秘密

文字数 3,015文字

「ターナ。こんなことになって、本当に申し訳ない。親父の借金さえなければこんなことには
……。君のことをずっと愛していたのに」
 苦悶の表情を浮かべ頭を下げるアレス。私も事情はよく知っている。借金の期限も一週間と迫っていることも。それを破ってしまったら、私とアレス、どちらの命もないことも。
 だから、私は売られることになった。

 頭を垂れるアレスをいつもの微笑みを浮かべながら思う。私もあなたを愛してるわ。あなたがこの決断を下すのにどれだけ悩んでいたかもよく知っている。だから、私はあなたを恨むことはない。だけどね、アレス。
 離れ離れになるのならば、いっその事、私の胸にナイフを突き立ててほしかった。私を粉々にしてくれれば、あなたへの深い情愛は昇華されて、この胸の奥にある本当の輝きを彼に知ってもらうことができたはずだと思うから。
 そう言いたかった。けれど、声を失っている私は何も言えなかった。

「君の写真を見せたら、色々な人が君を買いたいと名乗り出たんだ。そりゃあ、そうだよな。君の美しさを見たら誰だって、自分のところに来てほしいと思うよ」
 アレスは顔を伏せたが、もうこれ以上の未練はみっともないなと目の下に出来上がっていたクマを色濃くさせて笑っていた。
「その中でも、本当にターナを愛し、大事にしてくれそうな人を二人厳選してみたんだ。明日会う約束をしたから、君も一緒に会ってくれるかい?」
 彼の表情は切なく、目の下だけだった影が顔全体を覆いつくして、胸を締め付けられそうになる。けれど、私はいつも通り微笑んでみせた。


 翌日、その二人がやってきた。
 仕立てのいいスーツを着た髭と脂肪を蓄えた男と、高いヒールと異様なほど真っ赤な唇をしている女だった。遠目からみてもわかるほど二人とも目が濁っている。
 アレスは二人と手紙でのやり取りをしていたのだろうか。実際の二人を見てアレスは驚いたようだが、私は何となく察しがついていた。私を買うなんて言い出す人間はどうせろくなものじゃない。

 二人はターナを見るや否や
「おお! なんと美しい! 白い肌。美しいボディライン、脚線美。私の理想ではないか!」
 高級スーツが台無しなるほどの下品な笑みを浮かべて盛った獣のような声で吠えた。
「本当ですわね。こんなに上等だと思いもしませんでしたわ。早く、綺麗な顔を傷つけてやりたい」
 分厚い化粧を施したファンデーションがひび割れそうなほど顔を歪めて笑っていた。
 獣の匂いを撒き散らす男と虐めたいと豪語する女に、私を渡すことを想像したのだろうか。アレスは先ほど以上に、目を大きく見開き血走っていた。

「夫人、あんたには買わせんぞ。俺が買う」
「おほほ。それは私のセリフですわ」
 獣男と赤い唇の女はゲラゲラと笑っていた。そして、アレスの存在を忘れたかのように二人は値段交渉を始めていた。
「俺は五百だ」
「ならば、私は八百」
「千」
「二千」
 吊り上がっていく数字。こんなやり取りにアレスの顔は怒りのせいなのか硬直していたが、私はなにも感じない。何度も聞いてきた。私はそうやって、いろいろな人の手に渡ってきたのだ。そんな中、まともな人間に出会ったことは一度たりともなかった。みんな目の前にいる二人のような汚れた人間ばかり。男は私が女であることを利用して卑猥なことして、女はその美しさが恨めしいと私の顔にナイフで傷つけた。さんざん虐げられた挙げ句に、飽きられて、傷だらけになった私を躊躇いなく売った。そんな曇った目を持つ人間が、私の本当の価値を知るはずもなかった。それが、人なのだといつしか私は諦めた。

