第1話

文字数 958文字

 そのスーパーマーケットに行ったのは祖父の見舞の帰りだった。
 妻の希望で、夕食の惣菜を買うために寄ったのだ。
 明るく広々とした店だった。
 もう時間が遅い。妻に早く買い物をさせるため、僕が子供を見ていた。
 僕は三歳の娘の手を引いて、所在なくパン売り場をぶらついていた。
 何気なく陳列棚から目を上げたとき、通路の向こうでこちらを振り向いた女性と目が合った。
 すぐ咲子だと判った。
 刹那、僕は目を逸らした。
 瞬時の間に目まぐるしく思考した。
 そして僕がもう一度目を向けたとき、咲子の姿は視界から消えていた。
 僕は目を逸らしたことを悔やんだ。
 突然、僕の手が振れた。娘が僕の手をほどいて走り出したのだ。娘の先には買い物を終えた妻がカートを押してきている。妻は笑顔で娘に近づいてくる。
 僕も笑みを向け、妻を待った。
 もし……、また咲子を見かけることがあったら、笑顔で声をかけてみよう。

*

 そのスーパーマーケットに行ったのは祖父の見舞の帰りだった。
 妻の希望で、夕食の惣菜を買うために寄ったのだ。
 明るく広々とした店だった。
 もう時間が遅い。妻に早く買い物をさせるため、僕が子供を見ていた。
 僕は三歳の娘の手を引いて、所在なくパン売り場をぶらついていた。
 何気なく陳列棚から目を上げたとき、通路の向こうでこちらを振り向いた女性と目が合った。
 すぐ咲子だと判った。
 僕は少し躊躇したが、呼び止めた。
 彼女も躊躇したのか、ちょっと間を置いてから振り向いてくれた。
   やあ、やっぱりきみか。
   お久しぶりね。
   何年ぶりだろう?
   可愛いお嬢さんね、何歳?
   三歳、と五ヶ月になるか。
   それじゃ、四年ぶりよ。
   そうか、この子の年齢からか、判りやすいよな。
   奥様はお元気?
   うん、毎日忙しい主婦しているよ。
   そう、あたしの方は相変わらず……
 咲子の唇が止まった。上まぶたが少し上がり困惑の表情に変わった。視線は僕の後ろの方へずれている。
 突然、僕の手が振れた。娘が僕の手をほどいて走り出したのだ。振り向くとカートを止めた妻が立っている。妻は娘には目をくれず、咲子を(にら)みつけていた。
 咲子は、ごめんなさい失礼するわ、と言って背中を見せた。
 また咲子に悲しい思いをさせてしまった。

 ――僕は悔やんだ。  【了】
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