第1話

文字数 2,028文字

目が覚めたら泣いていた。僕は昔からよく涙を流す子供だった。それは何も哀しい子だったり、泣き虫な子供だったからじゃない。鼻涙管閉塞症という病気。
初め聞いた時はそもそも読めない漢字の多い病名に面食らったけれど、大した病気じゃない。ちょっと人より流す涙の量が多いだけ。薬を飲めば涙は止まるし、たくさん流されたからと言ってそんなに困ることはない。
目が覚めて枕を見ると湿っている。よく涎を垂らしながら眠ってる子がいるだろう?それと同じことさ。ようは程度の問題なんだ。
高齢者に多い病気らしいんだけれど、僕は生まれつきそうだった。母さんはおじいちゃんの生まれ変わりなのかもねなんて呑気に言ってたけれど、実際におじいちゃんにあったことはない。僕の生まれる前の年に交通事故で死んだんだ。

橙色の枕には真っすぐに黒い線が引かれていた。また洗濯しなくちゃな。
寝起きの僕はベランダに出て太陽の光を体いっぱいに浴びた。東向きのアパートの二階は午前中の数時間だけ太陽に愛されている。お昼になると南にそびえ立つ15階建てのマンションにすっかり阻まれて冷たい午後を過ごさなくちゃいけなくなる。学校の授業で日照権について習ったけれど、贔屓目に見なくてもここの間取りは善良な市民が要求できる権利のぎりぎりを責めていると思う。日が当たるのは決まってこの時間だけだ。
でもそんなことは僕にはあまり関係のない事柄だった。日光に当たるか当たらないかで揉めなければいけないほど僕は人生に退屈してはいなかったし、きっともしそれが僕にとって重大な問題になったら(例えば光合成なしでは生きられない特殊な体に作り替えられたりしたら)なったできっと同じように悩む誰かが僕の代わりに権利や、幸福や、その他生きる為に必要なものの為に抗弁してくれるだろうと思っていた。
そもそも昼間はだいたい授業かアルバイトだし、帰りは日付を跨ぐことがほとんどだったから住み始めて2年のアパートで平日の昼下がり、今日は部屋が暗いな、なんて考えたことは一度もなかった。あればあるでいいし、なかったらなかったで困らない、周りの物事の多くがそうであるように僕にとっての日照権もその程度の立ち位置をうろうろとさまよっていた。

僕はベランダの鍵を閉めて、こたつ机の上に散らばったルーズリーフを束にして、積み上げられた専門書の山からジェンガみたいに目当ての本を数冊引き抜いた。
表紙が擦れて読めなくなっていたり、随分昔の版だったり、僕の愛読書は欠陥だらけだったけれど、それでも辛うじて落第しない程度には僕の支えになってくれていた。
授業にはたまにしか出席しなかったけれど、法律の授業は嫌いじゃなかった。クラスに何人か友達と呼べる同級生もいたし、アパートから学校までの距離も引きこもりになるほど離れてはいなかった。
それは言うなれば一種の常識のようなものだったのかもしれない。当時仲のいい連中はほとんどがまともに授業を受けていなかったし、大学の方もそんな生徒が山盛り入学していることを事前に見越しているのか、出席点のようなナンセンスなことはしなかった。その代わりに単位を取るのは並大抵のことではなかった。
分厚い専門書に付箋の張られた範囲は縦にしたら僕の親指の長さほどもあったし、テストに教科書の持ち込みなんてもってのほかだった。「学校に来るも来ないも好きにしたらよろしい。その代わり私たちも好きに学校運営をさせて頂きます」とでもいうかのような学部だった。実際落第者も多く、年に学年の4割の学生が2回目の学年を繰り返した。
さっきも言ったけど僕は落第するほど不真面目な学生じゃなかった。そりゃあ友達に誘われたら昼から飲みにも出かけたし、女の子の誕生日には学校を休んでユニバーサルスタジオジャパンにも行った。でも勉強を投げ出したわけじゃない。テスト前には夜鍋して勉強したし―これはものの喩えじゃなく僕は学生時代、試験期間にはよく深夜に一人で鍋を作って食べた。頭を使うと使った時間分お腹がすくようにできているんだ―、そういう時は友達の誘いにも簡単には乗らなかった。

部屋の鍵とポケット六法をナップに詰め込んで部屋を出た。
外には4月の陽気がここらそこらに立ち込めていて、しばらく自転車をこぐと、じんわりとインナーシャツが汗ばんだ。
僕は1年で一番四月が好きだった。新歓、進級、どんな年でも4月は新しいことの始まりを無条件に暗示してくれた。それについ釣られて翌月には裏切られたような憂鬱に苛まれることまで織り込まれているのに、それでも僕は4月を嫌いになれなかった。

京都に来て2回目の春。
鴨川の端の舗装されたサイクリングロードを走りながら水面に反射する日の光を一身に受けた。桜を見に来た観光客で賑わっていなければ、そのままハンドルから手を放して大きく両手を広げたかもしれない。それほどに開放的な気分になれた。
今年こそは何か違うことが起きる。そんな予感が自転車のペダルを勢いづけた。


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