地上を離れた楽園

文字数 4,984文字

 「火星基地より地球へ。地球時間 5月11日22時36分、ガロ博士と助手2名、アブソリュートGB社社員2名を乗せた宇宙船NAP8号が着陸に失敗。ガロ博士を除く他の船員4名の死亡を確認──」




 「ソフィア、聞こえるか」
 滑舌の良い声が、診察台で眠る彼女を呼び起こす。その声に応え、ゆっくりと開かれた瞳は、海に包まれた大地を彷彿とさせる麗しいアースアイ。歳の頃は二十代半ばの知的さが外見にも溢れる女性だ。
 ガウンから出たすらりと伸びる長い手足には皮膚再生シートが貼られ、顔には痛々しい傷跡と痣が白い肌を侵していた。
「……ここ……は」
 ソフィアは幾度目かの瞬きの後、ぎこちなく首を横に向ける。診察台の隣には、比較的小柄な体躯を持つ50歳前後の男性。彼は今ミッションで支給された紺とグレーのボディースーツを着ていた。胸元にはアブソリュートGB社のロゴ。
「基地内の治療室だよ。宇宙船が着陸に失敗して、壊れた船内からローガンが君を運んでくれた。あの事故で助かったんだ、君は本当に運が良い。ああ、僕は地球を出発してからずっと冬眠(ハイバネーション)カプセルで眠っていただろ。あの装置に守られたお陰で、軽傷で済んだよ」
 ただじっと無言で見つめるソフィアに、彼はそのまま言葉を続ける。
「そうそう、ローガンと言うのはG–Ⅱ11に僕が名前をつけたんだ。ここに常駐しているAIロボットだよ。君が眠っている間、僕のとても良い話し相手になってくれてね。彼が地球への報告も済ませてくれた」
 彼女は無言のまま瞳を左右に動かし、室内を見回す。然程広くない部屋の中には、彼ら二人だけだった。治療やオペに必要な道具類は、全て長方体の診察台内部に収納されており、がらんとした薄暗い室内は霊安室にも思えた。
「今回の事故で機体だけでなく、ポートも破損してしまい、基地内のロボット達はポートの修繕に当たっているよ。今は、修繕と君の治療へ優先的に電力を使用している。だから、核分裂発電システムはまだ充分持つが、一応節電モードにしているそうだ。そこら辺の事は全部ローガンにお任せしている。そんな訳で、照明が暗いけど辛抱してくれ。そうだ、寒くはないかい?」
 ソフィアの首に巻かれている体温調節パッドに指を伸ばすと、彼女は反射的に嫌悪感を露わにした。その強張った表情には、動揺と疑心と恐怖と、それから皮膚の奥から薄っすらと滲み出る侮蔑の色があった。
「ソフィア、大丈夫?」
 子供をあやす様に、穏やかな笑みを浮かべる。
「アーロン……」
「事故のショックで精神が不安定なんだろうけど、それにしても随分な態度だね。ラボではいつも親しげに話してくれていたのに」
 わざとらしく愛情を前面に出した彼の表情に、ソフィアの全身に寒気が走った。
「…………あなた、AIと喋ったの」
 長い沈黙の後、ようやく開いた彼女の青紫の唇は、微かに震えていた。
「勿論。君が火星時間で丸3日も眠っている間に、色んな話を聞く事が出来たよ」
 笑顔で話す彼に対し、ソフィアは決して目を離す事なく、ゆっくりと体を起こす。
「そうだ、他のみんなは?! あぁっ!!」
 全身に激痛が走り、ソフィアは思わず悲鳴を上げ倒れ込んだ。
「ううう……はぁはぁ」
 痛みのあまり、着ていたガウンを掴むと胸元がはだけ、手術痕と傷だらけの身体が露わとなる。
「無理しないで。君は助かったとはいえ、大怪我を負ったんだ。暫くはゆっくり休んだ方が良い」
「みんなは?!」
 問い質す彼女から視線を逸らす。その態度から全てを察し、両手で顔を覆うと声に出して泣き始めた。
「ああ、もう、おしまいだわ。何もかもおしまいよ!」
 細く尖った顎から雫が伝い落ちる。その様子をアーロンは冷静に見つめ、壁に背を預けると、腕組みをし語り出した。 
「何故……」
 彼の低い声に、顔を覆っていた手を下ろす。
