた直後、おばあちゃんはこんな風に言います。

―「まいと暮らせるのは喜びです。私はいつでも、まいのような子が生まれて来てくれたことを感謝していましたから」
 まいは目を閉じた。そしてゆっくり深呼吸し、再び開けた。この小さな青い花はなんて愛らしいのだろう。まるで存在がきらきら光っているようだ。まいはその花をそっと両手の手のひらで包むようにした。―

 その直後、まいはママとおばあちゃんとサンドイッチを作るのに、レタスとキンレンカを摘むように言われます。キンレンカの花言葉は「困難に打ち勝つ」。

実は、このサンドイッチを食べるとき、このときのまいがキンレンカを取り除いてしまうのも面白いところ。

 そして、物語の終わりの頃に顔を出す銀龍草。この花の花言葉は「そっと見守る」

雨がたっぷり降り、地が水を吸い込むとき、毎年甦り、太陽は必要ないと言われるこの花を受け取った直後、まいはおばあちゃんからの大きな大きなギフトを発見し、物語は最後を迎えます。

つまり、生きる場所は日向である必要はない。

日陰で、ひっそりと咲く花があってもいい。

おばあちゃんからの最期のメッセージは、タマシイのダッシュツだけではなく、こんなメッセージもあったのです。

おばあちゃんとの魔法の時間を過ごしたまいは、やがて、自分の現実の世界へと戻っていきます。

これは、まさに「ゆきて還りし物語」

トールキンが書いた、ファンタジー作品の金字塔「ホビットの冒険」のタイトルに刻まれた、あらゆるファンタジーの土台を作ってきた言葉です。

つまり、魔法の世界や夢の世界、冒険の世界にどっぷりとつかりながらも、主人公は必ず元の場所に還らなければならないでのす。

ここにも、児童文学の大切な要素が流れているように思います。

それは、「現実を生きること」です。

どんな魔法の世界であろうが、どれだけ楽しい生活であろうが、人々は現実という土の上で踏ん張り、大地を踏みしめて歩き出さなけばいけない。

そんなことをそっと耳打ちしてくれる作品。それが【西の魔女が死んだ】なのではないでしょうか?



そんな作品は他にもあります。
 裏庭
梨木香歩 新潮社


幼い頃、障がいを持った双子の弟・純をなくして以来、照美はずっとひとりぼっち。共働きで忙しい両親が家にいることはほとんどなく、照美を気遣う様子もない。そんな照美は友達の綾子のおじいちゃんから、バーンズ屋敷の裏庭についての不思議な話を耳にする。

―丘のふもとのバーンズ屋敷に何か秘密があることは、当時その辺りの子どもなら誰でも知っていた。―

 そんな言葉からはじまる小説【裏庭】。

―「フーアーユー?」
 それが英語の、あなたはだれ?という意味の言葉に聞こえたのは、昨日英会話教室をさぼったかしら?と一瞬照美は思い、反射的に大声で、
「テ・ル・ミィ」
と応じた。
 鏡の向こうで、一瞬静まる気配があり、それからまたあのこだまのような声が響いた。
「アイル・テル・ユウ」
 そして、鏡の表面に霧のようなものが急に集まったかと思うと、それはふわーっと外まで湧き出してあっという間に照美を包み込んでしまった。―

 「アイル・テル・ユウ―教えよう。君に」

そんな言葉に導かれて照美がテルミィとなり、不思議な裏庭を初めて訪れたとき、山脈の方で、どーん、という打ち上げ花火のような音を耳にします。そして、どこからともなく何十体もの人が集まってきて何かを解体しようとしているのを目にします。

―そこにあったものは、まぎれもない竜の頭だったのだ。ただ、眼窩とおぼしき穴が一つしかなかった。―

「竜」と聞くと、ファンタジーが苦手な方は本を閉じたくなるかもしれませんんね。

ですが、裏庭を自分の心に置き換えて読んでみると、裏庭の内側で起こる不思議なことのすべてが意味のあることばかりに感じられ、ついつい読み進めてしまうのです。

この小説には、三人の少女が登場します。
少女たちの運命は、複雑に絡み合い、それぞれを縛り付けます。

私たちの人生には、選べるものと選べないものがあります。

例えば、今日着る服、明日の献立、明後日のおやつ。

私たちの毎日は、選択肢に溢れていて、時には疲れてしまうことも・・・・・・。

けれども、「私のお父さん」、「私のお母さん」は、残念ながら選ぶことが出来ません。裕福な家庭を羨ましく思ったり、一人っ子である子は、たくさんの兄弟たちに思いを馳せたり。

その選べないものを、どんなふうに生きるか。
これも、児童文学の大切な要素だと思います。

皆さんもお気づきでしょうが、児童文学の主人公には恵まれない境遇に生まれついた子がたくさん登場します。

アン・シャーリーもジュディ・アボットも、そしてハリー・ポッターもみんな孤児。つまり、彼らの生きざまが、丸ごと小説になっている。その生きざまは、全てが「生まれついた境遇を克服する」のではなく、「生きていく環境を克服していく」物語なのです。