 それを何度も繰り返したある日。
 「もうこいつは、身体もボロボロで売る金にもならない」
 そういわれて、ごみ置き場に捨てられた。もういい。疲れた。絶望する度に、早くこの世からいなくなりたいと願った。そんな時、アレスと出会った。
 傷だらけの私を拾い、薄汚れた私を清めて、丁寧に修復してくれた。美しさを取り戻していく私に彼は、心の底から嬉しそうに笑ってくれた。その目はどのまでも透き通っていて目は心の鏡だったのだと知った。そして、名前もない私に『ターナ』という名前までくれた。幸せだった。これまでの仕打ちは、彼に出会うための試練だったのならば、何もかも恨めしかった運命がひっくり返った気がした。私の胸に秘めた輝きは、彼に捧げるためにあるのだと思えた。

「僕は、ターナを大事にしていただける人ではないと売る気はありません」
 アレスの怒りに満ちた声が響いて、現実に引き戻されると
「ターナだと?」
「嫌だ。こんな石膏像に名前つけてるなんて。気色悪い」
 鼻で笑う男と女の声が重なって、アレスを踏みつけるように蔑んでいた。
 アレスを罵る言葉が許せない。二人を殴り付けてやりたい。けれど、私じゃ手も足も動かない。涙を流したいのに、涙さえも流せない。結局私は彼に何もしてあげられない。
 アレスの肩が戦慄いていた。怒りと悲しみ、憎しみが溢れている。

「あら? でも、あなたお金に困っているんでしょう?」
「せっかく、こいつを買ってやろうっていってるんだ! 貧乏人は引っ込んでろ」

 私が彼らの手に渡ることで、この先の彼の未来にも深い傷となって残るのならば……。
 私は彼の滲んだ瞳を見つめた。アレスがハッとしたような顔をして、弾かれるように私を見た。視線が交わった。初めて言葉が通じた気がした。
 そして、私の真意を汲み取ったかのように彼の透き通った瞳に、分厚い涙の膜が張られていく。光に反射して、揺らめいて、決意した瞳はもう揺れていなかった。

 アレスは、値段争いをしている二人を突き飛ばした。
 元よりアンバランスだった腹に脂肪を蓄えた男とピンヒールは、無様な格好で床に転がった。
「痛いわね!」
「ふざけんじゃねぇぞ!」
喚き散らす声を蹴散らして、アレスは一直線に私のところへやってきた。至近距離にあるアレスの頬には、一筋の涙の道が敷かれていた。
 この先の彼の人生に明るい未来が訪れることを願いながら、その道が消えないように私は満面の笑みを称えた。そして、アレスは私に手を伸ばし、導かれた道を辿るように突き出した。私の視界からアレスの歪んだ顔が、消えていく。

 それでいいの。ありがとう、アレス。他のところに行くくらいならば。あなたの胸の中で永遠に。そして、私の胸の輝きをあなたに。

 私の重たい体はゆっくりと傾き、床に叩きつけられ、原型がわからないほどに粉々に割れていた。
 獣男は私を壊したことに「俺のおもちゃを何てことしてくれたんだ!」と憤慨し、女は「ゴミは自分で処理しなさいよね」と罵るような声を置いて、呆気なく立ち去っていった。
 
 一人になったアレスは粉々になった私をかき集めていた。だが、いくら集めても白い破片や粉ばかりで原型の欠片すらも残っていなかった。アレスの掌からするすると、白い粉が溢れ落ちていく。それを見て、アレスは泣いていた。大粒の涙が落ちていく。その度に粉々になった白い砂が掻き分けられていった。
 それを何度も何度も繰り返したその時。私の中に埋もれていた本当の輝きを見つけて、アレスは目を見開いた。震える手で、燦然とした輝きに手を伸ばす。

 やっと私を見つけてくれたのね。見つけてくれてありがとう。

 アレスの手の中のダイヤモンド。
喜びに打ち震えるかのように眩い輝きを解き放ち彼の手の中に収まっていた。
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