「何故、君はおしまいだと思うんだ。僕ら2人は助かったんだ。後は、有能な君が何とかしてくれる、そうだろ? 若干20歳で博士号を取得した天才少女さん。更に、君の婚約者レナードは、宇宙船開発のアソシエーションGB社に、病院、学校、それから君が所長を務める研究所を傘下に置くデービスグループの一族。凄いなぁ。ねぇ、ソフィア・ガロ博士」
 眩暈を起した様にソフィアの視界が激しく揺れる。
「……データを覗き見したのね」
 幾度となく激痛に顔を歪ませながら、再び上半身を起こす。彼女がどうする事も出来ないと分かっているアーロンは、余裕の表情で腕組みをしたままだ。
「君達はここに着いたらローガンの設定を変えるつもりだった。僕がデータを見たり、彼に余計なお喋りをさせない様に。だが、残念な事に君を除く人間(、、)は皆死んでしまった。それにしても、有人火星調査で着陸に失敗なんて初めてらしいね。しかも、よりにもよって、僕を乗せた時に限ってこんな事になるとは、ね」
 彼が話に夢中になっている間に、震える腕で体を少しずつずらし、台からゆっくりと降りる。伸ばした足先がようやく床に着き、体重を支えた瞬間、彼女は体を仰け反り、悲鳴を上げた。
「ああぁっ!」
 激雷が鼓膜を破る勢いで体内から放出される様な、経験した事のない痛みがソフィアを襲う。失神しそうになるのを何とか堪え、台に爪を立てしがみ付き、血が滲む程に下唇を噛み締める。
「うう、ぐっ」
「痛み止めが切れているから、相当痛いだろうに。頑張り屋さんだねぇ、ソフィア」
 皮肉をたっぷりと含んだ口元からは嘲笑が漏れる。
「でもさ、僕も痛いんだよ。体の痛みはその内消えてしまう。けど、精神に刻まれた痛みは死ぬまで消えずに僕を蝕むだろう。僕は短命だが、それでも死が迎えに来るその瞬間まで、こんな感情と共存するのかと思うとゾッとするよ」
「ひっ、あっうう! あっっ!」
 悲鳴を上げ、よろめきつつもソフィアは後ずさりをする。
「本当に残酷な人間だよね、君は。よくもあんな研究を続けていたな! 失敗(オフターゲット)の連続であった生殖器のゲノム編集を安定化させる事に成功した君は、ついに家畜人間を作ってしまった。人間の生殖器を持つ豚を作り出し、交配させ、豚から人間の遺伝子を持つ赤ん坊を誕生させる。はははっ、確かに家畜人間だね、これは!」
 彼の下品な笑い声が、狭い室内に轟音の如く響き渡る。
「人体実験は禁止されているが、人間で無いなら問題はない。つまり僕は今回のミッションには打って付けという事だ。僕が人間ではない証拠に、豚は妊娠から3ヶ月ほどで出産する。ゲノム編集豚の体内で育つ僕は、体内時計が人間とはどうしても異なってしまう為、老化がとても早い。だからまだ10歳なのに、この姿、どう見てもおじさんだ」
 両手を広げ、おどけた表情で肩を竦める。
「見た目は老いているが、僕の中身は純粋なる少年だったんだ。僕はずっと、ラボ内だけで生活し、そこが世界の全てで、君は僕の新型(、、)早老症を治療してくれる心優しい担当医だと信じていた。だから、僕の治療の為だと聞かされていた今回のミッションに喜んで参加したのに!」
 ガンッとアーロンが壁を拳で激しく殴りつけ、ソフィアの身体が大きく揺れる。その後の沈黙は、鋭利な刃物の如く部屋中を貫き、狂気に戦慄いていた。 
「ははっ、あははははは」
 突如、静寂を切り裂く笑い声を上げるアーロン。後ろ手にドアの開閉ボタン(治療室だけはドアが手動になっていた)に触れようとしていたソフィアは、咄嗟に手を下ろす。
「凄いなぁ、君は天才的な頭脳だけでなく演技力まで持っているんだから! まんまと騙されていたよ。今回のミッションは僕を救う為なんかじゃない。僕の体を苗床にウィルスを持ち帰る為だったんだろ。4年前の調査チームである研究員サムが何故か(、、、)火星探索から基地に帰還する際、消毒を怠った。その後、同じく研究員であるエマの感染が検知システムによって発覚。火星に棲息するウィルスによるものとされ、エマを隔離し、検査しようとしたが、エマは焼却システムに自ら身を投げた」
 饒舌に話す彼に対し、ソフィアは黙って聞いていたが、顔を上げ、覚悟を決めた瞳を向ける。