この、不思議な裏庭の物語は、望むと望まざるに関わらず、世代に渡って引き継がれるもの。親子というあらかじめ定められた絆。幾重にも幾重にも秘密を覆い隠した裏庭を手入れするために、ファンタジ―という手法を使った、壮大な一家の再生の物語。一度ページをめくりはじめると、もうその手は止まりません。

皆さんも、是非ご自身の裏庭にお散歩に出てみてください。


最後ご紹介するのはこちら。

 「秘密の花園」ノート
梨木香歩  岩波ブックレット

そのストーリーを知らなくても、一度や二度、その名をきいたことがあるであろう【秘密の花園】。【小公女】や【小公子】で知られるバーネットが1911年に発表した物語です。およそ100年の時を流れても、尚読み継がれている児童文学の名作。

この物語の面白いところは、主人公のメアリが全く可愛くないという、非常に珍しい設定の上、性格も愛らしくはありません。出会う人出会う人に「なんといやな子だろう」と思われてしまいます。

―そう、彼女は「かわいく」ありません。それも含めて大人に対しての「媚び」がないのです。これはヴィクトリア朝期、そしてその前後に書かれた児童文学の主人公としては、驚くべきことです。―

【秘密の花園】は、このいやな子と言われる主人公メアリが伝染病・コレラで身内を無くし、住んでいたインドから親類のいる英国に渡るところからはじまります。お屋敷の中に隠された【秘密の花園】をみつけ、屋敷の中で隠されるように生きていた病弱なコリンと出会い、ともに庭を再生させるという物語です。

初めてメアリが庭に入った時、そこに小さな芽が出ているのを発見し、成長しやすいように周りの草を抜いてやります。わがまま放題で育ったメアリがこんな行動を見せたことを、梨木氏はこう語ります。

―メアリは本当に幸福でした。雑草や硬い土で窒息しそうになっていた芽を、いくつもいくつも世話していあげたのです。初めて自分以外の「誰か」のために一生懸命働いたのでした。―

メアリは、インドで両親からほとんど無視されて、メイドに甘やかされて育ちます。自分がしてほしいことをわめき散らしたり、メイドに暴力を振るったりで、愛情とは無縁の少女時代を過ごします。

また、英国での屋敷内のコリンも同じでした。メアリに出会うまで、ずっとずっと隠されて、わがまま放題で育ちます。そして、そこに偏屈な庭師のベン、その三人とは全く正反対の太陽のようなディコンと共に、10年間閉ざされたままの鍵のかかった庭の手入れをするのです。

庭の再生と共に、メアリとコリンに驚くべき変化が現れます。メアリは朗らかになり、他人に対して感謝さえするようになります。「どうせ僕は死ぬのだから」というのが口癖だった寝たきりのコリンの身体にもある事件が起こります。

庭の再生と共に、愛情に恵まれなかった2人の子どもが、同じように再生されて行くのです。100年以上も前に書かれたこの作品が、現代を生きる私たちの胸を打つのは、時代が変化しても、普遍的なものがあるということに気づかされるからではないでしょうか?

ー本を読むという作業は、受け身のようでいて、実は非常に創造的な、個性的なものだと思われます。それぞれが、それぞれの人生という「庭」を作る作業にも似ています。―

この著書中で、梨木氏はそう語ります。

人生という「庭」。

土を耕し、種を植え、水をやり、日当たりまで考える。時には芽吹かない草花もあり、伸びすぎる枝もある。花が咲くまで四季を数えて待ち、花が咲けば実がなるものもある。庭の手入れは、生きている以上永遠に続くもの。

突然の嵐に、全ての植物がダメになることもある。よそ者に庭を荒らされることもある。それでも、生きていくという選択をするために、私たちは今日もスコップ片手に、自分の庭を耕すのかもしれません。

それは、枯れたように見える川に、また水が流れるように。しおれた花の下から。また別の芽が顔を出すように。自分自身しか「再生」ができないのです。

主人公はみな、10代そこそこの子どもたち。無邪気な頃は過ぎたけれども、まだまだ大人の入口にも立てない、思春期を迎えようとする、さなぎのような子どもたちです。

彼らが傷ついた心を再生し、大きく成長するには、太陽の光のような母性と、季節が巡り続けて尚再生する草花の力が必要なのだと、そしてそこに水をたっぷりとやるのが、彼ら自身のチカラなのだと思います。

『秘密の花園』ノートの最後は、こんな言葉で締めくくられます。

―「自分だけの庭」を、育てるために。
それを、秘密の、花園とするために。―

自分だけの心の庭を秘密の花園とし、花を咲かせるのも、美しい庭にするのも、自分次第だということ。 

梨木香歩という作家は、見事な小説の庭師だと、私は思っています。

梨木作品を児童文学だと位置づけてしまうのは、あまりにも勿体なく、大人にも読んで欲しい作品たちなのです。









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