「サムは消毒前に、エマの宇宙服を脱がせると抱きついたの。何故、そんな危険な事をしたか。理由は……痴話喧嘩よ。サムとエマは付き合っていたの。でも、エマは他のスタッフと浮気をした。それに激昂したサムは、正常な判断が出来ずあんな行動に出た」
 その事実を知っているのか、予想していたのか。アーロンはわざとらしく戯けた態度をとる。
「へぇー、怖い。で、検査を担当するのがサムと知ったら、さすがのエマもお断りだ。怒り狂った彼に何をされるのか分からない。それで自害を選んだ。でも、会社やラボは、そんな痛ましい事件よりもウィルスを手に入れる事に躍起になった。そうそう、一応人間以外を使う方法も試したみたいだね」
「そうよ。でも、他の動物には感染しなかった。ウィルスをそのまま持ち帰ろうとしたけど、何故か不活化してしまう。だから、今回のミッションはもう最終手段なの」
 アーロンは思わず吹き出し、口元を抑える。顔は激しく赤みを帯び、彼が異常な興奮状態である事が見て取れた。ソフィアは震える身体を両手で抑え、必死に話を続ける。
「火星はハビタブルゾーンにあるとは言え、生命にとっては過酷な環境よ。そんな中を耐え抜いたあのウィルスは特別なる存在なの! しかも、エマは感染したけど、微熱程度しか拒絶反応が出なかった。つまり、人体に受け入れられやすいウィルスだと予想出来る。もしかしたら内在性レトロウィルスになり得るかも……」
 熱弁する彼女に苛立ちが隠せないアーロンは、まだ顔に赤みを残したまま、無茶苦茶に爪を噛む。
「内在性レトロウィルスは、人に感染した後、生殖細胞に取り込まれ、次世代に受け継がれるの。ヒトゲノムに取り込まれたウィルスは、生命にとても有意義な働きをするものもある。もしかしたら、あのウィルスも人体に好影響を齎すかもしれない。だから詳しく調べたいのよ。貴方なら、世代交代が早いから……あっ」
 青白いソフィアの顔が更に血の気を失い、絵の具を塗りたくったように艶を失った白さへと変貌していく。
「エ、エマには悪い症状が見られなかった。だから、きっと貴方も安全な筈……」
「何が!!」
 あまりの怒号に、一瞬何と言葉を発したのかソフィアには理解出来なかった。ソフィアの耳奥で金属が衝突した様な、高い耳鳴りが響いていた。
「何が安全だよ! 何も分かっていないんだろ?! 安全なら自分の身体で確かめたらいいじゃないか!」
「だ、だから人間は妊娠期間が10ヶ月もあって、貴女達は3ヶ月で、成長速度も……」
 声を遮るように、アーロンが再び壁を強打する。
「僕は人間じゃないのか!? あ?! 答えろ!」
 ガタガタと震える足はもはや力を失い、ソフィアはその場にしゃがみ込んでしまった。
「僕は人間だ!」
「うっ、うう」
 答える事が出来ないソフィアは、震えながら涙を零すしか無かった。
「僕は人間だ! 言え! さぁ、早く! 言うんだソフィア!!」
「あ、アーロン……貴方は人間、です」
 ガンッッ!!!
 再び壁を殴りつけた彼の手から、赤い血が迸る。自分の手から滴り落ちる血を眺め、アーロンは呼吸を何とか整えていった。
「と、とにかく、地球からここに宇宙船が到着するまで3ヶ月はかかる。それまで僕らがどう過ごすか、一緒に考えようじゃないか」
 ピクピクと痙攣する顔で何とか笑顔を作るが、最早それは狂気に塗れていた。
「安心して。君を殺したりなんてしない。僕は君と違って命を軽視したりしないから。命とは、どんなものでも尊いと知っている。皮肉な事に、君がくれた本に書かれていたんだけどね」
 アーロンが壁から背を離し、一歩また一歩とソフィアに近付く。
「ゆっくり、じっくり話し合おうじゃないか、人間らしく(、、、、、)。ただ、僕が君を許す事だけは絶対に、無い」
 震えて動けずにいる彼女へ、アーロンは血まみれの手を伸ばす。
「これから3ヶ月、よろしくソフィア」
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